夢に囚われた少年
「彼は毎日同じ夢を見るらしい」
目の前で眠る少年を見下ろしながら困ったように笑う翼。真夜中の病室にいるのは無言で眠り続ける少年と翼、それから事情を知らされぬまま連れ出された愛の3人。
「それで、翼お兄様。何故あたしが連れてこられたのですか?」
話を訊く限りでは愛の管轄でもなければ翼の管轄でもない。というよりもまず天の一族の管轄ですらないように思える。すると苦笑を浮かべながら翼が口を開いた。
「生憎と直接的に天の管轄ではないが全く関係がないのかと訊かれれば頷くことは出来ないんだ。おまけに今本来の管轄をしているはずの夢の一族は出払っている」
--つまり、本来は夢の一族の管轄ではあるが手が放せないから天に回ってきたと。
理解した愛の顔を見て翼は理解が速くて助かるよ、と笑った。
「でもそれってあたしを連れてくる理由にはなりませんよね?」
首を傾げる愛に翼は苦笑いを返した。要するに夢の一族も手が放せないが天の一族もさほど手透きなわけではなく、言うなれば余っている愛に白羽の矢が立ったらしい。
「あ、お兄様はお守りなのね」
決して翼も暇を持て余しているということはないだろう。だが愛1人にさせるには不安要素が多すぎるのだろう。
「俺は夢の中に入り込めないから仕事にならないんだよ」
なるほどね。おそらく夢の中に入ることが出来るのなら翼1人に任されていたのだろう。翼は苦笑を浮かべたまま近くにあった椅子に腰をおろした。これ以上の説明はないようだ。
「じゃあ兄様行ってきますね」
心配そうな顔が見え隠れする翼に大丈夫だというように笑いかけ愛は眠っている少年にそっと触れた。
何かを祈るようにそっと少年の額に口づけを落とす。
「…リフュジュ」
加護があらんことを、そう微かに言葉を零し愛は目の前の少年の夢の中に意識を送り込んだ。
目を開くと色とりどりの泡がそこかしこに浮かぶファンタスティックな景色が広がっていた。一見何も問題のない景色だ。
――さて、この夢の主はいったい何処にいらっしゃるのかしら?
あたりには人というよりも生き物の気配すらしない。夢の中の景色は成長していく過程で人それぞれのものが形成されていく。ここは現実味のないファンタジーの世界と言っていいのだろう。以前、祈から訊いた話では夢の中が白に近いほど無垢な心の持ち主らしい。そして純粋な人ほどファンタスティックな夢の世界を持つようになるとも。
『…誰?』
少年の夢の中で記憶を辿っていると不意にまだ幼さの残る声が響いた。耳から訊くこえたわけではなく直接脳に響いてきた。
「あたしは愛。貴方達からしたら天使と呼ぶものかしら」
”天使”という言葉にあたりが少し気色ばむ。先程よりも警戒の解けた声が響く。
『翼、綺麗だね』
うっとりしたようにいう少年の声は訊こえる。だが愛の位置からは泡以外に何も見当たらない。
「ねぇ、貴方は何処にいるの?」
くすくすと1人だけのものではない笑い声が響く。まるで悪戯をしている幼い子どものような声。
『僕たちは此処にいるよ。ずっと一緒に遊んでるの』
--僕たち…?
愛の顔に戸惑いが浮かぶ。本来夢の中には1人の住人しかいないはずだ。愛というイレギュラーな存在を除けば。何かが起きているのは間違いないようだ。
どうしたものかと考えていると突然辺りの泡が消え始め、その向こうから双子のように見える2人の少年が姿を表した。あの病室で眠っていた少年だ。1人は無邪気な笑顔でもう1人はそんな少年を守るようにしながら近づいてくる。
「…貴方たちが湊君?」
彪峯 湊。それが彼らの名前だった。おそらく1人は何らかの拍子に湊自身が自分の中に作り上げた彼の一部だろう。
『天使のお姉さんは何をしに来たの?』
警戒していることを隠そうともせず刺々しい言葉が響く。子どもらしさにかける冷たい声だ。
「貴方と少しお話がしたいな。夢の中の湊君」
笑顔を崩すことなく誘い掛ける。夢の中の湊君はきょとんとしてい隣にいるもう1人の自分を見てそれからまた愛に視線を戻した。
『いいよ』
それだけ返すと傍らの自分の耳元で何かを囁いた。湊はとろんとした目を擦りながら頷き小さな欠伸を零した。『お姉ちゃんだっこして』そう言って愛の膝の上ですやすやと眠りについた。
お互いその場に座り込むと暫くの間、眠っている湊を眺めていた。時折こちらを伺うような視線を感じはしたが敢えて無視した。
『お姉さんは僕のことどうするの?』
やがて沈黙に耐えかねたようにぽつりと呟きが零れる。そちらに視線を向けると寂しそうに笑う顔が目に映った。自分が何者かちゃんとわかっている、そう言外に告げていた。
『前の人達みたいに僕を食べようとするの?』
--…ん?
