16匹目 本能②
リンドウパートです
「リンドウ、いいか。森の中では残酷なこと全てがに起こりうる。待ってはくれないし、いついかなる時でも自分の命を落とす可能性があると思え」
数年前までリンドウはよく父に連れられ山の中へ狩りの手伝いに入っていた。
普段無口な父親は森の中では多弁になる。といっても「山狩り」としてのアドバイスをする程度でそれ以上のことは語らない。
「お前の夢は?」「最近、友達とはどうだ?」などと親らしいことを口にしたこともなかった。興味がないのではない、言わなくともわかるのだ。
自分は「山狩り」という職についているからこそ露骨に村人から嫌悪感をぶつけられていないが、妻と息子にはそれが向いていることは気が付いていた。
知っていたが止めようとしなかった。
それがこの村だと、それが運命なんだと受け入れているようだった。
母親は涙ながらにこの村から出よう、ここ以外でならどこでもいいと訴えたが、父親は「山狩り」を辞めるという選択肢がどうやらないらしく、そのことでよく揉めていた。
「お前は山狩りになるんだからしっかり頭に叩き込め」
そう言いながら山の事を淡々と教える父親の背をリンドウは不思議な目で見ていた。
山狩りに拘る父親。村のしきたりに忠実なくせに余所者の母親と結婚したちぐはぐな父親。
『山に籠っているから頭がおかしくなったんだ、山神様の気にやられたんだ』と噂する人もいた。
前に一度、山神様について聞こうとしたが、目を逸らしうやむやな答えを返すばかりだった。最後には掌に収まるほどのリンドウの頭を撫でながら小さく「お前はお前が信仰したいものを信じればいい」とだけ呟いた。
考え事をしていると目の前を歩く父親が手を上げ、リンドウの前を塞いだ。
顔を上げるとそこには山猿がいた。狩りの対象ではないが賢く、稀に山に入った人間に向けて石を投げてくる厄介な奴らだ。
避けるべきだと、父親が道を変えようとした時リンドウははっとした。
山猿は小さな子供猿一匹の周りに円を描くようにして五、六匹が群れており、中心にいる猿に向けて石を投げつけているのだ。「キキッ!」と悲鳴を上げながら子猿は逃げ回っているがどこにも逃げ場はなく、また石を投げ付けられていた。
「あ、あれ……」
「ああ、いじめだな」
リンドウは驚いて口を開くが、父親はそれを一瞥しそう言い捨てるだけで歩みを止めようとはしなかった。
「なんであんなこと」
呆然とその景色を眺めるリンドウに父親は振り返る。
無口な父親はしばしどう話そうか考えてから、諭すように言った。
「動物、とくに群れを成す動物はその輪を乱すモノを酷く嫌うもんだ。群れの結束を綻ばせるのは外敵ではなく、内の“異質な存在”だからな」
「で、でもあれは子供じゃ……」
「子供だからだ。きっとあれは前のボスの子供なんだ。新しいボスになって、前のボスの子供を可愛がるぐらいなら自分のを可愛がれってことでああやって前のボスの子供は村八分にあう。そして最悪の場合――」
――コツン
聞き逃しそうな程小さいのに、リンドウにとっては腹に響くほどの衝撃を与える。
石が子猿の頭に当たり、小さな体は地面にぐったりと横たわり動かなくなる。
周りの猿達は興奮気味にキャッキャと鳴き声を上げ、飛び跳ねてお祭り騒ぎ、とでも言うべき鳴き声にリンドウは頭が痛くなってくる。
「殺すことになる」
視界が大きく歪む、気が付けば思いだしたくもないような顔が目の前にあった。
『なぁ、お前、生きてて楽しいのか?』
意地悪く笑う顔が、その声が、猿たちの声と絡み合う。
頭を振っても消えないノイズにリンドウは涙をためて地面に座り込んだ。
父親はそんな息子のことを動揺もせずに見下ろす。哀れみが浮かぶその目にリンドウは今度は一人の少女を思い出した。
