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三十六計折れるに如かず

 毎週のように週明けすぐの平日は微妙に忙しい。いつもとやることは変わらないはずなのに、週末休んだ分を取り返せと言わんばかりに細かい仕事が舞い込んでくる。


 沙智の携帯がメッセージの着信を告げたのは、その忙しさにようやく区切りが見えて来た定時前。相手は昨日デートした爽やか青年だ。


『返信ありがとうございます。少しお願いがあるのですが』 


 そう始まったメッセージの冒頭に沙智は眉をひそめた。昨夜のメッセージへ返信したら彼から今度はお願いごとが来たようだ。


 しかも彼のお願いごとが何かなんて一つしか思いつかない。


 素早く目立たないようにメッセージ画面を開けてその先を読み、ああやっぱりと頭を抱える。


『よろしければ今度南さんも交えてお食事しませんか? 下重も連れて行きますので四人で』


 めんどくさい。


 真っ先に浮かんだ感想に鼻の頭に皺を寄せる。しかもこの四人となると沙智は完全なる蚊帳の外だ。


 会いたいなら直接連絡すればいいのに。それとも連絡先交換してなかったのかな?


 色々と頭の中で考えて、隣の席で真剣にパソコン画面に向かっている後輩をちらりと見やる。


「沙智さん、ここの部分の佐々木課長の領収書って誰が処理したことになってますか?」


 ちょうどこちらを振り向いた彼女にびっくりして沙智は思わず座ったまま身を引いた。


「どうかしたんですか?」


 不思議そうに顔を覗き込んだきた彼女に「ううん。別に」と慌てて首を振る。


「どの領収書の話?」


 彼女のパソコンをのぞき込んで確認していると、デスクの上に置かれていた彼女の携帯が短いバイブ音を放つ。つられて視線をやってしまい、ディスプレイに映った「下重くん」という名前にどきりと沙智の胸が跳ねた。


「あれ、鈴木さんですね」


 後輩が口にした名前に咄嗟に「え?」と聞き返す。


「この領収書処理したの、鈴木さんです。ここに書いてありました。すみません、お手数をおかけして」


「あ、ああ。そうね。いいのよ。分かって良かった」


 にっこり笑った彼女に取り繕うように笑い返し、席に戻るとちょうど終業時間になったのか他の社員がバラバラと席を立ち始めた。



----------



 さて、なんと返信しようか。


 会社を出ると熱気と湿気に囲まれる。立っているだけで汗が吹き出て来る気候の中、駅までゆっくりと歩きながら携帯を握りしめて思考を巡らす。


 四人で食事なんて正直断りたいところだが、一人ひとりのことを考えると悪い人たちではないので協力したい気持ちにもなる。


 あ、でも南さんは彼氏がいるんだっけ? それなら協力するのもおかしな話かしら。


 考えていると背後から沙智の名前を呼ぶ声。振り向くと後輩が小走りにやってきた。


「沙智さん、お疲れ様です。途中まで一緒に帰ってもいいですか?」


 息を弾ませて近づいてきた彼女の額にもさすがに汗が浮き出ている。それを手で軽く拭うと彼女は可憐な笑顔を見せた。


「さっき下重くんからメッセージが来たんですけど……」


 並んで歩き始めてすぐに彼女が口にした名前に沙智の心がソワリと緊張する。


 まさか、と思っていると彼女は顔を上げてキラキラな笑顔を沙智に見せた。


「今度、下重くんたちと一緒にお食事行きませんか? 向こうは下重くんと賢木さん、こっちは沙智さんと私の四人で」


 うわあ。来た。


 ついつい微妙な顔をして「うーん」と唸る。すると彼女が不思議そうに沙智の顔をのぞき込んだ。


「昨日の賢木さんとのデート、そんなに微妙だったんですか?」


 尋ねられて心の中で苦く笑う。


 微妙も微妙、きっと相手にとってはデートでさえなかった代物だ。


「南さんは行きたいの?」


「そうですね。下重くんのことはもう少し知りたいと思ってましたし、相手の先輩との関係で見える人間性っていうのもありますしね」


 彼女のお目当ては完全に「下重くん」のようだ。この状態で一発逆転はあるだろうか。ネイビーのスーツの彼のことを思うとなんだか切なくなりそうだ。


「でも、南さんて彼氏いなかったっけ?」


 なるべく真剣な声音にならないよう軽く尋ねてみる。こんなところで頭の固いおばさんだと思われるのも不本意だ。


「実は先週別れたんです」


 ところがあっさりそう答えた彼女に「うええ?」と変な声が出る。


「だって彼ってば突然『今の仕事は俺に合ってない。俺は夢を追うんだ』とか言ってギター買ってきたんですよ? 今まで音楽なんて興味もなさそうだったのに。ついていけないですよ」


「そうなの? それはちょっと、残念ね。うん」


 社会人として落ち着くべき年齢の彼氏が急にそんなことを言い出したらきっと沙智でもドン引きして別れる。しかし同時に一年も付き合っていてそんな彼氏だと見抜けないものなのだろうかと不思議な気分にもなった。


 まあでも、私も人のこと言えないか。


 相手が突然予想外のことをするなんてきっとよくあることなのだ。所詮は他人。何年付き合おうが見抜けないことの一つや二つ、あるのだろう。


 ほんの数週間前の自分を振り返って心の中で呆れ、目の前の彼女を少し侮ってしまったことに申し訳ない気持ちになる。


「前から口で言う割に行動力も決断力もなくてちょっと頼りないって思ってたんですけど、まさかなけなしの行動力をそんなとこで発揮しちゃうとは思わなくて……。でも今回のことは別れる良いきっかけだったと思ってます」


 話を続けていた彼女がすっきりした表情をしたのに「そう」と優しくうなずくと、彼女はペロリと舌を出した。


「だから先週の合コンは沙智さんのためとか言い訳しながら実は自分のためでもあったんですよ」


 そうして今度は悪戯っぽく笑った彼女が「なので」と息を吸う。


「私の次の恋のためにもお食事、付き合ってもらえませんか?」


 そう来たか。沙智は思わず上空を見やった。


 一瞬だけ断る理由を考えようとしたが、彼女にそう来られてはもう折れるしかない。覚悟を決めてゆっくり頷く。


「わかった。そういうことなら付き合うわ」


「本当ですか? じゃあ日にち決めておきますね。予定が入ってる日あったら教えてください」


 途端に彼女がパッと顔を明るくさせた。なんだか彼女には最近丸め込まれっぱなしだ。


 少し前とは立場が逆になってしまった気がするが、それでも以前より心地の良いこの関係に沙智は心の中で笑った。

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