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衣嚢から板

 一区切りついたと思っていた週末のデートの件が予想外の展開を見せたのは週末が明けた月曜のことだった。


「石田さん、昨日S駅で男の人と歩いてませんでしたぁ? 彼氏ですかぁ?」


 給湯室でお茶を沸かしていた時に不意に後ろから話しかけられて振り向くと、立っていたのは経理部の後輩。


「砂川さん……」


 勝気な笑顔で目を爛々と輝かせて近寄ってくる彼女に気圧されて沙智は思わず一歩引く。


「石田さんって大学の時から付き合ってた彼氏いましたよねぇ? 昨日の人がそうなんですかぁ?」


 何かと社内外のゴシップに首を突っ込んでは仕入れた噂話に悪気なく尾ひれはひれをつけて流す彼女が沙智は前から苦手だ。


 いつも陰口に花を咲かせている経理部女性陣に積極的に加わることはないものの、彼女らの情報源になっているのもこの後輩だ。


「いや、昨日のは……ただの友達で……」


 唐突のことでうまい言い訳が浮かんでこずしどろもどろになる。


「えー? いくらただの友達でもぉ、休日に男性と二人きりで会うなんて、石田さんの彼氏嫌がりません?」


 沙智の言葉を受けて彼女が大げさに両手を口元に当てて首をひねる。その白々しい様を見て沙智は彼女の意図をようやく理解した。


 ゴシップ好きの彼女が沙智と彼氏の破局について耳にしていないわけがない。きっと彼女は昨日たまたま見た光景を元に新しいネタと、ついでに前の彼氏との破局についても沙智の口から聞きたいのだろう。


「もう彼氏とはとっくに終わってるから関係ないよ。それに昨日の彼はさっきも言ったけどただの友達だから」


 いくらでも誤魔化しようがあるのにわざわざ馬鹿正直に答えてしまう自分に自嘲しながら沙智は急須を掴む。


「え? そうだったんですかぁ? ごめんなさい、私ったら。石田さん、前の彼と長かったからてっきり結婚まで行くのかと思ってぇ」


 わざとらしく悪びれた様子を見せながらもちくりと嫌味を交える相手に冷ややかな笑みを送りながら「別に、大丈夫」と呟く。


 本来ならもっとダメージを受けるだろう彼女の嫌味も今は本当になんとも思えない。驚くほど冷静だ。


「でも、そっかぁ。じゃあ昨日の彼はいい感じの人ですか? わざわざ週末に会うんだからそういうことですよねぇ?」


 いや、だから話聞きなさいよ。


 目をギラリと光らせながら全くこちらの話を聞こうとしない彼女に呆れて口を開こうとしたところで「スナちゃーん」と甲高い声が響いた。


「部長が探してるよ。午後の会議で使う資料まだかって」


 給湯室の入り口から顔をのぞかせた沙智の隣席の後輩が、ゴシップ好きの彼女を目に留めると経理部の方向を指差す。


「あー、やっばぁ。石田さん、またあとでお話聞かせてくださいね」


 そう言い残して給湯室を出て行く彼女の後ろ姿に、助かった、とため息をつく。


 それにしても彼女の中では事実に関係なくすでにストーリーが出来上がっているのだろう。噂話とはこうやってできていくのだ。


「話って何かあったんですか?」


 残された後輩が首をひねったところで「何でもないよ」と手を振ると、彼女はキョロキョロと周囲を見回してから声をひそめた。


「で、昨日の賢木さんとのデートはどうだったんですか?」


 予想だにしなかったその問いに沙智は驚いて彼女を振り返った。その勢いで手にしていた急須からお茶が溢れる。


「何! 何で……」


 知ってるの? と聞くまでもなく後輩はあっさりと「下重くんに聞きました」と答えた。


 「下重くん」は例の合コンの幹事だった人だ。そういえば彼らは会社の先輩後輩の関係だった。


「あ、連絡とってるんだね」


 そんな感想が口をついて出る。同時に先輩後輩で同じ女性を取り合いかあ、なんて考えが頭の中を過ぎる。


「はい、一応。でも未だに食事にも誘ってこないしなんか煮え切らない感じでじれったいんですけどね。まあ私のことは置いておいて。で、どうなんですか?」


 どうなんですか? と聞かれたところで彼の狙いは実はあなたでした、なんて答えられるわけもない。


 そんなの自分が惨めすぎる。いや、それ以前に彼の気持ちを勝手に伝えるわけにはいかない。


「いや、まあどうだろうね」


「どこか決定的に嫌なところでもあったんですか?」


 食いつく彼女に「そういう訳じゃないの」と慌てて否定して、それでも曖昧に言葉を濁す。


「ただ何となくピンと来ないってだけなら連絡を取り続けるのもありだと思いますけど。昨日のデートの後、賢木さんから連絡ありました?」


 問われて、ああ、そういえばと思い出す。哲との一件がずっと頭にひっかかりすっかり忘れ去っていたが昨夜のうちに彼からデートのお礼メッセージは届いていた。だがまだ返信していない。


 ポケットに入れていた携帯を取り出して彼からのメッセージをディスプレイに映し出す。


『今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。またご一緒していただければ嬉しいです。』


 簡潔にそう書かれた文章には特別な好意も嫌悪も感じられない。ただただ事務的に見える。


 やっぱりこの人、私のこと何とも思ってないわ。


 改めてそう確信して顔をあげるといつの間にか後輩が目の前に迫っていた。


「返信しました? メールへの返信は社会人の基本ですよね?」


 にっこり笑った後輩からの迫力にたじろいで「そ、そうね」と頷く。


 言われるままに後輩の監視下のもとで彼に返信メールを送ったその数時間後。


 彼から意外なお願いメールが届いたのは就業時間が迫る頃だった。

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