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弱り目に涙目

 パソコンのwebブラウザを起動させて十数分。とりあえずはこの先数日の宿を確保しようと手頃な価格のホテルをあたってみるが、空室をどうしても見つけられない。




 会社近くや少し離れた駅まで検索してみても出てくるのは赤字に「満室」の文字ばかり。




 躍起になって検索条件を緩めたり範囲を広げてみるが、空室があるのは電車で二時間以上もかかる県外ばかりか、とても払えないような金額の部屋ばかり。




「観光シーズンだし今日から週末にかけてコンサートあるし、今からホテルの予約は難しいんじゃない?」




 頭を抱えていた沙智がもう一度検索し直そうとキーボードを叩き始めると横から水をさすような声が飛んで来た。




 振り向くとそれまで黙って漫画を読んでいたはずの同僚がパソコンを覗き込んでいる。彼の長い睫毛がパソコンからの青白い光を受けて濡れたように光った。




 そういえば有名アーティストの初来日で五日間連続ライブが近くのイベント会場で行われると大々的に宣伝されていた。会社でも何人かライブに行くとはしゃいでいたことを思い出し、沙智は握っていたマウスから手を離した。




 これはしばらくネットカフェにお世話になるしかなさそうだ。諦めてため息をつく。




 実家に帰るという選択肢がないわけではない。が、沙智にとってそれは本当に本当の、あとはホームレスになるしかないという状況まで来てからの最後の手段だ。




 せめて週末に内覧に行くための物件だけでも探そうともう一度マウスを手にすると、パソコンから身を引いた彼が膝の上に頬杖をついて沙智を見た。




「友達に頼んで泊めてもらえば?」




「急に迷惑かけられないし」




 決まり悪くそう答えると彼がその端正な顔にふっと笑みを浮かべた。




「石田さんらしいね」




 馬鹿にされたような気分になって思わず顔を歪ませる。




「彼氏と喧嘩別れでもしたの? そんなすぐに出てけって言われるほど険悪だったわけ?」




 遠慮のないその問いに沙智は閉口した。彼が人の事情にこんなにずかずかと踏み込んでくるタイプとは思っていなかったので驚いたのもある。




「別に喧嘩はしてないけど。ただ浮気されただけ。で、浮気相手に子供ができたって言うから望み通りに家を出てやっただけ」




 半ば投げやりにそう答えると、彼はどこか思案顔になってから首をひねった。




「ふーん……。随分あっさりしてるんだな。大した関係じゃなかったんだ?」




 言われて沙智は思わず彼の顔をまじまじと見た。




 七年間の付き合いが大したことないわけがない。沙智がどれだけショックを受けてどれだけ傷ついているかなんて表面しか見ていない彼にわかるわけもない。だいたいそんなことを彼に言われる筋合いもない。




 腹の中に渦巻く何かの塊が口から飛び出そうになって開きかけた口を一度閉じる。




「菅原くんには関係ないでしょ?」




 ようやく険を含む声音でそう答えると、しかし彼は目を眇めるように沙智を見据えた。




「うん。でもちょっと物わかり良すぎない? 冷静すぎっていうか。なんの文句も言わずに出てきたんだ? 浮気の理由も聞かずに?」




 並べられた言葉に否定も肯定もできずにただ彼の顔を見つめる。彼は沙智を見つめたまま皮肉っぽく笑みを浮かべてシートに背を預けなおした。




「そんな態度取られたら彼氏だって自分が本当に愛されてたか疑問に思うだろ」




 なんで、あんたなんかに……。




 頭の隅がジンと痺れる感覚がする。さっき別れた彼と最後に目を合わせたときと同じ感覚。一度抑え込んだ何かの塊が、さっきよりも勢いよく沙智の喉元にせりあがってくる。




「浮気もそのあたりが理由なんじゃない?」




 言われた瞬間、沙智の目の前が白くはじけた。




「なんで! なんで、あんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!」




 気づいた時には沙智はここ数年出したこともないような大声を目の前の男に叩きつけていた。




「わ、私が、どんな気持ちで家を出たかなんてわかんないでしょ? 私も、私だって、傷ついた! でもあそこで喚いたってなにも変わらないじゃない!」




 白くはじけた視界は今は真っ赤に染まっている気がする。鼻の奥がツンとして目の前がぼやけ始める。




「私だって、こんなことになるなんて思わなかった! なんで浮気なんてされなきゃいけないのよ! 子供ができた? ふざんけんな! 勝手にしなさいよ!」




 知らずに声が震える。それを抑えようと拳を強く握り、その手のやり場に困って沙智はその拳を思い切りパソコンの乗る台に打ち付けた。




「なんで、なんで私が責められなきゃならないのよ! 浮気したのは、あ、あの馬鹿男じゃない!」




 高ぶった激情が脳天を突き破って破裂しそうだ。どうしようもなく腹が立ってやり場のない怒りで心が壊れそうなのに、沙智の脳裏に浮かんだのは付き合い始めたころの彼氏の照れたような笑顔。




