終わりのない始まりの始まり
ここ二ヵ月のあいだに不思議なことがいくつか起こりました。不思議というより驚きと言うべきかもしれませんが、驚きはその場かぎりのものであり、時間がたてば、不思議に変わるのです。その不思議なことの中で最も平凡なことは恋人ができたことです。それは一般的には不思議ではないとは思いますが、ある偶然のために僕にとっては不思議なことの一つなのです。
ポップソングの歌詞に〈もし君が世界中のみんなを敵にまわしたとしても、僕は君を守り続ける〉という風なものがありますが――それは現実的に考えれば〈君が人を殺めて世間から非難されたとしても、僕はずっと君のそばにいる〉ということですが――僕は恋人にそれほどの気持ちをいだいているわけではありません。もちろん恋人に強い好意を持っていますが、それはあくまでも正気の範囲内であり、恋をしているとは言いがたいです。こんなことを書くと、あなたは僕に悪い印象を持つかもしれません。しかしそれは仕方がないことです。僕はここに偽りなく自分のことを書くつもりなのですから。
これは僕の物語です。僕とあなたの物語ではなく、僕自身の物語です。もちろんあなたも登場人物の一人として出てきますが、僕を中心とした物語になるでしょう。
僕は幼い頃から母と二人で暮らしてきました。母は父のことを教えてはくれませんでしたし、祖父母のことも教えてはくれませんでした。だからお正月もお盆も母と二人で過ごしました。お墓参りに行ったこともありません。
僕は生まれてからつい最近まで、親族と呼べる人は母だけでした。今月の初めまでは、母以外には血がつながっている人を知りませんでした。血のつながりは特に大事ではないかもしれません。血がつながっていなくても、大切な人は特別な人です。しかし大切な人は初めから特別なのではなく、関係を築くことにより特別になりますが、血がつながっている人は初めから特別なのです。血がつながっているという事実を知るだけで、その人のことを特別な存在だと認識してしまうのです。
母はいわゆる不思議ちゃんです。不思議ちゃんと言えば、一般的には若い女の子を連想すると思いますが、若い女の子もいずれは年をとるのです。母が言っていたことをいくつか書いてみます。
「人間は死ぬまで人間だし、鼠は死ぬまで鼠だし、猫は死ぬまで猫だよね。もちろん豚は死ぬまで豚。死んだあとは豚肉」
「ハトをのばすとハートになる。ハト、のばすと、ハート。こんど公園でハトを捕まえたら思いっきりのばしてみなよ。ハートが飛びでるから」
「クラゲはエサを口から食べて、フンを口から出す。神秘的だね」
こんな感じです。こうして書いてみると愉快なように思えますが、母の悪いところは同じことを何度も言うことです。これらのことを初めに聞かされたときには面白く思いましたが、何度も聞かされると辟易します。
とは言っても、僕は昔からずっと母に好意を持っています。それでもいつからか――おそらく十歳前後だと思いますが――母のことを他人に知られたくないと思うようになりました。普通ではない母のことが恥ずかしく思えてきたのです。親が変人であることを劣っているように感じだしたのです。それが思いこみであることを長いあいだ気づきませんでした。それに気づいたのは、知念さんに母のことを話したためです。
知念さんは上品で、ほがらかで、いやみなところがまるでない女の子です。初めて会ったのは、昨年の四月に同じクラスになったときです。僕が通っている高校は県内一の進学校なのですが、その高校では二年生から学力の高い生徒は〈特別進学クラス〉に入れられます。一年生の頃の成績により、二人とも特別進学クラスになったのです。しかし二人は冬まではほとんど接することはありませんでした。修学旅行で同じ班になったのをきっかけに交流が始まりました。
思春期ということもあり、男子と女子のあいだには目に見えない境界線があります。同じ班であろうが、男子は男子で固まり、女子は女子で固まるのです。しかし時間がたつにつれ、見えない境界線は曖昧になっていき、おみやげを買う時分にはそれぞれ打ち解けていました。
「おみやげは食べるものの方がいいよね」と知念さんは言いました。
「そうかも」と僕は言いました。「でも僕はおみやげを買う人は母しかいないから、食べ物より形に残るものの方がいいかな」
「母子家庭なの?」
「うん、母子家庭。兄弟はいないし、祖父母もいない」
「私も母子家庭。でもおじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでる」
おそらく二人が仲良くなった理由は、母子家庭という共通点のためです。お互いに母子家庭の人に会ったことがなかったので、これまでに誰とも共感し合えなかった気持ちを共有できたのです。
僕は少し前まで知念さんに恋をしていました。それは知念さんが僕以外の男と話しているのを見ただけでも胸の中に違和感を見つけてしまうほどの恋でした。それほどまでに惹かれていたのです。
知念さんについて書くことはまだまだありますが、それはのちのち書くことにします。
僕は高校に入学してから先日まで、喫茶店でアルバイトをしていました。それは大学の学費を稼ぐためというより、一人暮らしの生活費を稼ぐためです。母と仲が良くても、一緒に暮らしていると何かと疲れることがあります。だから大学進学を機に一人暮らしをするつもりで、お金を貯めていたのです。しかし大金を手に入れた今では、アルバイトはやめてしまいました。結局、お金のために働いていたのでしょう。それでも一生食べていけるだけのお金があっても、大学には行くつもりです。大学とは未来の可能性であり、僕はそこで何かを得たいと真剣に考えているからです。
ゴールデンウィーク明けのことです。授業を終えた僕は、喫茶店に向かいました。アルバイトは五時からなので、寄り道をしないで向かうと時間があまってしまいます。いつもは古本屋で時間をつぶしていたのですが、この頃は小さな橋の上で時間をつぶすことにしていました。この日も自転車を橋の上にとめました。橋はちょうど風の通り道になっていて、五月の風は心地の良いものでした。
