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踏まれたり蹴られたり

 お酒が入っていたせいか、ここ数日の疲れが出たのか、翌日の朝は携帯のアラームが耳元で鳴るまで目を覚まさなかった。




 親の仇のようにけたたましく鳴る携帯を手繰り寄せてアラームを止め、ソファベッドの上でしばらくどこともなく見つめる。




 窓からさす陽の光が強く今日も暑くなりそうだ。




 あくびをして伸びをして、ようやくソファベッドから這い出す。昨日と同じように全ての準備を整えてからリビングへ行くと、この家の主の姿はそこになかった。




 「ご自由にどうぞ」の書き置きと共にパンやシリアルがテーブルに置かれている。




 もう出たのかと驚きつつ、もそもそと朝食を頬張っていると遠くから携帯の着信音。慌てて部屋に戻って待受に目を落とすとそこには昨夜連絡先を交換したばかりの同僚の名前。




「もしもし?」




 電話に出るとしばらくの雑踏音の後「もしもし石田さん?」といつもより高めの声がした。




『おはよう。よく眠れた?』




「おはよう。うん。おかげさまで。朝ごはんもありがとう。どうしたの?」




 連絡先の交換は念のためだったのだが、初めての電話がこんなにすぐにやってくるとは思わなかった。相手の声が少し遠くて雑踏音が聞こえるということはまだ彼は通勤途中なのだろう。




『あのさ、今日必要な資料を部屋に忘れちゃって。悪いけど出勤の時に持ってきてもらえないかな? 多分ベッドの上にあると思うんだけど』




 言われて内心であららと思いながら部屋を出る。




「ちょっと待って」




 リビングに戻りそこから繋がるさらに奥の部屋のドアを開ける。




「失礼しまーす」




 電話口の相手に一応の断りを入れつつ足を踏み入れたそのベッドルームではやたらと大きいベッドが中央に鎮座していた。




 うわ、おしゃれ。




 リビングとはまた趣の違う青を基調としたモダンな部屋。あまり無遠慮に見回すのも悪い気がしてベッドの上だけに集中する。だが目的のものは見当たらない。




「えっと、見当たらないけど」




 ベッドの周りをぐるりと一周してみるが資料らしきものはやはり見当たらない。




『あれ? ベッドの下とか落ちてない?』




 ベッドの下。少し躊躇ってから膝をつく。男の人ってこういうところに人にはあまり見られたくないものを隠すものじゃないだろうか。




 しかし沙智の予想も虚しくベッドの下に隠されたものなど何もない。さすがに中学生男子のようなことはないか、と安心とも落胆とも言えない気持ちが込み上げる。




 その代わりと言わんばかりにベッド下には紙らしきものが落ちているのが見えた。




「あ、あったかも」




 手を伸ばして引き寄せると書類サイズの白い封筒だ。開いて中を確認する。




「M社関係の書類?」




『そうそう。それ。よかった』




 相手の安堵の声を聞いて沙智もなんとなく安堵する。




「会社に持っていくけど、一応写真撮ってメールしようか?」




 聞くとしかし彼は「それはやめて」と慌てた声を出した。




『流出防止のためにネットと繋がってる端末には絶対入れないようにしてるんだ』




 ああ、なるほど。納得しながら書類を元どおり封筒に仕舞う。




『必要になるのは午後だから、昼に取りに行くよ』




 言われて沙智はギクリとした。二日も連続で会いに来られたらまた女性陣から睨まれてしまう。そういうごたごたは今は絶対に欲しくない。




「いいよ。私が行くよ。忙しいでしょ?」




『でも悪いし』




「いやいや、私の方がお世話になってるし」




 しかしなかなか彼も引かない。何度も「いいよ」「行くよ」のやり取りをしながら、沙智は説得理由をひねり出そうと必死で頭を回転させた。




「私、最近運動不足だから!」




 そして勢いよく発された沙智の言葉に一瞬の沈黙の後、「あ、そう……」と戸惑った彼の声。ようやく押し問答の決着がつき、ぎこちなく二言三言交わして電話を切ると沙智は盛大にため息をついた。




「運動不足って……。営業部隣じゃん。ないわー」




 朝から妙に疲れる電話を終えて沙智は独りごちた。




-----




 会社についてすぐに営業部へ向かうのも不自然な気がしたのでとりあえずいつも通りの午前を過ごす。そして昼休み前、みんなの集中が弛緩し始めたころに沙智はさりげなく席を立った。




