7匹目 サソリの毒②
「何? この状況」
目の前が暗くなったと思ったら、聞き慣れた声が上から降ってきた。
「ま、マリさん…」
安堵の息が漏れてしまった。血痕が数カ所に残っているが、彼女に自身に傷はない。
いや、正しく言うなら傷はなかった。
今はまさに左の掌がサソリの骨によって貫かれている。それでも全く動じる様子もないマリは呆れたようにこちらを見下ろしている。
「誰です? 貴女?」
急な邪魔者にサソリは怪訝そうにしている。
骨を引き抜こうとしたが、マリが貫かれた左手でそのまま骨を掴んで離さず更に苛々を募らせた。
「ほら、立てるでしょ?」
サソリを無視してマリはロイに右手を差し伸べた。
正直足に力を入るのも難しかったが、マリの手を借りてなんとか立ち上がる。
「あんた、毒食らってんの?」
針は食らっていないがサソリの肉を食い千切った時に口から多少入ってしまったのだろう。蟲のディースですら倒れる毒だ。少量でも人間のロイには影響出たのだ。マリがわざとらしく溜息をつくと同時に体が軽くなるのを感じた。
「ほら、早くディース見つけて子供達を避難させな」
マリは手をぱっと離すと早く行けと手をひらひらさせた。
ロイは「ありがとうございます!」と大声で言うとさっきまでの怪我は全部無かったかのように軽快に走り出した。
「良い加減、離してくれませんかねぇ」
「あんたの喋り方、ウザ」
サソリは顔を引きつらせて、マリごと尻尾を乱暴に振り払う。マリも手を離し、距離を取ってナイフを構えた。
「貴女も人間ではないのでしょう?なのに、随分と傷の治りが遅いのですねぇ」
「まあ、蟲の回復力も個体差があるからね。私の自己回復力はほぼ普通の人間と変わらないわ」
マリは穴が開いたまま治りそうにない左手を煩わしそうに見つめた。手からはボタボタと血が垂れ、傷の周りは毒により青紫に変色していた。
「私の毒は普通の人間なら1分程で全身に周り体の自由が効かなくなります。貴女のその回復力なら最高でも2分程度しか保たないでしょうねぇ」
「充分よ」
マリは力強く地面を蹴り、サソリに一気に近づく。ナイフで切りつけようとするが、避けられてしまう。
「私の毒はねぇ、最初は痺れだけで次第に熱を持って痛みが現れる。その痛みは風に触れるだけでも刃物で何度も刺されるような激痛へと変わるのですよぉ。痛みで人の顔が歪む様を見るのが大好きでしてねぇ」
「おじさん、蟲になって後悔はしてないの?」
「蟲? 私のこの今のわたしのことですかねぇ。後悔なんてとんでもない」
化け物、彼女の言う「蟲」になる前は仕事で人を殺める毎日だった。人を殺すことに快楽なんて知らなかった。ただ仕事として殺していた。手際良く、証拠は残さない。組織の中でも優秀でボスにも気に入られていた。
だが、ある日、気がつくと見知らぬ男がが目の前で泣き叫んでいた。後ろには彼の家族だろうか。女と子供が同じように泣いている。
誰だろうか、そんな疑問よりも自分の血が強く脈打ち、毒でも盛られているかのような高揚感が全身へと伝わった。
何かを懇願しながらこちらを見上げるその視線には畏怖の念が込められており、まるで神にでもなった気分だった。今までだって恐怖に駆られた表情は幾度となく見て方が何故か今日はいつもと違う。
気がついてしまったのだ。
ターゲットでもない人間を、きっと今の今まで幸せで平凡な日々を送っていたであろう人間を地獄の底に顔を押し付けている。
なんと気分がいい。
今までただの殺し屋として特に何の感情にも浮かされず組織の駒として生きてきた自分は、人の上に立ちその生死を握っているのに気がついてしまったのだ。
「感謝してますよぉ。この力で私は好き勝手に人を殺せる。全ては私の思いのままです」
ボスだって命令しているが、内心怯えているのが見てわかった。うまく使っているつもりだろうが、サソリが目の前に立つと緊張しているのがよくわかった。
なんとも面白い。街1番のマフィアのボスが唯一恐怖するのが、この私だなんて。
「なるほど、『天職』だったわけね」