ひじを欄干について川の方を眺めていると、川辺に座っている女性を見つけました。川辺と言っても、それは整備されているわけではなく、座ると姿がすっぽりと隠れてしまうほどの雑草が生い茂っている場所です。だから僕は彼女を〈見かけた〉のではなく〈見つけた〉のです。
距離が遠くて定かではありませんでしたが、彼女はおそらく若い女性でした。少なからず僕の想像の中では若くて綺麗な女性でした。これは書くまでもないことでしょうが、僕は年頃の男なので、若くて綺麗な女性には興味があります。だからその日は時間が来るまで彼女を観察しました。彼女は黒色の長い髪をしていて、上は黄色の服で、下は青色のスボンかスカートでした。そして雑草の中に座り、川の方を見ていました。二十分ほどの観察のあいだ、大きな変化はありませんでした。
翌日もアルバイトがあり、橋の上から川の方を見ました。すると、彼女は昨日と同じように雑草の中に座っていました。服装も昨日と同じでした。上は黄色で、下は青色です。結局、僕はその服装の彼女しか知りません。不可解なことですが、彼女は幽霊なのです。しかし幽霊ではないかもしれません。それでもある意味では幽霊なのです。とにかく話を進めましょう。
教室という限定的な空間では一定の習慣が存在していて、その一つに〈休み時間には異性と話をすべきではない〉というものがあります。もちろん誰もがその習慣に従っているわけではありませんが、僕や知念さんは休み時間に異性と話すことのないタイプの人です。しかし掃除時間には、人が少ないためか、習慣をやぶることができます。知念さんとは班が同じなので、掃除時間に話をすることがあるのです。
月曜日のことです。
「アルバイトに向かう途中に川があるんだけど、川辺に女性が座っていて、川辺と言っても、雑草が多く生えてるところで。先週の木金と二日続けてそんなことがあって、どうしてそんなところに座ってたんだと思う?」
「どれくらい雑草が生えてるの?」
「一メートルくらいかな。座ったら埋まってしまうくらい」
「それはちょっと変わってるね。失恋でもしたんじゃない?」
そこから川辺の女性の話題は広がることはなく、知念さんは女友達の家に泊まったときの話をしました。その話によると、その友達の家の浴室には窓がなく、知念さんは落ち着かなかったそうです。僕は昔から窓のない浴室に入っていたので、共感はできませんでしたが、知念さんの感性には感心しました。
その話が終わると、僕はカタツムリの現状についてたずねました。知念さんはペットとしてカタツムリを飼っているのですが、女友達に変質的な話をするのは気が引けるので、僕にするのです。変質的という言葉を使ったのは、カタツムリの食事や排泄について話すからです。知念さんがそういうことを話すようになったのは、母が言っていた〈クラゲはエサを口から食べて、フンを口から出す。神秘的だね〉という言葉のおかげです。僕がそのことをメールで話したときから、カタツムリは二人の話題になったのです。
掃除を終えると、僕は喫茶店に向かいました。例の橋をわたったときに川辺を確かめました。そこには女性がいて、服装は先週と同じく、上は黄色で、下は青色でした。時間がなかったので、そのまま自転車を走らせました。
その日は川辺の女性のことをずっと考えていました。夕食中もそうでした。すると、母から「あらっ、恋でもしてるの?」と言われました。そのとき僕は我に返りました。そしてよくわからなくなりました。僕は知念さんに熱烈な思いをよせている一方で、川辺の女性と交流したいとも思っていたのです。彼女がなぜ川辺に座っているのか知りたいという好奇心ではなく、彼女と交流したいという情熱があることに気づいたのです。
翌朝、僕は通学途中に川辺に寄りました。彼女はいませんでしたが、その代りに彼女が座っていた場所を見つけました。橋からは見たときには、彼女は雑草に埋まっているようでしたが、実際には雑草が踏みつぶされてできた空間がありました。一畳弱ほどの小さな空間です。僕はそこに座り、四方を見回しました。すると、あることに気づき、嬉しくなりました。その場所は川辺沿いの道からは見えず、橋の上からしか見えません。つまり彼女が川辺に座っていることを知っているのは、おそらく僕だけなのです。僕はカバンから水鉄砲をとりだし、そこに置きました。
学校にいるあいだ、どうなるのか楽しみで仕方がありませんでした。もし彼女が水鉄砲を手にしていたら、話しかけるつもりで、そのことを考えると、胸は高鳴りました。
掃除当番は一週間あるので、この日も知念さんと言葉をかわしました。しかし僕は川辺の女性の話はしませんでした。どうしてなのかはわかりません。ただ話す気になれなかったのです。それでも知念さんと話しているときには、すぐにでも川辺に行きたいと思うことはありませんでした。川辺に行くことより知念さんとの時間の方が大切だったのです。
掃除を終え、橋に行きました。女性は川辺に座っていました。しかし水鉄砲は手にしていませんでした。雑草の中に座るような人なので、水鉄砲に興味を示すはずだ、そう推測していたのですが、外れたようです。少しのあいだ待ちましたが、彼女が水鉄砲を持つ気配はなさそうだったので、家路に着くことにしました。そのときには胸の高鳴りはなくなっていました。
僕にはミカちゃんという幼馴染がいます。同じ団地に住んでいて、親同士が仲が良いことから、幼い頃には一緒に夕食をとることもありました。中学生になってからは一緒に遊ぶことはなくなりましたが、僕の母とミカちゃんが仲が良いことから、ミカちゃんはたまに家に来ることもあります。
少し太っていても、それが逆に魅力になる女性がいますが、ミカちゃんはそういうタイプの女の子です。しかし残念ながら、ミカちゃんはそのことに気づいていません。だから無駄なダイエットに励むのです。それでも昨年の冬に恋人と別れて以来、ダイエットはやめたようです。