「ちょっと席外すね。すぐ戻るから」




 小声で隣席の後輩にだけ告げてカバンから白い封筒を引き出す。しかしそそくさと部屋を出ようとしたところで経理部の最奥から「石田さん」と声がかかった。




「あ、あれ、ごめん。どこか行くとこだった?」




 渋々振り向くと丸メガネの経理部長が目を丸くして沙智を見ている。




「ええ、ちょっと……」




 なんとかうやむやにできないかと笑顔で言葉を濁してみるが、部長はその目を真ん丸に開いたまま沙智に先を促す。




「営業部へ……」




 仕方なく行き先を口にすると「じゃあついでに企画部の山添君にこれ渡して来てくれる?」と一束の書類を差し出された。




 やむを得ず部長のもとへ行き書類を受け取って今度こそ部屋を出る。視界の隅で一部の女子社員が何か耳打ちし合っているのが見えた気がしたが、沙智はそれを必死に振り払った。




「菅原さんいらっしゃいますか?」




 すぐ隣の営業部へ顔を出し、忙しそうに社員が行き交う部内を見回す。が、目的の人物は見当たらない。




「あいつの席そこだから、そこ置いときなよ」




 雑然としたデスクが並ぶ中、入り口付近の社員が指さしたデスクだけが綺麗に整頓されている。




 わかりやすい。




 思いながら近寄りそのデスクに封筒を置き、隅に置かれたポストイットとペンを拝借して一言添える。




 そうして営業部を辞して企画部へ寄り、元いた経理部へ戻ると待ち構えていたのは部長。




「ありがとねー。でね、S社の件なんだけどこっちの資料も足して見積もり計算してくれないかな。悪いんだけど今日中にお願いしたいんだ」




「わかりました」




 先ほどの部長のタイミングの悪さに心の中で愚痴りつつ書類を受け取って自分の席の方を見ると隣席の後輩の姿がない。言いつけた仕事はやってくれる素直な後輩だがすぐにサボるのが彼女の難点だ。




 S社の見積もりの半分は彼女が担当している。おそらく給湯室にいるであろう彼女を呼びに沙智はまた経理部を出た。




 中から数人の女性の声が聞こえる給湯室を前に、やはりここかと戸に手をかけたところで「マジでアイツなんなの?」という苛立った声が聞こえて沙智は思わず固まった。




「あのお局! これ見よがしに営業部に行くとかさー。いつもは私全然興味ありませーんみたいな顔してるくせにさー」




 中から聞こえたその声に、沙智の胸がドクリと不穏に脈打つ。




「昨日菅原さんがアイツに用あって来たの何か勘違いしたんじゃないの?」




 私のことだ。




 そう確信して一度大きく跳ねた鼓動がどんどんその速さを増していく。




「いっつもうちらのこと見下してるよね、あの人」




 そんなことない。




「わかるー。自分には結婚目前の彼氏いますー。あんた達とは違うのよー、みたいな目してるよね」




 そんなこと思ってない。




「あ、でも別れたっぽいよ。彼氏と」




「マジで? え? だからいきなり菅原さんに色目使ってるわけ? こわ」




 そんなんじゃない。




「必死じゃん」




 嘲笑と苛立ちの混じった会話。




 ぐらぐらと視界が揺れている気がする。足元が不安定で今にも沈み込んでしまいそうだ。




 今すぐこの戸を開けて全部否定したいのに、そんな勇気は沙智にはない。




 そっとその場から離れ、ふらふらと自分のデスクに戻る。血の気の引いたまま椅子に座るとデスクの上の携帯がメールの着信を告げているのが目に入った。




『書類ありがとう。あと今晩も遅くなりそうだから後で鍵渡しに行く』




 来ないで。




 心の中で苛立ちにも近い声をあげて、けれど手には返信する力が入らない。




「あ、沙智さん戻ってる」




 無邪気な声につられて顔を上げるといつも隣に座っている後輩の姿。




「これ、どうぞ。沙智さんこのコーヒーが好きでしたよね?」




 差し出された缶コーヒーは確かに沙智がいつも飲んでいるものだ。




「ありがとう」




 何とか笑みを浮かべようとするけれど、顔の筋肉が強ばってうまく笑えない。




 いつも目をかけていた後輩を目の前に、さっき給湯室前で聞いた会話が頭の中に蘇る。




 私が彼氏と別れたことを知っているのは経理部ではこの子だけのはずだ。




「沙智さん、何だか疲れてますか? 根の詰めすぎはダメですよ」




 屈託なく笑う彼女に薄ら寒いものを感じながら、沙智は彼女から目をそらした。

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