「天職! まさにそれですねぇ。あの日からこの高揚感が抜けないのですよぉ! 生きていることが実感できる! この力のおかげです!」
サソリはマリの左手を捻り上げた。そして、力強く傷口へと指を突き立てる。
「ほら、私にその綺麗な顔が醜くなる様を見せてください。そして私に生を媚びてください!」
「ふふっ」
耳を疑った。左手の青紫は膝にまで侵食し、そこまで毒が回っているのはたしかだ。この段階でこれだけ強く掴まれたら蟲と言えど激痛で悲鳴を上げるはず。
それなのにこの少女は笑ってみせた。見上げてくる顔も嘲るような笑みを浮かべており、混乱で彼女が左腕の関節を自身で外しても直ぐに反応できなかった。
「私も、所謂『天職』なの」
寒気がする程の笑みを浮かべる少女は流れるようにナイフをサソリの左目に突き立て、抉り出した。サソリは痛みで悲鳴を上げつつ、マリから後退りゆっくりと距離をとる。しかし、華奢な少女は外れた左腕をそのままに同じ歩幅で近づく。
「蟲になって後悔する奴も多いのよ。人を殺したくなかった、元に戻してくれって。でも私にもそう言う奴の気持ちがよくわからない」
尻尾で何度も貫こうとするが、彼女は少し避けるだけでそのまま近づいてくる。避けてると言っても、致命傷にならないようにしているだけで毒の付いた骨に頬が、右腕が、脚が切られ、傷だらけになっている。
傷から毒が入り、全身が青紫になっていた。左腕なんぞは綺麗だった肌が爛れ始めている。
「私にとって人の生も死もどうでもいい。生きることなんてつまらない私に『蟲を殺す』って意味を作ってくれたのよ」
それでも止まらない歩みに今度はジリジリと恐怖が背中から這い上がってきた。
醜く爛れても彼女の笑みは絶えない。
月明かりに照らされた彼女は人間とは程遠い、まさに
「ば、化け物っ!」
そう叫ぶと同時に冷たい何かが頬に触れた。
マリが右手で頬に触れている。毒によって熱を持つ段階をとうに過ぎ、今は死にかけているはずの人の肌と思えない程冷え切った手だ。
サソリの毒は死ぬまで痛みが止まない。どんな屈強な精神の持ち主でも最期は早く殺してくださいと懇願する。それ程の毒にも関わらず彼女は笑っている。
答えは唯一つだ。
「痛みを、感じないのか」
「ええ、そう。ただ、痛みを感じないのは生まれた時からそうなの。それが能力じゃない。私の能力はね、」
彼女が触っている左頬が急激に熱くなった。焼けるような熱は次第に顔全体から首を伝い、全身へと広がっていく。そして同時に凄まじい痛みが駆け抜けた。
「傷を触れた相手に移す能力」
目の前の少女の顔が見る見ると元に戻り、それと比例して痛みが増していく。
急激な痛みで声を上げることさえできない。
風どころか空気に触れているだけで痛い。
左腕から不気味な音がなる。関節が外れ、掌には大きな風穴が開いた。
痛みで立てるはずもなく、太陽の元に出されたミミズの如く地面でのたうち回るサソリをマリが見下ろしている。影になっていてどんな表情をしているかわからない。
「実は一番初めに毒だけを移したのだけどやっぱりあんた自身の毒だから耐性があったみたいで効かなかったみたいね。だから、毒で受けたダメージをあんたに移すことにしたのよ。
だから攻撃を避けなかったのはわざとだし、毒で私が死にかけるまであんたを殺さずにいたの」
しゃがみこんでサソリの顔を覗き込む。
その顔にもう醜い爛れは残っていなかった。
「まあ、蟲だから時間が経てば回復するだろうけどね。そうなる前に楽にしてあげる。おじさん、蟲に生まれたこと後悔するんだね」
思わず乾いた笑いが漏れた。
こんな時ですら後悔していないのだ。
全身を蝕む毒が、身体中を巡るこの毒が今でも自分に『死』という高揚感を与えてくれる。救いようがないなと、自分で呆れてしまった。
ーーザシュ
マリは最期に薄気味悪く笑う男の首を刎ねた。
また本編でやると思いますが、マリの能力は正しく言うと「自分の傷を触れた相手に移すこともできるし、その逆もできる」です
ロイの毒が無くなって元気になったのは能力のおかげです