水鉄砲を置いた日の帰り道、団地近くでミカちゃんから声をかけられました。
「あっ、大志くん、今日はバイトは休み?」
「うん。そっちも部活は休み?」
「サボり」とミカちゃんは言い、舌をぺろりと出しました。意味不明です。
それから二人は自転車で並んで走りました。僕はこういうときには誰かに見られたい気になります。女の子と二人きりでいることが誇らしいのです。この頃には知念さんに恋をしていましたが、それはそれです。
「この前、レイちゃん(※僕の母)がねこじゃらしを持ってて、〈これで大志をじゃらそうかと思ってんだ〉とか言ってたんだけど、じゃらされた?」
「じゃらされた。三日くらい」
「かわいいね、大志くんは」とミカちゃんは笑顔を浮かべました。これまた意味不明です。かわいいのは、じゃらされた僕ではなく、じゃらした母なのです。
僕は昔は身長が低く運動神経が悪かったため、〈かっこいい〉というより〈かわいい〉というタイプの少年でした。それに対し、ミカちゃんは昔から身長が高く運動神経が良かったため、〈かわいい〉というより〈かっこいい〉というタイプの少女でした。僕は今では身長はミカちゃんより高いのですが、昔のなごりなのか、ミカちゃんは僕のことを〈かわいい〉と形容することがたまにあります。これはミカちゃんだけではなく、母もそうです。しかし僕からすれば、かわいいのは舌を出すミカちゃんやねこじゃらしを持ち帰る母の方です。
団地の自転車置き場に着くと、ミカちゃんは「レイちゃんから借りた本があるから、あとで返しに行くね」と言いました。
僕は家に帰り、さっそく料理を始めました。魚をさばいていると、インターホンが鳴りました。手を軽く洗ってから玄関を開けると、そこにはミカちゃんがいて、少し驚きました。ミカちゃんの〈あとで返しに行くね〉という言葉を母が帰ってきてからだと解釈していたのです。生魚をさわった手で本を持つのは気が引けたので、ミカちゃんに説明して、母の部屋まで届けてもらいました。
このとき僕は何かを意識しました。自転車で並んで走っているときには決して意識しなかったレベルのものを、はっきりと意識しました。机に本を置いたミカちゃんの後姿が目に入ったときには、その何かは僕の中で濃度を増しました。ミカちゃんは私服に着替えていて、それは制服に比べると女らしさが減る格好でした。しかし僕の中には何かが生まれていました。それでもそれはあとに引きずることはなく、一時間後に母から「今日ミカちゃんが本を返しに来たんだね」と言われるまで、思いだすことはありませんでした。そして母からそう言われたあとも、そのことはすぐに忘れました。結局、次にそのことを思いだしたのは、六月下旬の公園でのことです。
僕は翌朝にも川辺に行きました。水鉄砲には水を満タンにしていたのですが、それが減っているかどうか確かめに行ったのです。しかし意外なことが起こっていました。そこには水鉄砲がなかったのです。その代わりに万年筆が落ちていたのです。僕はそれを良い兆しだと解釈して、未来に思いをはせました。意外な形で女性と交流できることになった幸運を喜んだのです。僕は万年筆をカバンに入れ、雑草の上でも目につきやすいと思われる赤色のキーホルダーを置きました。
そうして川辺の女性との交流が始まりました。
キーホルダーは水色のハンカチに換っていて、僕はそれを目玉ほどの大きさの水晶と換えました。そして水晶は品のいいブローチに換っていました。僕はそのブローチを見て、とまどいました。僕が持ってきたものは粗品だったからです。それでも僕はブローチをタヌキの置物と交換しました。このタヌキは母からのプレゼントです。母が言うには、子供の頃に近所のお店で買ったものなので、三十年以上前の代物です。代物と言っても、子供のおこづかいで買える安物ですが。
毎週土曜日の朝には西園寺さんという老人の家に行っていました。それは話を聞くというアルバイトのためです。西園寺さんとは喫茶店で何度か顔を合わせているうちに親しくなり、「若い人に話し相手になってもらいたいのです。相手は男性でも女性でもかまわないのですが、家で二人きりになるのですから、できれば男性の方がいいでしょう。どうですか? してくれませんか?」とアルバイトを持ちかけられました。そして西園寺さんの家に通うようになったのです。
西園寺さんの生活はきわめて質素なものでした。夜に喫茶店に行く以外には、スーパーマーケットに食料品を買いに行くだけで、あとは家で本を読んで過ごしていたようです。西園寺さんは英語を読むことができ、アメリカやイギリスの小説を原文で読んでいました。僕はそのことを知ったとき、こんなにも文学に精通している老人が小さなアパートで生涯を閉じるのは無様だと思いました。それから、西園寺さんが裁判官であったことを知ると、過去に罪人を裁いていた老人の洗濯物を干す姿を想像して、惨めだと思いました。しかし今から考えると、それらは無様でも惨めでもありません。それらは当たり前のことです。僕は西園寺さんに会ったことにより成長したのでしょう。自分の価値観により他人を計ることの愚かさを理解したのでしょう。
西園寺さんが言っていたことで、強く印象に残っていることがあります。
「人間というものは単純なものです。人間の周りにあるものが複雑なので、単純に思えないだけで、実際には単純なものです。欲と情、人間の行動はその二つで説明できます。そして欲の方が強ければ悪者と呼ばれ、情の方が強ければ偽善者と呼ばれます。だから大切なことは節度を保つことです。ほどほどの欲を持ち、ほどほどの情を示すことです」
さて、ブローチをタヌキの置物と交換したあと、西園寺さんの家に行きました。そしていつものように二時間ほど話を聞きました。西園寺さんは淡々と話し、感情を表すことはほとんどありませんでした。思いだせるかぎりでは、僕は西園寺さんの笑顔を見たことが一度しかありません。