どうやらこの夢に訪れたのは愛が初めてではないらしい。そして前にきた人は夢の中の湊を食べてしまうつもりだったという。思い当る節はある。というよりも本来の仕事を夢の一族は行おうとしたのだろう。夢の一族は悪夢を食べる貘を使役していたはずだ。そして今彼が此処にいるということは悪夢だと判断されなかったのだろう。
「貴方を食べることは誰にもできないわよ」
膝の上に湊がいるために身動きがとれないのでもう1人の湊を手招く。不思議そうな顔をしながら隣に腰を下ろした彼の頭を抱き、何を言うでもなくそっと撫でる。
『僕は湊の記憶の一部なんだ』
どれくらいそうしていただろうか。何の抵抗もせずされるがままに撫でられていた湊がぽつりぽつりと語り出した。
それはまだ湊が小学生になる前の頃のこと。いつものように友達と公園で遊んだあとの帰り道、何者かによって連れ去られた。
現場には当時湊が気に入ってどこへ行く時もつけていた缶バッチが転がっていた他には何も残っていなかった。
警察は湊の父が某大学教授であったこともあり身代金目的の誘拐という路線も含め早々に事件の捜査に乗り出した。しかし1週間の間何一つとして成果は見られなかった。そうこうしているうちに1ヶ月が経ち捜査も打ち切りになろうかというとき、湊が海岸で1人立ち尽くしているのを巡回していた警察官によって保護された。
ところが湊は失踪していた間の記憶が抜け落ちていた。何らかの精神的なダメージによるものだろうと当時湊を診た精神科医は結論づけたそうだ。
結局事件は犯人不明のまま幕を下ろした。
「貴方がその記憶を持っているのね」
よくあるとは言い難いがいくつか事例のあるケースだ。受け止めきれない精神的な負担から逃れるために自分の中にもう1人の自分を作り上げてしまう。特に幼い子どもによくみられる精神障害だ。夢の中で現れているうちはまだ軽症だが症状が進行すると現実にもその人格が現れるようになり俗に言う多重人格、解離性同一性障害となってしまう。
『覚えてるよ。あの日からのこと、全部』
”母親だったんだ、犯人”
苦しそうに表情を歪めながら吐き出された言葉。愛にしがみつく様に抱きつき誰も知り得なかった真相を吐き出した。
『母さんは父さんと別れても僕と暮らしたかったって。最初は楽しかったけど父さんの所に帰りたいって言ったら暗い所に閉じ込められて出してくれなくて。そのうち母さんは僕を見てくれなくなってずっと僕のことを父さんだと思って話しかけてくるようになったの。こんなに愛してるのにって最後はそれしか言わなくなってしまったの』
愛は口を挟むことはせずただ目の前の少年を抱きしめあやし続けた。今何かを言ったところで意味はないだろう。
『…どうしたらいいと思う?』
そう聞いてはくるがどうすればいいかは自分でわかっているのだろう。そっと体を離すと眠っている湊を見つめていた。
「湊君の中に戻りなさい」
『でも…』
きっぱりと言いきる愛に湊は戸惑ったような目を付ける。湊が湊自身の中に完全に戻れば今まで忘れていた記憶が戻ってくることになる。それには精神的な負担が伴うことはまず間違いない。その負担に耐えられるかどうか、それを湊は心配しているのだろう。
「大丈夫よ。貴方は強い子でしょ?」
悟すように視線をあわせる。愛はふっと笑みを浮かべると膝の上で眠っている湊を起こした。
そして2人の湊をその場に残し、愛は少し離れたところから見守っていた。額を合わせた状態で話しているので何を話しているのかはわからない。そう経たないうちに話がついたのだろう、突然湊の顔が苦悶に歪んだ。
「湊君、選びなさい。その記憶を受け入れるかそれとも切り離すか」
しばらく沈黙が続いた後、湊はしっかりと愛の目を見据えてきっぱりと言い切った。
『受け入れます。だって湊は僕の代わりにずっと苦しんでたんだから。今度は僕が助ける』
それからお願いがある、ともう1人の湊が切り出した。どうやら湊の夢の中で長い間過ごしていたために魔力が溜まってしまったらしいのだ。
『この力は人には不必要なものだからお姉さんがもらって』
そう言って愛に手を差し出す。受け取ろうと手を伸ばすと湊の周りが輝きだし段々光が小さくなっていく。その光が消えると伸ばしていた愛の腕に細身な3連のブレスレットがついていた。僕たちからのお礼だよ、そう言って湊は無邪気な笑顔を見せた。
『僕、母さんのこと言わなくちゃいけないかな…』
思い出したようにぽつりと呟く湊。その頭を軽く撫でながら愛は笑みを浮かべる。
「貴方が言いたくないなら言わなくてもいいわよ。さあ、そろそろ夢から覚めましょう」
すると湊はまた嬉しそうに笑いながら愛に抱きついた。ありがとうとばいばい。そう聞こえたとき愛の目の前の景色が揺らぎだした。
気づくと元の病室に戻っていた。まだ眠っている湊の顔に安堵の息をつくと後ろに気配を感じて振り返る。そこには同じく安堵の色を浮かべた翼が立っていた。
「お疲れ様」
「ただいま兄様」
心配してくれてありがとうと笑顔を向けそっと湊の病室を出た。
--祈ちゃんも心配してるかな?
「人の記憶を知るのは少し苦しいね」
ぽつりと零れた愛の呟きに翼は何も答えず愛を抱き上げると地を蹴った。落とされないよう翼の首に腕をまわしながら翼の顔を見上げる。視線に気づいた翼は大丈夫とでもいうように笑うとそのまま愛を祈のもとまで送り届けた。立ち去るときからかうようにブレスレットを弾いて。