#571 暗黒街、そしてそれぞれの暗躍。
「こいつか?」
「ええ。ほら、この腕のとこ……」
黒服で身を固めた男たちの一人が、路地裏で横たわる浮浪者の袖を捲り上げた。浮浪者は小さなうめき声を上げるだけでそれに抵抗もしない。
「なるほど。始まっているな」
浮浪者の腕には鈍色の鱗のようなものがこびりついていた。
「連れて行け。さすがに人前で変異されちゃあ迷惑だ」
「メンドくさいっスね……。ここで始末してもいいんじゃないっスか、兄貴?」
「上の命令だ。殺すなってんだからしかたねえだろ」
部下の男たちが浮浪者の足を持ち、引きずっていくのを眺めながら兄貴と呼ばれた男は煙草に火をつける。
ふー……と吐き出した煙は冷たい夜風に散っていく。
「あんなやつ、生かしてなんの得があるんですかね?」
「さぁな。なにかの実験に使われるんじゃねぇのか? 最後まで有効利用しようってこったろ」
さほど関心がないように答えた男は、吸い終わった煙草を捨て、靴で踏みつける。
「行くぞ」
「へい」
男たちが路地裏から去っていく。夜の闇に紛れて、その一部始終を黒猫と黒犬が屋根の上から見ていたことにも気付かずに。
◇ ◇ ◇
湾岸都市ブレンの南区にある酒場、『銀鮫亭』では、今日も荒々しい男たちが安酒に酔いしれていた。
酒場の中には海で働く漁師たち、気難しい船大工、いかにもわけありそうな旅人、胡散臭い商人などが集まって酒を飲んでいる。
だが、陽気な酒かといえばそうでもなく、どちらかといえば愚痴や不満や怒りを吐き出す場としての酒の席だ。
「あぁ!? もっかい言ってみろ、この野郎!」
「なんべんでも言ってやるよ、このボケが!」
そんな声とともにまた今日も殴り合いが始まる。周りの客も『またか』と少し顔を顰めただけで、止める気はさらさらない。店内で暴れられちゃ困る、と店員だけがオロオロとしていた。
殴り合いが激しさを増してくると、さすがに周りの客にも迷惑になってくる。
我慢ならなくなってきたのか、一人の小柄な少年が席を立ち、殴り合っている二人の前へと進み出た。
「うるさいよ、おじさんたち」
微笑みながら少年が二人に対して突き飛ばすように左右の掌底を繰り出すと、喧嘩をしていた屈強な二人が勢いよく吹っ飛び、店の出入り口から外へと転がり出ていった。
その瞬間を見ていなかった客は『何があった?』と不思議そうに、目撃した客は『嘘だろ?』と目を見開いている。
少年は何事もなかったかのように席に戻り、正面にいた怪しい商人に声をかけた。
「ごめんね。どこまで聞いたっけ?」
「あ、ああ、黒蝶の組織体系についてだな……」
商人は目の前の少年が只者ではないと改めて認識した。正確には少年ではなく少女であったが。
ブリュンヒルドの諜報員、焔は、酒場にいた比較的口の軽そうな商人にターゲットを絞り、情報を集めようとしていた。
あまりにもうるさいため喧嘩の仲裁に入って目立ってしまったが、結果、商人の口がさらに軽くなったようなので問題ないよね、と焔は考えていた。
「首領の下には幹部が数十人いるが、それらを取りまとめているのが四人の上級幹部だ。こいつらがそれぞれ、実働部隊、闇取引、情報収集、密造・密売を担当しているらしい」
「実働部隊ってのは?」
「護衛や恐喝、金貸しの取り立て……腕っぷしが必要な仕事全般だよ。まぁ、それだけじゃなく、金次第で暗殺なんて依頼も請け負うって噂だ」
前領主は黒蝶に暗殺された、なんて噂もある。たぶんそれは事実なんだろうと焔は思った。
忍び稼業にも暗殺という分野はある。幸いにも焔はそういった仕事を回されたことはないが、かつてイーシェンではそういった闇の仕事もあったと年配の忍び衆から話を聞いたことがある。