昼前に家に帰ると、母は部屋の掃除をしていました。母の部屋は常に綺麗なのですが、それは不要なものを引き出しの中に押しこんでいるからであり、引き出しの中は混沌としています。母は引き出しの中身をすべて床にぶちまけたあとで、床の上には、大量の鉛筆が散らばり、いくつかの小銭が転がり、ハサミが七つとねこじゃらしが五つ、大小さまざまな乾電池、その横には歯ブラシ、その横にはロウソク、その横には――とさまざまなものが散乱していました。
「これまた汚いな」と僕は言ました。
「チリも積もればヤマトナデシコ」と母は冗談を言いました。
「そういえば、水晶をもらったから。押し入れのダンボールの中にあったやつを」
「何に使うの? 占い師にでもなるつもり?」
「西園寺さんにプレセントした」と僕は嘘をつきました。水晶は川辺に置いたのです。
「水晶をもらっても困るよね? ビー玉なら鼻の穴に入れて遊ぶことができるけど、水晶じゃ大きすぎる」と母は冗談を言いました。「そういえば昔、ミカちゃんは〈占い師になりたい〉とか言って神社に通いだして、そしたら大志まで神社に通うようになって。あのころ大志は〈ミカちゃんみたいなお姉ちゃんがほしい。ミカちゃんみたいなお姉ちゃんを産んでくれ〉と言ってたんだよ。覚えてる?」
「覚えてない」と僕は嘘をつきました。
「でも大志にはお姉ちゃんがいるんだよ」
母は昔からそういうことを言うことがありました。そういうときには僕は「どこにいるの?」とたずねました。母は決まって「アンドロメダ星。私も大志も宇宙人だから」と答えました。この日もはやりそうでした。
翌日の日曜日は雨が降っていました。濡れた雑草をかきわけて川辺に行くと、タヌキの置物はネックレスに換わっていました。僕はそれをビニール袋に包んだ万年筆と交換しました。その万年筆は川辺の女性が初めに置いたものです。
翌朝には万年筆は水鉄砲に換っていました。僕はそれをカバンに入れ、学校に行きました。学校にいるあいだ、落ち着きませんでした。川辺の女性と話をするという不確かな期待のために緊張していたのです。
放課後になると、自転車をこいで急いで行きました。彼女はいつものように雑草の中に座っていました。僕は自転車をとめ、雑草の中に入っていきました。雑草の音がしたはずですが、彼女は振り向くことも立ち上がることもなく、川の方を向いていました。
「あのう」と僕は声をかけました。彼女が振り向いたので、僕は例の品物を示しました。例の品物とは、彼女が置いたハンカチとブローチとネックレスです。
「もしかして、私が見えるの?」と彼女は言いました。もちろん僕には彼女の姿がくっきりと見えていましたが、しかしそのためにその言葉は唐突なものでした。
彼女は二十五歳ほどで、白色のシャツの上に黄色のカーディガンをはおり、青色のロングスカートとベージュ色のパンプスをはいていました。前髪には安っぽい髪留めをしていて、それが妙に浮いて見えました。ただそのために親しみやすさも表れていました。
僕は不審者でないことを示すために、これまでの経緯を一から説明しました。橋の上から偶然見つけて、水鉄砲を置いて――というものです。その説明を終えると、彼女はまた唐突なことを言いました。
「私は幽霊なの」
僕は〈僕は宇宙人です〉という言葉を思い浮かべましたが、それを口にすることはありませんでした。彼女に許可を得て、隣に座りました。
「幽霊とは、どういうことなんですか?」
「二十年前に死んで、幽霊になった。いきなり幽霊だと言われても信じられないとは思うけれど、世の中には科学で解明されてないこともあるでしょ? ミステリーサークルとかドッペルゲンガ―とか」
「これ、返します」と僕はネックレスなどを彼女にさしだしました。
「いえ、いいの。それはいらないから」
「でもこれはあなたのものですし」
「本当にいいの」
押し問答の末、彼女はハンカチだけを受けとり、ブローチとネックレスは僕の手もとに残りました。そして彼女の方は僕に品物を――水鉄砲とキーホルダーと水晶を――返しました。「こんものを持っていても、じゃまになるだけだから」ということでした。まさにそうでしょう。
「タヌキの置物はどうしたんですか?」
「ごめんさない。じつは落として割れてしまって」と彼女は言い、タヌキを僕にさしだしました。それは左足がとれていました。
「大丈夫です。古いものですから」と僕は言いました。すると彼女は古いものだから大事なのだという憂いの表情を浮かべました。
それから二人は何も言うことなく、川の方を見ていました。目の前は雑草でさえぎられていたので、川は見えませんでした。せせらぎが聞こえているだけでした。
アルバイトの時間が来ると、別れることにしました。そのとき翌日に会う約束をしました。
知念さんは産まれたばかりの頃には父親とも一緒に住んでいましたが、物心つく前に両親は離婚して、父親とは離れ離れになりました。それから長いあいだ父親のことを知らずに育ち、中学卒業を機に母親から父親のことを知らされました。知らされたと言っても、名前と住所だけで、「もし会いに行きたいなら、そうすればいい」ということでした。
そのことを知念さんから相談されたのは四月の終わりです。そのとき知念さんはメールで「父親の名前は田中太郎と言うのよ。あまりに普通すぎて、逆に普通ではないよね」と言っていました。おそらく知念さんは父親のことを深刻に考えているわけではないのでしょう。それもそのはずです。見ず知らずの人に深刻になるのは難しいのです。しかし見ず知らずの父親に会うことは別です。それには勇気かきっかけが必要です。知念さんは父親に会いに行くことをためらっているようでした。
僕が知念さんを誘ったのは、川辺の女性との対面で浮かれていたためでしょう。その日の夜に、メールで「もし一人で父親に会いに行くのが億劫なら、一緒に行こうか?」と無謀な提案をしました。しかし、母子家庭という共通点のためか、あっさりと受け入れられました。週末に知念さんと京都に行くことになったのです。その夜の嬉しさは言葉ではとても表せませんが、そのときの僕が見ていた未来は、ただ明るいだけでした。