数年前まで一緒に遊んだ、少女。
綺麗な顔をして、リンドウを差別しなかった彼女。
いつも悲しそうな目でリンドウを見つめてきた彼女が父のそれと被る。
村の人たちからはまるで道端に転がっている虫の死骸でも見るような目で見られていたが、彼女だけは別だった。
ある時、呟いた「いつか、この村を一緒に出よう」を呆れられるくらい信じるほど、彼女の事を味方だと思い込んでいた。
しかしある日、少女は泣きながら待ち合わせの遊び場にやってきた。どうしたのと聞いても泣きじゃくるだけで理由は答えてくれず、その日は結局訳が分からないまま慰めて終わってしまった。
その時はわからなかったが、何日もしてから彼女の親から電話で「二度と子供に近づかないでほしい」と言われて知った。
やはり自分の友達など、この村にはいないことに。
「リンドウ」
あまり背は高くないが恰幅のいい父親を見上げる。
「人間と動物の違いはな、“悪”を“悪”と理解しているところだ」
父親はそう言った。
子猿の死に騒いでいる山猿達は心を痛めない、これが悪いことだと思えない、そもそも“悪”を知らないのだから。
でも人間は違う。この無力な猿の死を嘆き、こんな悲痛なことが二度と起こらないように願い、はたまたそれを未然に防ごうとする。
「人間は分別がある」
そう呟いた父親はすでに背を向け、山を進んでいた。
それが希望だ、と言いかけたその口は結局音にならずリンドウの耳には届かなかった。
人間は“悪”を“悪”と知っているからこそ、それを正そうとする“正義”が存在する。社会に“悪”が蔓延らないように“正義”が日々履行されていて、そこに属することで平穏な生活が成り立つ。
それが人間というものだ、それが動物と人との違いだ。
父親はきっとそう言いたかったのだろう。
なら、ならば日々リンドウに行われている“悪”はなんなのだ? “悪”を正す“正義”とやらはなんなのだ? いつになれば終わりが来るのだ?
いや、もしかしたら、彼らは“悪”ではなく、自分が“悪”なのだとしたら?
周りと違う、ということがもし“悪”なのだとしたら、毎日受けているあの屈辱が罰なのだとしたら。
いや、それとも――
「何よ、あいついないじゃない」
はっとして顔を上げる。
友達だった少女が社を前に腕を組み、頬を膨らませた。
父親に連れられて森に入ったのはアレが最後だ。あれからリンドウは父親と共に森に入るのが億劫になってしまった。父親も最初は連れて行こうと頑張っていたがそれも虚しく最近は声すらかけられない。
道から外れず社に行くぐらいなら獣もあまり出ないのでどうってことないが、夜の不気味な音が聞こえる今の山から早く下りたいという気持ちが大きくなっていく。
自分のためとはいえ早く儀式を終えて帰りたかったのだが少女は首を振って「アイツ」を待とうといった。驚いた阿保面を拝みたいでしょ? と言われたがそんなことよりも早く山を下りたかった。
「もしかしたらどっかに隠れてんのかな?」
そう言って彼女があたりをふらふらと歩き始めた。社は平らな地面に立っているのだが、ここは人工的に山を切り開き均したところであって少し歩けばほぼ直角な急斜面だ。
明かりも手元の懐中電灯一つで危ないよと、声を掛けようとした時だ。
彼女は急斜面になっている山の縁から身を乗り出し、下を覗いた。すぐ隣の太い木に手をついているから落ちることはないだろうがバランスを崩せばすぐに真っ逆さまだ。
リンドウは一歩、少女に近づいた。
――それとも、人間と動物の違いが『“悪”を知っているところ』であるならば、人を人たらしめるのは『“悪”を“悪”と知りながらも、それを止められない、それを抑えきれない悪逆無道な本能』にあるのではないだろうか?
