表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そこにフルタはいません (上)  作者: 美祢林太郎
2/19

1 散歩のおともにトイプードルを

 日曜日の午前、とはいっても正午になる少し前だ。フルタは呼び鈴で起こされた。薄いカーテンを通して日の光が差していた。呼び鈴に条件反射で「はーい」と伸ばした返事をし、パジャマ代わりに着ているジャージ姿のまま、薄っぺらい入口のドアを開いた。外から眩しい春の日差しが入ってきて、フルタは目を細めた。

 逆光の向こうに警官が立っていた。それは制帽と制服のシルエットから容易に見て取ることができた。警官は「お休みのところ失礼します」と丁寧に挨拶した。かれは近くの交番の巡査で、ハナヤミツオと名乗った。目が慣れてくると、かれは警官になりたての、初々しさを醸し出していることがわかった。低姿勢の物言いと態度に好感が持てた。

 その警官が言うには、最近、近隣住民から不審な人間がいるとの通報があり、近所に情報を聞いて回っているとのことだった。フルタには、もう少しこの話を聞きたいという好奇心がもたげてきた。かれはこれまで警官と話をしたことがなかったので、ハナヤと名乗る警官は優しそうなので、話をするいい機会だと思った。三月も終わりだというのにまだ空気が冷たかったので、ハナヤにドアを閉めてもらった。部屋に上がってもらおうとも考えたが、初対面の警官に上がってもらうことにもためらいがあった。二人は狭い入口で立ち話を始めた。

 フルタがどういう事件かと聞くと、まだ事件にはなっていないと言う。不審者がいた、という通報があっただけなのだという。不審者は通報者の主観でしかなく、そうした不審者がいたからと言って、それは事件を意味してはしない。それでも、警察としては市民からの通報に実直に対応しなければならないらしい。警官は暇なのか、と聞こうと思ったが、それは失礼に思えたので、口には出さなかった。

 話を聞くと、通報してきたのは女であったが、その女が直接不審者を見たわけではないし、ましてや被害にあったわけでもないことがわかってきた。彼女の小学生になる息子が一人で下校していると、後ろに不審な男がいたというのである。不審者と自分の距離がだんだん近くなってきたので、息子は早足になったが、それでも距離はどんどん近くなってきたそうなのである。息子は恐怖を覚えながらも、後ろを再々振り返ったそうなのだが、男は口元に笑みを浮かべて近づいてきたそうなのだ。途中、道が二股に分かれていたが、男は別の道を行かずに息子の後をついてきたという。周りには誰もいなく、辺りは段々暗くなっていき、子供は恐怖心が高まって、心臓が激しく鼓動し、あやうく声を上げそうになったそうだ。ここらのリアルな描写は、少し警官の脚色が含まれているのではないかと思われた。迫真に満ちていたからだ。子供が勇気を振り絞って全速力で走り、五十メートルくらい走ったところで止まって後ろを振り向くと、そこに男はいなかった。子供は家に帰って、泣きながら親に一部始終を話した。翌日、母親は学校に行って子供から聞いた話をし、母親が一人で派出所に来て、不審な男を捕まえて欲しいと訴えたのだそうだ。

 冷静に考えれば、いや冷静に考えなくとも、これは何の事件でもない。事実としては、帰宅途中の小学生の後ろに男がいただけの話である。不審なという言葉を選択したのでややこしくなるのであって、あえて言えば見知らぬと言った方が適切であると言える。不審者と見知らぬ人とでは、大きく意味合いが違ってくる。子供が知っている大人なんて、たかだかその人数は知れている。知らない人の方が圧倒的に多いのだ。追いかけてきたと言うが、子供の歩幅よりも大人の歩幅の方が倍以上大きくて、速度もずっと早い。その男には必ずしも追いかける意志があったわけではないのかもしれない。男がにこっと笑ったというのも、子供の恐怖心を和らげようと気をきかせ、にこっとしただけなのかもしれないではないか。二股に分かれた道で子供と同じ道に進んだからと言って、もともと男が進む道と同じだったのかもしれない。公道は決して子供専用の道ではないからだ。子供は普段から教師や親から、見知らぬ人に声をかけられても返事をしないようにと注意されているので、勝手な被害妄想が頭の中を駆け巡ったのかもしれない。子供たちにこうした性悪説を吹き込むことが、不安な社会を助長しているのではないか、とさえフルタには思えてくるのだった。フルタは「子供が知らない人をみんな不審者扱いしたならば、我々おとなはおちおち道も歩けませんね」、と警官に言った。