翌日も学校が終わると、川辺に行きました。女性の服は昨日と同じでした。昨日と違っていたことは、僕が声をかける前に振り向いたことです。彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いて、僕に座るようにうながしました。
「まずは自己紹介をしましょうか。僕は井上大志です。あなたは?」
「サチコ。井上サチコ」
僕は苗字が同じであることにどう反応すればいいのかわかりませんでした。少しの沈黙のあと、サチコさんは自分のことを語り始めました。
サチコさんは幼い頃から洋服が好きで、中学生の頃から自分で洋服を作るようになりました。周りから褒められていくうちに、自分を特別な人間だと思うようになりました。服飾科の高校を卒業したあとは、服飾科の大学に進みました。そこで恋人ができました。あるとき洋服作りのコンテストがあり、サチコさんは友達と一緒に参加しました。しかし大賞をとったのは恋人でした。そのとき少しも悔しくはなく、ただ嬉しいだけでした。洋服に対する情熱より恋人に対する気持ちの方が大きかったのです。だからデザイナーの夢はあきらめました。それでも恋人とはいろいろあった末に別れました。
この日の話はそこまででした。
翌日は母の誕生日でした。僕が「誕生日おめでとう」と言う前に、母は「なんと今日は私の誕生日です」と宣言して「プレゼントをお忘れなく」と言いました。夜にミカちゃんを含めた三人で母の誕生日会をする予定です。
学校が終わると、川辺に行きました。サチコさんは妹の話をしました。
サチコさんの妹は天真爛漫な性格をしていたようです。たとえば、チコさんが買ってきたプリンを勝手に食べるが、その代り自分が買ってきたプリンを誰かが勝手に食べても文句を言うことはない、そんな人だったようです。僕はそんな妹がいればさぞかし愉快だろうと思いました。それでも〈母親がそんな人だったら――〉と考えると、いささか複雑な気持ちになりました。
僕は明日の予定をたずねて、帰ることにしました。
「明日は土曜日なので、学校は休みなんです」
「どうして?」
「どうしてって、土曜日だから学校は休みなんです」
「土曜日は学校はお昼まであるんじゃないの?」
「たしかに二十年前はそうだったかもしれません。でも今では土曜日は学校は休みなんです。それで、何時にここにいますか?」
「夕方にはいるわ」
「いつも何時に来てるんですか?」
「時計は持ってないの。死んだとき、時計はしてなかったみたい。それに夕方に死んだから、夕方以外は存在できないみたい」
サチコさんと別れたあと、橋の上から川辺に目をやりました。サチコさんは同じ姿勢のまま川の方を見ていました。妹の話を聞いたためか、その姿には哀愁が漂っていました。過去のことを知るより妹のことを知る方が、親近感が増したのです。
家に帰っている途中、サチコさんに腕時計をプレゼントしようと思いつきました。それは恋なのか愛なのかわかりませんが、僕はそう思ったのです。
夕食は母の誕生日会で、ミカちゃんも一緒でした。食後のシュークリームを終えると、プレゼント交換をしました。母はプレゼントをもらうだけではなく、あげるのです。母はそういう性格なのです。ミカちゃんは母にアロマオイルをあげ、母はミカちゃんに高級な爪切りをあげました。僕は母にクラッカーをあげました。クラッカーとは円錐形で、ひもをひっぱるとパンと音が鳴り、中から紙吹雪が出るものです。母はそういうものが好きなのです。そして僕は母からこういう手紙をもらいました。
「まばたきは一分間に十五から二十回ほどしているそうである。起きている時間が十六時間だとすると、一日合計で――とにかく毎日たくさんのまばたきをしているのである。しかし、たいていはまばたきの存在に気づくことはない。当たり前すぎて忘れてしまっているのである。それなら、いつまばたきの存在に気づけるのか? それは目の前の人がまばたきをしたときである。私は大志のおかげでまばたきの存在に気づくことができた。要するに、私はまばたきが好きなのである」
クラッカーを鳴らし、お開きになりました。
土曜日には西園寺さんの家にアルバイトに行きました。これまでは西園寺さんは自分の過去について話すことはほとんどありませんでしたが、この日から三週にわたって過去について話すことになります。
西園寺さんは結婚を三度していて、子供が二人か三人います。子供の数が定かではないのはおかしいかもしれませんが、男性にはそういうこともあるのでしょう。
一番目の妻とのあいだには息子を一人さずかりました。息子が中学生のときに、妻は病死しました。裁判官は転勤が多い職業なので、息子は福岡の実家にあずけました。そのうち福岡に転勤が決まり、両親と息子の四人で生活するようになりました。やがて父親は他界して、母も他界して、息子と二人で暮らすようになりました。
「もしも君が大金持ちだとして」と西園寺さんは言いました。「五十歳のときに若くて美しい女がカネ目当てで近よってきたら、どうしますか? お金がなければ居座らないが、お金を与えれば居座る。そのとき君はお金を与えますか?」
「どうですかね。僕はまだ若すぎるので実感がわきませんが、たぶんそういうことはしないと思います」
「どうしてですか?」
「さみしいからです」
このとき西園寺さんはなぜか笑いました。それは最初で最後の笑顔でした。僕が覚えているかぎりでは、西園寺さんはそのとき以外に笑うことはありませんでした。
西園寺さんは五十歳をこえてから若くて美しい女性と結婚して、息子と三人で暮らすようになりました。その頃には息子は二十代になっていました。そのあと、西園寺さんが犯した罪のために息子から縁を切られることになり、妻とも別れることになるのですが、そのことが語られるのは来週です。
