天知る神知る彼知る私知る
「ところで今はどこに泊まってるの? まさか実家に帰ったわけじゃないでしょ?」
マスターがおごってくれた一杯を沙智が飲み干したのを見計らったように、それまで静かにしていた親友が口を開いた。
彼女のその問いに「ああ、うん」と曖昧に返事をする。別にやましいことがあるわけではないのだが、彼氏と別れたその日のうちに違う男の家に転がり込んだというのはどうにも外聞が悪い。
「ホテル?」
重ねて尋ねられ、ゆるゆると首を振る。
「同僚の家にお世話になってて……」
答えると彼女は驚いた顔をした。
「そんな仲良い同僚いたんだ?」
「いや、ただの成り行きっていうか……。たまたま駅で会って」
言いながら、沙智は自分の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「そうなんだ……。まあ野宿とかじゃないならいいけど。今夜もその同僚の家? ここから近いの?」
聞かれて「遠くはないよ。K駅の方」と答えたところでふと疑問がわく。
そもそも昨日の夜、彼はなぜ沙智のマンションの最寄り駅にいたのだろうか。あの駅は職場から彼の家までの沿線上というわけでもない。
ネットカフェに行くと言って、実際慣れた様子であの店に入って行った彼の後ろ姿を思い出す。しかしどこの駅でも見かけるチェーン展開のあのネットカフェが本当の目的地だったとも思えない。
あれ、もしかしてあの人、本当はこのバーに来たかったんじゃ……。
ピンと来て思わず口元を手で覆う。
昨夜までほとんど接点のなかった沙智と営業部エースの彼だが、会社以外のところで一つだけ繋がりがあった。
沙智が数年前、隣に座る親友に誘われて参加したこのバーのオープニングパーティーに実は彼も居合わせていたのだ。
しかし沙智は彼の存在に気づいたもののその時はあえて知らないふりをした。そして彼も話しかけてこなかったのでそれで良かったのだろう。
そのパーティー以来たまに顔を出していたこのバーで彼と鉢合わせることがなかったのでそのことはすっかり忘れていた。
「どんな人なの?」
唐突に横から飛んできた質問を理解できずに「え?」と聞き返すと、親友が「同僚の人」と付け足す。
「営業部の人で女子社員にやたらモテて……」
親切で気遣いができるかと思いきや人の事情に土足で踏み込んで来たり無遠慮に痛いとこをえぐってくる人。
そう言おうとしたところで隣の彼女が飲みかけていたハイボールを吹き出した。
「ちょ、待って! 男?」
問われてしまった、ととっさに天井を見上げる。別の考え事をしていて口を滑らせた。
「大丈夫なの、それ? 下心あるんじゃないの? 傷心の女は落としやすいとか思ってる奴じゃないの?」
「いや、ないない。大丈夫! 部屋も別だし、ほんとただの親切心だと思う。だって……」
言いさして口ごもると彼女が怪訝な顔をする。
「だって、わざわざ私なんかを相手にするわけないし……。会社でも若くて可愛い子たちにモテてるのに」
沙智がつぶやくように続けると、彼女は呆れたような顔をした。
沙智がこういう発言をすると彼女はよく「卑屈になるな」と活を入れてくる。彼女の視線から逃れるように首を引っ込めて目の前にいつの間にか置かれていたカクテルを舐める。
「人なんてわかったもんじゃないんだから。気をつけなよ」
しかし彼女は沙智の予想を裏切ってそう言うと、残りのハイボールを飲み干して「禅ちゃんウィスキーコーク!」と勢いよくグラスを掲げた。
人なんてわかったもんじゃない。本当にね。
昨日、今日と痛いほどそれを思い知らされている沙智はカクテルグラスを傾けて笑う。
「それにしても寂しいわ」
運ばれて来たグラスに手を伸ばして彼女が沙智を見る。続きを促すように視線を送ると、彼女は明らかな不満顔をした。
