幕間
瞬間、魔女は自分自身に問う。
楽しいとはどういうことだろうか。――それは哲学的な問いかもしれなかったが、もしかすると誰だって知っているはずの当たり前な事なのかもしれなかった。
笑っているから楽しいというわけではないし、必ずしも満ち足りているそれを楽しいと形容するわけではない。
そして、――好意の反対が嫌悪でなく無関心である、と言えばそれらしいか。眼前に存在する“これ”は、現状に至る人生が楽しくないというわけではないのだ。
そもそも“これ”の現実に、『楽しい』に則する括りが無い。
ならば、ただ動物以下の、それこそ虫のようにいくつかの欲求に直結するような本能だけで生きているのかと言えばそれだって否である。
“これ”には知性があり理性があり、辛うじて『怒り』があった。
ただそれだけで“これ”はどうしようもなく人間だと言いきれてしまう。
人として遜色ない能力を持ち、感受性だけが絶望的に乏しい。他人に対し無頓着で、協調性の意味を正しく理解しておきながら、その上で不必要だと断じる極めて排他的なだけの、そんな人格なのだ。
その起源がどこにあるかは魔女にだってわからないが、感情を取り払い面倒を避け、必要だけをこなしていくその在り方は上辺だけならばまるで機械のようにも見えてしまう。
人が生きていれば順当に得るはずのそれをなんの間違いか取りこぼした欠陥品。
そんなものに、自分が感情を与える。――そう考えた瞬間、不可能だという合理的な思考が遠慮なく囁いた。
(……いや、傾向としては悪くないんだがな)
“これ”は、自ら人間らしくなることを望んでいる。
三年という時間を経て、更に人間らしさを失くした前の“これ”に比べれば、正しい方向性を持って進もうとしているのだろう。それはいいのだが。
(しかし、犬に曲芸を仕込むのとはわけが違うぞ。三年も人の輪に囲まれて色々な物事に触れただろうに、辿り着いた結果がアレだ。なんなら龍王討伐のが簡単なんじゃないか、これ?)
ともすれば、いよいよ突っぱねるべきか。そんな考えも過る。
そもそも、なんて言い出せばこの話の支柱はあくまでも、魔女の力で叶えられる願い、という点にあるわけで、実際に感情を与えられるかどうかは二の次であることを忘れてはいけない。
傾向は望ましい。発想は好感が持てる。方向性は間違っていない。
そんな感性を放り投げ目の前の青年同様に理性だけで判断する欠陥に成り下がってしまえば、自ずと答えは明らかとなる。
(――……『断る』か。ま、そうだろうな)
難しいことなんて考えず、単純な計算問題の様に解き明かした回答は誰にとっても明快で、いっそ何故先ほどまで受ける姿勢で考えていたのか疑問を抱くほどだった。
それは、驚くほどに軽い。――非情に徹する、ただそれだけのことで幾千の問題が簡略化され、あらゆる面倒が遠き霧散すると、残された心が随分と軽くなった気がした。
無論、魔女の場合はその直後に先ほど放り投げた感情が降り注ぎ、重量を与える。同時に、なんの淀みなく弾き出した『断る』という回答に、『だが、』といくつかの反論が立ち上がった。
成長した“これ”を見てみたい、それに付き合うのも面白そうだという大きな好奇心と、長い付き合いということもあって力になれるならばなりたいという親切心。
それと、記憶を奪ったことに対する塵にも満たない罪悪感。
この場においての、魔女にとっての人間性が次々にあらゆる仮定を叫び、心の中に聳え立つ厳かな装飾の天秤に、断った場合に得るものと、受け入れた場合に失われるものを掛けていく。
(例え、此処で拒んだとしたら――)
それは数秒の熟考。
(何も変わらないんじゃないか――)
ゆらゆらと、左右の皿が揺れる。
(だと、すれば――)
逡巡のうちに、魔女は一方へその手を添え。
「――そういうのは、もう止めだ」
意図せず漏れた魔女、逢魔遥奈の肉声。
比類なき感情の重さに耐えかねた天秤ざおの片側が墜落した。
放っておけば“これ”は――尾張希望は勝手に壊れる。
理不尽を前にして、唯一の人間らしさである『怒り』を覚えれない底抜けの空洞となる。
一度あったそれは、二度目を許せるものではなかった。
「放っておいてどうなる? 決定的なきっかけがあったとすればそれでもいいかもしれないが、時間による慣れが悪化させてるとすればまさしく最悪だぞ」
何らかの引き金によってそうなったのか、他人から離れることで麻痺した状態がそれなのか、あるいは生来そういう特色を持っており、この世界に来て上塗りされていたメッキが剥がれたのかはわからない。しかし、今も宙空で流れ続ける惨状を前に、何らかの感想を抱ける今の方が遥奈にとって好ましいのは事実である。
排他的で、時に理不尽。
そして遥奈とは別のベクトルで、尊敬に足る才覚を持った人格。
その喪失を繰り返せと――?
「多少自重する部分はあれど、私は感情に実直な性質だからな。感情も欲求も全てをぶちまける。その上で言わせてもらうぞ。――ふざけるな。そう何度も、この世界程度に私の友人をくれてやるものか」
戒めるように、無数の棘を持った言葉が空気を貫いた。
淡い色の瞳がいつの間にか映していたのは、魔女の家の風景でも、ぽかんと間抜けに口を開けたまま置いて行かれている青年でもない。
それは理不尽の数々だった。
無理矢理に連れて来られ、行き場を失った子供。あるいは突然現れた化け物に襲われ、先に何十年と続いたであろう命を散らした若者。あるいは力あるものに虐げられた多くの弱者。
三年間で目にした夥しい数の悪夢。本来、平和な世界にいたならば見ることも触れることもなかった、粗末な管理によって腐敗してしまった末端。
いちいち気にはしていられない。
だが、気にしないわけがないだろう。
「誂え向きに、私もここ最近『怒り』だけは持て余していたんだが丁度いいはけ口が見つかってよかった。このふざけた世界の現実に、お前という猛火でもって叛逆してやろうじゃないか。幸いにして火種はそこら中に転がっている」
『女神の盾』が連れる少年と、『喧嘩屋』と『戦闘狂』の兄妹を襲った大規模の闇討ち。
既に崩壊した大陸の北側と、尾張希望を探して大陸を巡回するロベリア率いる旅団。
そして、いまも暴れる巨大な、異世界から這い出た獣。
昨日今日だけで希望が耳にしたどれもが何らかの事情を孕んでいるようで、それでなくとも尾張希望の存在自体がここでは相当の熱量を持っているのだから平穏などありえないと悟る。
「差し当たっては――いい加減にうるせえ獣をぶっ飛ばすとこから始めようかね、叛逆者?」
まるで、ゲームを誘うような気軽さで、遥奈は対等に立つ為の手を差し伸べた。
「ここからだ、ここから始めよう。何時までも付きまとい、誰の前にも平等に、何処までも立ちはだかる――そんな理不尽な現実を最悪へと叩き落す為だけの、希望的で排他的な叛逆を」
一週間に一度の投稿になってますねえ…(´・ω・`)