僕は報酬を受けとって帰りました。
夕方には川辺に出かけました。しかし雨が降ってきたので、サチコさんとは特に何かを話すことはなく、別れました。僕はサチコさんの職業を芸術家かホステスかと推測していたのですが、西園寺さんの話を聞いたあとでは、遺産により悠々自適な生活を送っている資産家にも思えました。
日曜日は知念さんとの約束の日です。僕は朝早くに起きると、天気予報を見てから出かけました。約束の時間より二十分も早く駅に着いたのですが、知念さんはすでに待っていました。知念さんは春らしいワンピースを着ていて、大人っぽいカバンを持っていました。僕は十分ほど時間をつぶしてから、待ち合わせ場所に行きました。
東京駅までは二人はたわいのない話をしましたが、新幹線の中では、来週から中間試験ということもあり、黙々と試験勉強をしました。しかし僕は平常心ではいられず、試験勉強どころではありませんでした。知念さんの方もそうだったかもしれません。これから父親と対面するのですから。しかも弟か妹がいる可能性もあるのですから。
京都駅に着きました。知念さんは事前に道筋を調べていたので、僕は知念さんに導かれるままに地下鉄に乗ったりバスに乗ったりしました。
そこは閑静な住宅街で、幼い頃から団地に住んでいる僕にとっては、異質な場所でした。猫や三輪車が転がっていることはなく、塀によりきっちりと区切られていて、静謐な印象を受けました。
二人はひとつずつ表札を見て回りました。しかしラチがあかなかったので、通りかかった中年女性にたずねました。
「田中太郎さんの家なら、この道をまっすぐ行って――」と彼女は説明しました。「でも田中さんは引っ越したはずですよ。今年の三月だったかしら」
その事実を知念さんがどう思ったのかは知りませんが、僕は内心ほっとしました。知念さんが父親と会うことで、知念さんとの距離が離れるように思っていたのです。
せっかくなので、その家に行きました。その家は立派なもので、古風な門があり、家と同じほどの面積の庭がありました。両親が離婚しなければ知念さんはこの家で暮らしていたのだと思うと、わずかながら切なくなりました。知念さんには申し訳ないのですが、僕は田中さんが引っ越していたことを幸運に思いました。
昼食は蕎麦屋でとりました。そのときに愛想の良い店主から二人の関係を恋人だと誤解され、二人のあいだに不穏な空気が流れました。僕は知念さんの気持ちを知りたいと思いました。しかしその方法がわからず、こう言いました。
「恋人に間違えられて困るよね。僕の方は少し誇らしい気もするけど、知念さんは女の子だし、恥ずかしいよね」
「でも兄弟に間違えられるよりはいいけど」
それから「もし兄弟に間違えられるとしたら、兄妹なのか、それとも姉弟なのか?」という話題になり、会話は徐々に弾むようになりました。新幹線に乗る頃には、普段通りになっていました。
こうして書いてみると、順調と思えるかもしれません。順調とは言えないにしても、無難だと言えるでしょう。しかし僕にとってはあまりいい一日ではありませんでした。それは〈自分の中にある気持ち〉と〈自分の外で起こる出来事〉のずれを見つけてしまったからです。その二つにずれが生じるのは、当たり前なことです。きわめて自然なことです。しかし僕はそれを受け入れることができず、物事に消極的になってしまうのです。だからこの日から知念さんと少し距離を置くようになりました。
それでも知念さんへの気持ちが変わったわけではありません。あいかわらず熱をあげていました。これを書くのは非常に恥ずかしいのですが、この頃の僕は寝る前に何度も知念さんとのデートを妄想していました。部屋で知念さんと二人きりになり、黒い画用紙を窓に貼って部屋の中を真っ暗にします。何ひとつ見えない暗闇にするのです。そしてマッチをすり、お互いに相手の顔を確かめます。数秒の世界を作るのです。そういうデートを頭の中で思い描いていました。僕は知念さんから見つめられるのが恥ずかしいので、マッチの炎だけの世界で見つめ合いたいと思っていたのです。
翌日の月曜日の夕方には、川辺でサチコさんから話を聞きました。この日はサチコさんに会った最後の日で、結局、腕時計をプレゼントすることはありませんでした。
サチコさんには新しい恋人ができました。そのうち妹と三人でデートをするようになりました。愛嬌のある妹がいた方が会話が弾んだので、そうしたのです。しかしそれは間違いでした。恋人が妹のことを好きになり、恋人から別れを切りだされたのです。そしてサチコさんは自殺して、幽霊になりました。
僕はその話を聞いても、感情移入することができず、実感がわきませんでした。それでも翌日の夕方に川辺に行き、サチコさんがいないことを知ると、どうしようもないさみしさを感じました。〈サチコさんは、僕に自分の過去を打ち明けたのを機に、自殺したのではないか?〉という可能性が思い浮かんだのです。僕は雑草をかきわけていきました。そこにはサチコさんが座っていた小さな空間が残っていて、それが僕のさみしさをいっそうかきたてました。
しかし数日後に事態は一変します。
朝に団地の自転車置き場でミカちゃんと会ったときのことです。
「古本屋さんの近くに橋があるでしょ? あの小さな橋ね。月曜日にそこの川辺に座ってなかった? 雑草が生えてるところに」
「えっ、いや、まあ、そうだけど」と僕は面映ゆくなりました。
「やっぱり大志くんだったんだ? どうしてあんなところに座ってたの? いくら一人になりたくても、雑草の中はないんじゃない?」
僕はとても驚きました。僕はサチコさんと座っていたのです。サチコさんが僕の陰に隠れていたとしても、少し見ていればサチコさんの姿も見えたはずです。しかしミカちゃんは五分ほど橋の上にいたにもかかわらず気づかなかったようです。しかもミカちゃんが言うには、僕はしきりに左の方を気にしていたようです。
サチコさんは本当に幽霊だったのでしょうか?
