16匹目 本能①
「いや、参った参った」
そう言いながら、パーシーは社に戻ってきた。
頭を掻いて、やれやれと首を振ってはいるがその胡散臭い笑みは絶やすことはなかった。
「君らの所のエースはさすがの強さだね。ちょっとくらい人を喰ってきた蟲じゃ全く歯が立たなかったよ。あれが噂に聞いていた“完全なる蟲”か。しかもあの能力、私ですら手こずるどころか気を抜けば即座に彼女の腹の中だ」
パーシーは自分より森に詳しい双子にフェイを追わせており、そこにルナが合流したのを見かけ、好都合だとばかりに成り行きを見守っていたのだ。研究に犠牲は付き物、双子が彼女に喰われると知っておきながら助ける気など毛頭なかった。
「な、何してるんっすか?」
縛られているロイの隣によいしょとしゃがみこむと、何を考えているのかその縄を外し始めた。戸惑うロイを余所にパーシーは縄を解き終えると立ち上がりロイの腕を引っ張り立ち上がらせた。
「察するに彼女の能力は幻覚を見せる……だけじゃないね」
ロイは仮面の様な笑顔を張り付けている男に目を見張った。
ルナ達はその特異な性質から蟲狩りでも研究対象とされているが、蟲になった時の当の本人に協力する気が無く、研究成果は芳しくない。
そのため彼女の能力が幻覚だけではないことはつい最近分かったばかりだ。
「あははは、蟲のエキスパートを舐めてもらっちゃ困るなぁ。何千もの蟲を見てきてるんだ、君らとは場数が違うんだよ」
パーシーはちっちっちと舌を鳴らして、指を左右に振った。
「彼女の能力は幻覚を見せる、つまり“視覚を騙す”ではなく正確には“人の感覚を狂わせる”というところにあるんだろう。
彼女が倒した双子はまさに二人で一つ、感情や感覚すらも共有しているような阿吽の呼吸を見せていた。そんな双子がてんでバラバラに違う幻覚を見せられ、騙されていた。人間は確かに視覚から得られる情報に支配されやすいが双子はそれだけじゃ騙されない、双子はもっと根本的なところから偽りだと信じ込まされていた。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のその全て、いやそれ以上を狂わされていたんだよ。つまり――」
トン、とパーシーはロイのこめかみを人差し指で小突いた。
「脳味噌を直接、騙すのが彼女の能力だ」
ロイは生唾を飲んで、目の前のパーシーを見る。
「さて、ここで優秀な君に問題だ。“真実”とは一体何だと思う?」
ロイはトントンとこめかみをリズムよく叩かれ、しかめっ面で返す。
「そりゃ、現実で起きたことじゃないっすか?」
「なるほど? ちなみにリリスはどう思う?」
「どうだっていい」
「はは、君らしい」
さも、興味なさげにリリスは返事をし、パーシーは笑ってまぁいいやと首を振る。
「真実と事実は似て非なるもの。真実とは人間が五感で捉え、脳で考え、導き出された幻で作り出されたお話の事、事実は一つだが真実は人間の数だけある。
なら、その脳が毒され、麻痺して起きていることを刷り込まれたら……
例えば、火がそこにあると錯覚させるとしよう。脳を騙せば視覚はもちろん、焦げる匂いや火花が散る音を感じるだけではなく、」
部屋に所狭しと並べられている蝋燭の一つに手をかざす。蝋燭の灯と一緒にパーシーの顔に影が揺れ、その微笑みに怪しい影を落とす。
「手をつっこめば皮膚は痛みを感じ、皮膚が爛れたと勘違いすればそれに合わせて脳が体に免疫反応を命じる。つまり、事実では火がなく体は無傷だとも、真実では火によって火傷している。これはもう真実によって事実が上書きされていると言っても過言ではない」
パーシーは目の前の蝋燭を吹いて消し、ロイを振り返る。不気味な笑みを深め、瞳に底知れない喜びを浮かべた。