 「おっしゃる通りです。見知らぬ人をすべて悪人だと思え、というのは行き過ぎた教育だと思います。ですが、警察としては親と教育論を戦わせるわけにもいきません。警察は親から言われたら、黙って動かざるを得ない時代です。ここはご理解のほど、よろしくお願いします」

 「我々もうかうか散歩ができなくなりましたね。すぐに不審者になってしまいますからね。知らない人イコール不審者ではないでしょうに」

 「ご説ごもっともです。でも、最近では、一人で散歩すると不審者に間違われるので、犬を飼って、犬と一緒に散歩する人が増えているそうなのです。それも大型犬ではなく、トイプードルのような小さくてかわいらしい犬が人気があるそうなのです。これも見てくれですよ」

 「そう言われれば、プロレスラーのような恰幅のいい人が、トイプードルのような小さな犬を連れて散歩しているのを見かけるようになりましたね。どことなく微笑ましいですけどね」

 「そうでしょう。散歩するのもいろいろと大変な時代になりました。夫婦や恋人同士ならいいですけどね。もちろん女性同士でもいいですが、男性同士だとやっぱり怖がられますね。彼女を見つけるよりもトイプードルを買う方が手っ取り早いですからね」

 「まあ、そうでしょうね。ところでこの辺りに不審者は多いのですか?」

 「いえ、そんなことはありません。今回が初めてのケースです。過剰反応というか、テレビなどの影響もあって、うちの街も人並みの街にならなければ、という心情が働いているのですかね。どこの街にも一人くらい不審者がいないと、一人前の街とは言えない社会状況ですからね。いいことか、悪いことか」

 「滑稽な風潮ですね。とにかく、ごくろうさまです。色々と教えていただきありがとうございました」

 「いえ、いえ、これが我々警察官の仕事ですから。ところでお名前と年齢、勤務先を教えていただけないでしょうか。いえ、これはみなさまにお聞きしていることで、今回のこととは関係がありませんから。今回の不審者相当の人は、年齢が50歳くらいだったそうですから、ご主人様とは全然違いますよ。でも、子供が言うことですから、年齢もあてにはなりませんけどね」

「子供におとなの年齢はわからないかもしれませんね」

「子供は、赤ちゃん、小学生、中学生、おにいさん、おじさん、おじいさんの6段階の区別しかできませんからね。年齢を聞いてはいけないんですよ。あえて聞くとするとお父さんと同じくらいか、若いか、年かというような、誰かと比較しての聞き方ですね」

「さすがですね。やっぱりプロです」

「おほめに預かって恐縮です。ところで、お名前と年齢、勤務先を教えてください」

「そうだ、そうだ。でも、警察は住民票などから、我々の情報は知っているんじゃないんですか」

「個人情報保護法がうるさいものですから。知っていても知らないふりをしなければならないのですよ。そこはご賢察のほどを」

「まあ、住民票と実態がずれていることもあるでしょうからね」

「おっ、よくご存じで。たくさんの外国人が狭い部屋に同居している、ってこともままありますからね」

「わかりました。名前はフルタカズキ、古い新しいの古い、ああここに書けばいいですね。年齢は30歳で、独身です。同居人はいません。勤め先はカーディーラーで営業の仕事をしています。あの国道沿いにあるミヨシオートです」

「お車の販売ですか。ずいぶん売れているんじゃないですか。いや、いや、これは余計なことを口走りました」

「他の人はたくさん売っていますが、わたしはうだつが上がらないもので、成績はいつも下の方です。でも、首にならずに働かせてもらっているので、会社には感謝しているんです」

「まあ、あくせくせずにのんびり生きるのもいいものですよね」

「ところで、お巡りさんは何の車に乗っているんですか。いえ、パトカーじゃなくて、自分の車です。よければ今度うちの店にも来てくださいよ」

「乗っているのは軽四です。そうですね。そろそろ買い替えようと思っていたので、いつか寄らせていただくかもしれません。その時は、よろしくお願いします」

「今日は上がってもらわなくて、玄関に立たせたままですみませんでした。店にいらっしゃった際は、きちんとお茶を出しますから」

「ありがとうございます。今日は公務ですので、このように立って話をする方がいいのです。お休みのところ申し訳ありませんでした」

「丁度、起きようとしていたところです。今から一人でカップラーメンでも食べて、花見にでもいきますよ」

「公園の桜、満開でしたよ」

「そうですか。今日は花見日和ですね。一人で花見に出かけます。不審者に見られないように、きちんとした服を着て出かけますか。犬は飼っていませんが」

「どうも、ありがとうございました」


                         つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