僕は幽霊の話を誰かにしたいと思い、西園寺さんを選びました。西園寺さんなら茶化すことなく聞いてくれると思ったのです。土曜日に西園寺さんにその話をすると、西園寺さんは裁判官らしい常識的な推測をしました。つまり嘘か見間違いかということです。
西園寺さんは先週の続きを話しました。その話は二番目の妻との豪勢な生活で、僕はいささか辟易しました。しかしある女性が出てくると、僕は緊張感を持って聞きました。その話の中心には性的なものがあり、老人の口からそういう話題が出たことに興味を持ったのです。しかし改めて考えてみると、三文芝居のような話です。
西園寺さんの息子は結婚して、四人で暮らすようになりました。初めのうちは順調にいっていましたが、息子が半年ほど出張をして、西園寺さんの妻が妊娠すると、不協和音が漂い始めました。西園寺さんは、妻との夜の営みがなくなっていたせいか、息子の妻のことを意識するようになりました。それどころか、息子の妻から誘われることもありました。それでも息子が出張から戻ってきて、妻が出産すると、また平穏な生活に戻りました。しかしそれは長くは続かず、ある出来事によりすべてが壊れてしまいました。息子の妻が妊娠していることがわかったのです。それはおそらく西園寺さんの子供でした。そのことにより、息子から縁を切られ、妻と離婚しました。そして西園寺さんは一人になりました。
西園寺さんは「息子の妻が私を誘惑したのは、私の妻にそそのかされたからかもしれません」と疑っていましたが、荘厳な老人からそういうことを聞かされると、僕は幻滅しました。それまでは西園寺さんに好意をいだいていたのですが、この日に好意は大きく薄れました。おそらく不倫への嫌悪感からそうなったのでしょう。
一週間後には、西園寺さんは三番目の妻の話をしました。
西園寺さんは罪悪感から不眠症になりました。不倫をした人間が法廷で裁きをくだすことに疑問を持つようになったのです。だから仕事はやめました。そして三番目の妻と巡り会い、平穏に暮らしました。妻が亡くなると、この町に引っ越してきました。
不思議なことに、そのときには西園寺さんに対する好意は戻っていました。そこには同情があったのだと思います。質素な生活を送っている西園寺さんは、まだ罪悪感をかかえている、そのことに気づくと、軽蔑心は薄れ、同情心が見えてきたのでしょう。
そのあとも僕は毎週かかすことなく西園寺さんの家に行きました。それは六月の最終の土曜日まで続きました。その日が最後でした。西園寺さんから「来週は用事があるので、ここに来ても私はいません」と言われました。僕はその言葉を〈来週はいないが、再来週はいる〉と解釈したので、特に何かを思うことはありませんでした。
六月には三つの偶然がありました。アルバイト先の喫茶店にミカちゃんの元恋人が女の子をつれて来店したこと、街で母の恋人から声をかけられたこと、そして昼休みに図書室で知念さんが晴彦と話しているのを見かけたことです。
晴彦は僕の親友で、僕が知るかぎりでは知念さんと仲が良いわけではありません。それに、知念さんも晴彦も図書室に行くことはまずありません。だから、たまたま会ったわけではないでしょう。約束をして会ったのだと考えるのが妥当です。僕は晴彦に自分の気持ちを打ち明けておかなかったことを後悔しました。それでもこのときには睡眠に障害をきたすほど悩むことはありませんでした。そうなるのはもう少し先のことです。
六月の最終の日曜日のことです。ミカちゃんから誘われて、二人で映画館に行くことになりました。ミカちゃんと二人きりで出かけたのは、この日が初めてです。母と三人で会うことは何度かありましたし、家の近くで会うこともありましたが、二人きりで出かけたことはありませんでした。
ミカちゃんはテニス選手みたいな格好をしていました。清潔な色のポロシャツにミニスカートです。二人は映画を見たあと、ショッピングモールをぶらつき、夕方には団地近くの公園のブランコに座りました。すべり台やシーソーや砂場では子供たちが遊んでいました。ミカちゃんはブランコをこがない理由を説明しました。
「こんなスカートだから、ねえ? まあ、本当はあれくらいの子供になら見られてもいいんだけど、でもあの子たちの誰かが赤だと大声で言いふらしたら大変だから」
「赤なの?」
「どうだろう? 確かめてみる?」
「いや、老後までおあずけにしておく」と僕が言うと、ミカちゃんは笑いました。
「大志くんはスカートめくりを一回もしなかったよね?」
「普通の子供だったから」
「大志くんは自分のことを普通だと思ってるでしょ? でもユーモアのセンスはすごくあるよ。さっきの〈老後までおあずけにしておく〉は最高だったし」
「そうかな。つまらないと思うけど」
「なら、それでいいよ。大志くんのユーモアのセンスを理解できるのが私だけなら、それでいい」とミカちゃんは言いました。そして「真面目な話だから、ちゃんと聞いてね」と前置きをしてから、告白をしました。愛の告白です。交際の申し込みです。
僕は非常に驚きました。ミカちゃんの好みは運動神経のいい活発な人だと思いこんでいたのです。僕は懸垂を一度もすることができませんし、瞬発力も持久力もありません。泳ぐことはできますが、不格好なフォームです。だから僕は、ミカちゃんが中学二年生の頃にバスケットボール部の男の子と付き合い始めたときから、ミカちゃんと恋仲になる可能性を除外していました。
僕はすぐに冷静になり、ミカちゃんの申し込みを承諾しました。その理由は定かではありませんが、さきほどの三つの偶然が関係あると思います。特に三つ目の偶然はそうです。もしその偶然がなければ、断ったかもしれません。それでも、このとき僕はミカちゃんと付き合いたいと心の底から思いました。〈別に付き合ってもいいかな〉ではなく〈ぜひとも付き合いたい〉と思いました。僕の中にはそういう気持ちがありました。だから迷うことなく「僕も付き合いたい」と言い、晴れやかな気分になりました。
この日の夜はとても愉快でした。母のわがままを好意的に受けとれるほど愉快でした。翌朝もそうでした。学校で知念さんと挨拶をかわしたときにも、後悔はなく、そのままの世界を受け入れることができていました。すべてが絶対的なことであり、僕はそれを難なく享受できていたのです。
しかし、恋人ができたことを晴彦に報告したとき、晴彦からある事実を聞かされ、現実は崩れ落ちました。すべてがひっくり返ったのです。自分と物事の距離が曖昧になり、自分の位置が不確かになったのです。
晴彦が言うには、知念さんは晴彦に「じつは好きな人がいて――」と相談して、その好きな人とは僕のことだったそうです。それは図書室でのことです。おそらく知念さんは、京都に行って以降、僕の態度が微妙に変わったのを察し、晴彦に相談したのでしょう。僕はそれを誤解していたのです。