「昨日行くとこなかったなら、すぐに私に電話くれれば良かったのに。そしたらうちにも泊めれたし、なんなら恭平のやつ殴りにだって行ってやったのに」
言われて沙智は「ああ」と唸った。
「沙智のことだから遠慮したんだろうけどさ。こういう時くらい頼ってくれたらいいのに」
落胆を含む彼女の声に、沙智は今日の午後同僚から言われた言葉を思い出す。
『あんまり遠慮されると友達として寂しいってこと』
大事な友達だからこそ迷惑なんてかけたくないのに。心の奥がキュッと締め付けられる。
「ごめん」
素直にそう謝ると彼女は晴れやかな笑みで「次からはちゃんと頼りなさいよ」と沙智の鼻の頭をつついた。
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翌日もお互いに仕事なので適当なところで切り上げマスターに見送られながらバーを後にすると、沙智は昨夜通った道筋をそのまま辿った。
目的の駅で電車を降りてコインロッカーから今朝預けておいた荷物を取り出す。
腕時計をちらりと見て、まさかまだ帰って来てないよね、と心配になったところで後ろから肩を叩かれた。振り向くと疲れ気味の営業部のエース。
「帰り遅かったんだな。残業だった?」
「ううん。友達とちょっと……。そっちは思ったより早かったね」
「相手があんまり飲まない人でさ」
話しながら自然と二人で横並びに歩き出す。その状況がなんだかむず痒くて沙智は下唇を噛んだ。
「そういえばね、今日友達と禅ちゃんのお店に行ったの。ほら、昨日の駅の近くの……」
帰る場所が同じなのでしばらく一緒に歩かなければならないのだが、今まで接点のなかった同僚と話す話題などすぐに尽きる。それでも沈黙に耐えられず、沙智はなんとか話題を捻り出した。
しかしせっかく沙智が見つけた話題に彼はどこかよそよそしく「へー」と薄く反応するだけだ。
「菅原くん覚えてるかわからないけど、一度会ったことあるよね。あのお店で。オープニングパーティーだったと思うけど」
沙智が続けると、「あー、うん」と呟いた彼が苦しそうに笑う。
あ、そっか。
彼の反応を見て沙智は自分が話題選びを間違ったことに気づく。
自分の無神経さを恥じて思わず黙り込み、誤魔化すように肩にかけた大きな荷物を抱え直す。と、彼が何も言わずに沙智からその荷物をさらった。
「あ、あの……」
「自分で持てるよ」と言うか「ありがとう」と言うか一瞬迷ったところで彼と目が合う。
「あの時のことは感謝してるんだ」
彼が静かに言って沙智の荷物を自分の肩にかけて一歩進む。その一歩に二歩で追いつきながら沙智は彼を見上げた。
「石田さん、ずっと黙っててくれたから」
薄く笑った彼の顔が街灯に照らされて美しく映える。
『傷心の女は落としやすいとか思ってる奴じゃないの?』
数時間前に親友があのバーで言った言葉が頭に浮かぶ。
ないよ。それはない。
『だって……』
彼女に言いかけて、言い淀んだ自分の言葉。
親友に誘われて参加したあのバーのオープニングパーティー。マスターが招待した人とその関係者だけが参加できる内輪の集まり。
とはいえ数十人単位で人が入れ替わり立ち替わり店を訪れてはグラスを交わし合う。
皆がお祭りムードで騒がしく、人で溢れかえって耳を寄せなければ隣の人の声も聞こえないような店内。その中で沙智は当時すでに会社の営業部エースだった同僚が恋人と寄り添い合っている姿を見つけた。
あの時、彼と目があった瞬間、薄暗い店内でも彼の顔が青ざめたのを沙智は見逃さなかった。
彼には下心なんて一切ないよ。
『だって……』
彼の隣に立っていた男性が、目を合わせた彼と沙智を見比べて彼の肩を抱き人混みに消えていく。
『だって、彼は男性が好きだから』
初夏の生ぬるい風が沙智の髪を揺らす。
彼が暑そうにネクタイを片手で緩めた。