1匹目 大神様
賑やかな子供達の声があふれる校舎も今はただ静かに佇んでいた。辺りには街灯などなく、振り返れば走ってきた畦道がぼんやりと浮かび上がる。
肌に触れる風が冷たい。雪が降ってもおかしくない季節の朝日がまだ登りきらない時間。となれば空気は冷え切っている。寒い中、走ってきたので耳が引きちぎれるぐらいに痛かった。
息を整えるのも程々に校門をよじ登り、ろくな警備システムもない校舎へと難なく入った。木材でできた校舎は歩く度にミシミシと音を立てそれが神経をやたら逆撫でする。
こんな時間に他に人がいるはずはない。独りしかいないはずなのに何かの気配をふと感じ取ってしまう。他に誰かいるのかと振り返ってもそこには何もなかった。
そんなことが何度もあり、居ても立っても居られず走って目的地へ向かった。
そこは屋上へと続く階段の途中。屋上は施錠しているので人通りがないはずなのに何故か踊り場の壁に付けられている大きな姿見の前。
大きな鏡に写し出される自分は緊張した面持ちで、手も足も知らず知らずに震えていた。
――ゴーン、ゴーン
心臓が飛び跳ねた。
二階建ての小さな校舎なので一階にある玄関前の古い置き時計な音がここまで届いたのだ。たしか先生がこの前、何度直しても時間が狂ってしまうとぼやいていた。だからこの時間になってしまったのだろう。
落ち着かない心臓を鎮めるために一度深呼吸する。やらなければならないことがある。自分が馬鹿げたことをしているのは重々承知しているが、これを最後までやり遂げなければならない。望まれた事なのだから。
「大神様、お願いです、願いを聞いてください」
姿見に頬を寄せて縋った。
ひんやりとした鏡の感触が肌に当たる。この冷たさを知っている。あれと同じだ。廃墟にあった剥き出しの鉄筋と同じ温度。殴られて、蹴られて、赤く腫れ上がった顔に痛々しくも心地いい温度。
「お願いです。大切なものでも命でもなんでも差し上げます。お願いです」
もっと違う文言だった気がする。
ああ、なんだったっけ? 鏡がゆっくりとぬるくなるにつれ頭がぼんやりする。昨夜から寝てないからもう限界なのだ。何を言えばいいのか必死に記憶を探るが肝心なことは何も思い返せない。思い出せるのは下品な笑い声、身体中の痛み、浴びせられる罵倒、泣き飽きて色を無くした世界と全てを他人事のように諦める自分。
「……許してください、お願いです」
絞り出した言葉は虚しく消えていった。
本当は誰に謝らなきゃいけないんだっけ?
あれ、本当に謝らなきゃいけないんだっけ?
さっきまでの興奮が嘘のように鎮まっていた。きっと鏡の温度でゆっくりと溶かされてしまったのだ。残ったのはいつも通りの哀れで、惨めで、何もできない自分だけ。
何も変わらない現状にもういいかと意識を手放しかけた時だった。
「いいよ」
静かな声だった。雫が落ちるような、そんな声が頭の上から降ってくる。
「約束して」
屋上へと続く暗闇の中の階段で微かに浮かんで見える少女は、まるで天使の様な顔立ちで、まるで悪魔の様な闇を纏いながら、まるでこの世のこと全てに無関心な人形のようにこちらに静かに手を差し伸べた。