その日の夜から僕は不眠におちいりました。問題を解決する方法はわかっていました。知念さんに恋人ができたことをメールで報告すればいいのです。それだけでいいのです。しかし僕にはできませんでした。それは知念さんを傷つけてしまうからではありません。それをしてしまうと何かが決定的に終わってしまう、そんな気がしたからです。
正直に書くと、もし僕が知念さんと付き合い始めてからミカちゃんの気持ちを知ったとしても、混乱することはなかったでしょう。僕のミカちゃんに対する気持ちはその程度のものです。しかし知念さんに対する気持ちは、混乱をおよぼすものでした。後悔をもたらすものでした。
それから僕の一日はとても長いものになりました。知念さんが視界に入ると動悸が騒ぎだし、団地近くではミカちゃんに見つからないように注意して、それ以外は終始ぼんやりしていました。一日のうちで最も長かったのは、夜です。時計の秒針の音が響いて、僕をせきたてるのです。時間がたつごとに事態は固まっていくことはわかっていましたし、結局おさまる場所は一つしかないこともわかっていましたが、何もできませんでした。ただ散漫とした精神の中で、一日がすぎていくのを見送っていただけです。
しかし意外なことから不眠は解消されることになりました。
七月の最初の土曜日のことです。これまでは土曜日の朝は西園寺さんの家に行っていたので、この日の朝は妙な心持ちでした。僕は何もしないで昼まで自室で過ごしました。頭の中では知念さんとミカちゃんのことが渦巻いていました。
母が出かけて少したった頃、インターホンが鳴りました。玄関に行くと、そこにはスーツ姿の見知らぬ男性が立っていました。
「田中太郎さんの相続の件で参りました」と彼は言い、名刺をさしだしました。
彼は弁護士でした。もちろん僕は驚きました。田中太郎さんは知念さんの父親であり、僕とは関係のない人です。弁護士さんから田中太郎さんの遺書をわたされると、さらに驚きました。その遺書は僕の人生を大幅に変えるものでした。その遺書により僕は母以外の親族を知っただけでなく、恋というものに対する考え方を改めることにもなりました。
田中太郎とは西園寺さんの本名です。西園寺さんはいくつかの嘘をついていました。三番目の妻の話は嘘です。この町に引っ越すときに理由が必要だったので、でっちあげたそうです。実家が福岡というのも嘘です。僕が母に「西園寺さんは裁判官で、京都に住んでたんだって」と言うと、母が気づく怖れがあったので、福岡にしたそうです。
事実を整理すると、西園寺さんが息子の妻と不倫した際にできた子供、それが僕です。知念さんは西園寺さんの二番目の妻との子供です。つまり二人は姉弟で、二人で行った京都の田中太郎さんの家は、西園寺さんの実家だったのです。別の見方をすると、僕の母と知念さんの母は、一時期あの家で一緒に暮らしていたのです。
西園寺さんは知念さんの居場所は知りませんでした。もし知っていたなら、知念さんにも会いに行ったでしょう。僕のことを見つけられたのは、母が昔に手紙を送ったためです。その手紙によりこの町を特定して、引っ越してきたのです。そして莫大な財産を相続する資格が僕にあるかどうかを確かめるために――つまり僕が遺産を相続しても怠けずに生きていけるかどうかを判断するために――僕に接したのです。遺書には〈父は息子に厳しいものですが、祖父は孫に甘いものです。私はあなたが孫のように思えて、甘い判断かもしれませんが、遺産をあなたに譲ることにします。お金がありすぎると、生活が怠惰になることがあります。そのことは気をつけてください〉とありました。
弁護士さんの話によると、西園寺さんは神社の階段から転落死したようです。それは先週の土曜日のことで、僕と別れてから数時間後に事故死したようです。事実はわかりませんが、事故死として処理されたようです。
西園寺さんはいつか「最後の妻に先立たれるまで、さみしいと感じたことはありませんでした」と言っていました。僕はその言葉を思いだすたびに悲しい気持ちになります。罪悪感をかかえたままたった一人で生きてきた父のことを思うと、のどに何かがひっかかり、大きなため息が出てしまいます。それは涙をともなわない悲しみです。やるせなさに包まれた悲しみです。
西園寺さんは「欲と情、人間の行動はその二つで説明できます」と言っていました。そのことは間違っていると思います。うまく理由は説明できませんが、間違っている気がします。もしかしたら間違ってほしいと思うのかもしれません。人が自殺したときには、その言葉は途方もなくむなしい響きを持っているのですから。
この日の夜に、僕は恋について考えました。恋というものは社会性とは関係のないものだと思っていたのですが、そうではないようです。知念さんが姉だとわかると、知念さんへの恋心は見事に消えてしまいました。しかし、もし知念さんと付き合っていたら、そう都合良くはいかなかったかもしれませんが。
翌日の日曜日にはミカちゃんと会いました。僕があまりにもぼんやりしていたためか、ミカちゃんは僕の顔を何度ものぞきこみました。そのとき僕はミカちゃんの瞳に映る自分の顔を見つけました。そして、これまでに一度も、他人の瞳に映る自分の顔を見たことがないことに気づきました。僕はそれが何よりも大切なことだと思いました。
ミカちゃんと別れて家に帰ると、母から「ミカちゃんを誘ってくればよかったのに」と言われました。しかし母は二人分の食事しか用意していませんした。母は僕の性格を心得ているようです。母との夕食を終えると、お風呂に入りました。そのとき、僕はこの物語を書くことを決めました。それはこの物語を書くことが怠けずに生きることの小さな始まりになると思ったからです。お風呂からあがると、さっそく書き始めました。
しかし、この物語にはもう少し続きがあります。
数日前の夜のことです。母は赤色のボールペンを借りに僕の部屋に来ました。母はハサミを七つも持っているくせに、赤色のボールペンは一つも持っていないようです。
僕は机の引き出しを開けました。
「何、そのネックレス?」と母は言いました。
「いや、なんでもない」と僕はとっさに引き出しを閉めました。
「ミカちゃんにプレゼントするの?」と母は引き出しを開けました。そしてサチコさんのネックレスとブローチを手にとりました。「あらっ、これってもしかして押し入れにあったの? なつかしいな。何年ぶりだろう?」
母が言うには、そのブローチは昔に姉にあげたものだそうです。そして姉は二十年前に亡くなったそうです。僕はふとタヌキの置物を思いだしました。母が子供の頃に近所のお店で買ったタヌキの置物を。左足がとれたタヌキの置物を。
物語はこれでおしまいです。
僕はこれを偽ることなく書きました。あなたに読んでもらうために、包み隠すことなく書きました。僕とあなたの物語ではなく、僕自身の物語を真剣に書きました。つまりこれは、僕の純愛なのです。終わりのない始まりの始まりなのです。僕はここからあなたとの関係を始めたいと思っています。もしあなたもその気なら、それほど喜ばしいことはありません。