一歩と、また一歩と近づく。
リンドウの脳裏に様々な記憶が蘇る。
何度も殴られ、何度も蹴られ、涙が枯れ果てるほどの地獄のような日々。
痛みも、悔しさも、全ての理由を穴を穿つほど自問自答を繰り返し、それを麻酔にしていた救いようのない人生。
突然、差し出された手は温かいというよりも、彼自身を燃やし尽くすほどの熱を持っていた。
真っ暗な道を照らす懐中電灯の白く眩しい光で、何も見えなくなる世界。
喧嘩している蟻に気が付かず、素知らぬ顔でそれを踏みつけた顔のない、昔の友人。
熱い、体が熱い。何がリンドウを突き動かしているのか、明白だった。
リンドウが、今まで抑えつけて、縛り付けて、見ないふりをしていたその本能が、無防備で小さな背中に手を伸ばす。
それは忘れてしまいそうなほど昔に裏切られた怒りなどではなく、もっと安っぽい、幼稚でいて純粋な熱。
まるで子供が蟻の巣をほじくり返すような、そんな邪念のない惨たらしい“悪”がリンドウの心臓を高鳴らす。
――トン
ほんのちょっとの出来心を試すのは、ほんのちょっとの力で事足りた。
振り返ることも悲鳴を上げることもできずに彼女は落ちていく。
――ドクン、ドクン
飛び跳ねる心臓を必死に抑え込む。
初めての感覚に頭が酔いしれる。恐怖と興奮が罪悪感を踏み潰す。
彼女が持っていた懐中電灯が細い明かりの柱を作ってそのままくるくると落ちていく。長く感じる落下音の間に待ちわびた音が割って入る。
――ドサ
永遠にも思えた時間が終わる。
予想以上に地面は下で、光も小さく遠くに見える。いくら目を凝らしても彼女の姿は確認できなかった。生きているだろうか、それとも死んでいるだろうか。自分が起こした事の顛末を知りたくて、気が付いたら斜面を下りていた。
暗い中、滑るように下りていく。服は泥だらけで顔や爪が傷ついて血が出ているがそんなの普段の痛みに比べたらないに等しいものだった。
時間をかけて彼女のところへようやく降り立つと、落ちている懐中電灯を拾い、リンドウは震える手でその頬に手を置いた。さっきまで元気に歩きまわっていた少女の頬はすでに寒い夜の風によって寒く冷え切っており、そこにはもうあの子はいないことをリンドウは理解した。
尻餅をついて天を仰ぎ見た。
空を覆いつくす木々でただ暗い世界。
「はは……」
気が付けば口から乾いた笑い声があふれた。
自分が何をしたか、わかっている。これが許されないことだってわかっている。
それなのに、それなのに――
ひとしきり笑い終えると、リンドウはふらりと立ち上がり山を下り始めた。
この辺りは父親と来たことがあるので独りでも大丈夫だ。足元もろくに見ずに、ぼっとした頭で向かったのは家ではなく、学校だった。
儀式を最後までやろうと思ったのだ。やらなければならないと、そう思ったのだ。
ゆっくりとした歩調が次第に早足になり、最後には寒空をきって走り出していた。
噂話などに疎いリンドウは同級生達がみんな知っている大神様の儀式がどんなものなのかろくに知らず、社の蝋燭なんて持ってきていなかった。例の姿見の前に辿りついてもどうすればいいのかわからず、なんとなしに言葉を口にする。
「大神様、お願いです、願いを聞いてください」
姿見に頬を寄せて縋った。
ひんやりとした鏡の感触が肌に当たる。この冷たさを知っている。あれと同じだ。
さっき知った、温度のない、柔らかな肌と同じ冷たさだ。
「お願いです。大切なものでも命でもなんでも差し上げます。お願いです」
もっと違う文言だった気がする。でもどうにも思い出せなった。
あの子の顔も思い出せない。
何度も見つめて、何度も笑いあって、たくさんの思い出と一緒にどこかに仕舞い込んで、ついさっきまで、正面にいたはずの顔が思い出せない。
知らないうちになぜだか頬に生暖かい雫が伝った。
「……許してください、お願いです」
絞り出した言葉は、きっと誰にも届かず消えるしかない。
頬を伝う涙に今度は頭が冴えてきた。
何故、あんなことをしてしまったのか理由を聞かれても答えられない。理由なんてないのだから。
ただどうしようもない悪意が頭一杯に広がり、まさに悪魔にでも体を乗っ取られたかのように突き動かされた。
後悔している。
あの綺麗な彼女は、胸を締め付けられるようなあの温もりは、無くなってしまった。
もう彼女は帰ってこない。
そう僕は、後悔している。
僕は、後悔しているはずなのに。
何故、今、心にめらめらと滾る炎がついてしまったのだろう。
今まで散々自分に嘘をついて知らんぷりしてきたのだが、それでも無視できぬ程に燃え上がるその炎に思わず目を奪われた。
まるで心臓を鷲掴みされたような、頭をぐちゃぐちゃに撃ち抜かれたような衝撃がリンドウを支配する。
あぁ、僕は今、どうしようもないくらい生きている。
なんて哀れで惨めに、狂ってしまったのだろう。
そっと鏡から手を離した時だ。
「いいよ」
ゆっくりと歯車は音をたてて動く。
「約束して」
そう言って差し伸べられたその手は、蟲のものだった。