「やだ……なんで、なんでよぉ?」




 思い出したその笑顔が憎らしくて、でもどうしようもなく愛しくて、沙智はもうそれ以上は言葉にできずに大声をあげて泣いた。




 溢れた涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっているのはわかるけど、もうそんなこともどうでもいい。嗚咽と過呼吸のような息の速さで今にも吐きそうだ。




 ひとしきり涙を流し、しゃくりあげて少し落ち着くと、目の前の彼がずっと自分を見つめていることに気づいた。さっきと同じ体勢で、でもさっきとは違う見守るような目。




「……何?」




 まだ収まらぬ少しの怒りと気まずさとで居心地が悪い。ガラガラの声でつっけんどんにそう問うと、彼は黙ってポケットの中のハンカチを差し出してきた。受け取って思いきり鼻をかんでやる。




 と、シートの入り口から定員が心底迷惑そうな顔をのぞかせた。




「あの、お客様。他のお客様の迷惑になるんですけど」




 言われてハッと我に返る。こんな薄い仕切りだけでは沙智の怒鳴り声は店中に響いていただろう。




 思い至って沙智は顔を真っ赤にした。こんなんこと、今までしたことないのに。




「すみません、出ます」




 店員にそう告げると、ここにやって来たときと同じように彼は沙智の手を引いた。




 店を出てしばらく二人で無言で歩く。




 先ほど号泣したせいで頭痛がする沙智は今すぐにでも布団に飛び込みたい気分だ。しかし皮肉にも先ほどの出来事で今夜の宿のあては全くなくなってしまった。




 もう何かを考えるのも億劫で、とにかく早いところ落ち着ける場所に逃げ込みたい。別のネットカフェか、こうなったらファミレスでもいい。




 そんな気分で引かれている手を振りほどこうとしたが、意外にも強い力でつかまれていて振りほどけない。




「あの、菅原くん。もういいから。ここで」




 手を引いたまま前を歩き続ける彼にそう声をかけると、彼はちらりと沙智の方を振り向いてまた視線を元に戻した。




「行くあてないんだろ? 今夜は俺の家に来れば? 部屋一つ貸せるよ」




 本日二回目になる彼の意外な提案に、沙智は口をあんぐりと開けた。




「いや、さすがに悪いよ。そこまでしてもらう義理もないし」




 本当にどういうつもりでこんなことを言い出すのだろうか。ただの同僚のプライベートのごたごたなど普通なら関わらずにおしまいだ。しかも彼の場合、優しいのか冷たいのかわからない態度でその意図が見えずに困惑する。




「こんな時に遠慮するなよ。これはさっきのお詫びも兼ねてるから」




 さっきのお詫び。それなら素直に謝ってくれたほうがよっぽどすんなり納得いく。




「でもやっぱりいいよ。菅原くんって付き合ってる人いたよね? 悪いし」




 大学時代から、と噂される彼の恋人の存在。さすがに恋人のいる人の家に転がり込むほど沙智は無神経ではない。




 すると歩き続けていた彼の歩調がゆるまった。おずおずと振り返る彼が視線を泳がせてつぶやく。




「あー、いや、俺も、最近別れたから、大丈夫」




 泳いでいた視線を自分の足元に落ち着かせ、彼は自嘲するかのように笑う。




「あ、そうなんだ……」




 気まずくなって沙智も視線を落とす。




 平日の夜なのに駅裏の飲み屋街の喧騒が沙智の耳につく。はたから見たらきっと二人も飲み屋から出てきてこれからどうするか相談しているカップルに見えるだろう。




「じゃあ、まあ、そういうことだから、行こうか」




 完全に断るタイミングを逸し、また手を引かれるままに歩き出した沙智は、何かを忘れているような気がしてふと視線を泳がせた。




「あ、スーツケース……」




 つぶやくと彼が肩越しに「なに?」と振り向く。




「スーツケース。置き引きされたの。菅原くんに会う前に。警察行かなきゃ」




 その言葉を聞いた彼はぽかんと一拍間を置いて、それから勢いよく空を見上げた。




「めんどくせー」




 ため息とともに吐き出されたその一言に、少しの申し訳なさと一握りのいら立ちを感じながら沙智は口元を歪めた。

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