「彼女に為せないことはない、事実がなんだろうが関係ない。あの女狐様の能力が届く範囲では彼女こそが“絶対的な現実”であり、いわば蟲というよりも」
アヴァロン一族としての本能が、蟲の研究者としての血が男に衝動的で貪欲な知的探求心を揺さぶり、抑えることができずに恍惚とした眼差しをして宙を仰ぐ。
「“神”と呼ぶべき存在だ」
―☆―
「ほーれ、逃げるだけでは喰われてしまうぞ」
そんな声が耳に届くが振り返る暇もない。背後から巨大な獣の息遣いが迫って来ている。さっきとなりを通った木々がなぎ倒されていく音が聞こえた。
「にしても飼い主の言うことを聞かないなんてし躾けのなっていない犬じゃのう」
鬱陶しい高笑いが聞こえてくる。しかし、気にかけている暇はない。暗闇の深い森の中でもより一層暗く、目が合えば足がすくんでしまいその間にも鋭い爪に引き裂かれてしまうだろう。
『貴様のことはまだ味方だとは覚えておらんようじゃぞ? なぁ、残念じゃったな。小童』
始まりはほんの少し前、ルナがそう言ってフェイに対してその手を伸ばした時だ。
「おっと」
大きな影が二人の間を遮る。腹の底から唸り声をあげるそれは紛れもなく、フェイの影から生まれた巨大な犬――ハウンドだった。
漆黒の瞳でルナを見つめるが、当の本人はおどけて「怖い怖い」と肩をすくめた。怯えるどころか、この状況を楽しんでいるかのようだった。
「犬とは主人に従順なものじゃ。何千年も昔から人間と生活を共にしてきて刻まれた本能じゃ。ならば、小僧、蟲はどうじゃと思う?」
自分の前に立ちはだかる影を見ながら、フェイは怪訝そうな顔でルナを見返す。美しく目を細める彼女の唇は綺麗に歪んでいる。
「正確に言えば、人に寄生蟲が付いた状態が蟲じゃから、寄生蟲の方をどう思う? と聞いた方が良いかのう?」
「な、何の話を……?」
「寄生蟲はいつから人間と共に生きていたのじゃおろうなぁ。急に増えた十年ほど前のことじゃろうか? それとももっと前の五十年? 百年? それとも犬と同じ本能に刻まれるほど昔からのことじゃろうか?」
ルナは犬の前に手をかざすと、その鋭い牙で思いっきり噛みつかれた。
小さな悲鳴をあげることなくルナは冷めた目でその光景を見ていた。
「正解はのう、数百年生きている妾にもわからぬほど昔から人間と共に生きて生きた。もしかしたら、人間が誕生したその日から、共に生きてきたのかもしれないなぁ」
ルナはハウンドの頭を一撫ですると、ハウンドはゆっくりとその口を開き唸りながらも一歩下った。ルナは愛おしそうに一度微笑むとその腹に遠慮のない回し蹴りを入れた。
蹴られたハウンドは木に叩きつけられ、くぅんと弱々しい声を上げながらヨロヨロと立ち上がった。先ほどの威勢はどこへやら、しおれたその姿に敵意などなかった。
「しかし、寄生蟲の本能は犬の可愛らしい被支配欲なんかはない。人間に寄生することによって刻まれたその本能は――」
フェイはこちらを振り返ったハウンドと目が合う。何も写さないその瞳が一歩また一歩と近づく。
「く、来るな……!」
絞り出した声も聞こえないのか、こちらへ向かう歩みは止まらず、フェイは背後にある木に手をやりながらゆっくりと沿うように後ろへと下がる。
ルナが喉を鳴らすように笑いながらパチンと指を鳴らした。
その瞬間、ハウンドは牙を向けてフェイの喉笛へ躊躇いなく走り出した。フェイは間一髪のところで避けると背後にあった木がメキメキと音をたてながら粉々に砕け散った。
確認している暇はない。
同じようになりたくなければ逃げるほか道はない。フェイは咄嗟にそう判断し、慣れない山道を走り出す。頬を掠める木々の枝を薙ぎ払い、でこぼこした木の根に足を取られながらも必死に山を駆けるその姿を眺める彼女はもう見えない。
「救いようがないほど、非道で卑怯で、目も当てられないような加虐性じゃよ」