ただ、暗殺依頼を受けるのはかなりのリスクがあるとも聞いている。
暗殺任務そのものによる危険ではない。暗殺依頼をした者に狙われるリスクである。
暗殺が成功すれば、そのことを知っているのは依頼者と実行者だけになる。依頼者にしてみれば、弱みを握られた、とも取れるのだ。
ならばいっそのこと……と、暗殺を終えた忍びが依頼者に殺される、なんて話も多い。
黒蝶ではどうなのかわからないが、表に出てマズい暗殺なら実行犯は消されている可能性もある。
自分なら絶対にそんな依頼は受けない、と焔は思ったが、そもそもあののほほんとした自分の主君が、暗殺なんてことをさせるはずもないか、と自分の杞憂に笑みを浮かべた。
「黄金薬ってのはその中のどこがばら撒いているの?」
「……お前さん、なんだってそんなことを聞く? 悪いことは言わん。余計なことに首を突っ込むのはやめときな。いくらお前さんが強いっていっても、ヤツらに狙われたら命がいくつあっても足りんぞ」
意外にもこの商人は親切な男らしい。焔は自分のことを心配してくれる、どっからどう見ても胡散臭い身なりの商人に、『見た目で損してるなぁ』と益体もないことを考えた。
そんな胡散臭い商人の前に、焔は銀貨をパチリと一枚置く。
「……よくはしらねぇが、闇取引を仕切ってるデロリアか、密造・密売を任されているビーリスだと思う」
そう言いながら商人は銀貨を引き寄せ、ぬるくなったエールを呷った。おそらくこの男も黒蝶となにかしらの関わりがあるのだろう。
この町で黒蝶に関わらずに商売ができる者はいない。この酒場だって、おそらくは黒蝶に少なからずみかじめ料などを払っている筈だ。でなければとっくに潰されている。
「闇取引のデロリア、密売・密造のビーリスね……」
邪神の使徒との取引、と考えると本命は闇取引だが、黄金薬を売っていると考えると密造・密売の方かな、と焔は思った。
「ありがと、おっちゃん。助かったよ」
焔はさらに銀貨を一枚パチリと置いて席を立つ。これは自分の食事代も含んでいる。
それなりの収穫があった焔は上機嫌で酒場の外に出た。
外に出てしばらく歩くと、どこからか屈強な男たちが現れ、焔をぐるりと取り囲む。
黒蝶ではない。取り囲んだ中には焔が酒場から吹っ飛ばした二人の顔があった。
「こいつだ! クソガキがふざけた真似しやがって!」
「おい、お前ら! こいつを押さえつけろ!」
どうやら仲間を連れて仕返しに来たらしい。周りの男たちは一斉に焔へと向けて襲いかかった。
が、次の瞬間、ドドドドドドン! と、鈍い音がリズミカルに響いたと思ったら、襲いかかった男たちがその場に白目を剥いてくずおれる。
「「な……!?」」
襲いかからなかったこの騒ぎの元凶となった二人のみが、その光景を見て絶句する。いったいなにが起こったのか、男たちの目にはなにも映らなかった。
「うーん、あたしを倒したきゃ、この十倍は連れてこないとダメだねー」
焔はそう言いながら一瞬で二人の懐に飛び込み、酒場で食らわせた掌底を『今度は手加減せずに』ぶっ放す。
男たちはその場から吹っ飛び、近くにあった馬小屋の塀や水桶をなぎ倒して、馬糞の山へと突っ込んでいく。
大きな音に酒場からなんだなんだと野次馬が集まってきて、倒れている男たちと馬糞に埋もれている二人を見つけたが、すでにその時には焔の姿は夜の闇に消えていた。
◇ ◇ ◇
「あんた馬鹿じゃないの?」
「うわ! 辛辣!」
焔の報告を聞いた雫の一声がそれだった。いきなり馬鹿呼ばわりされた焔は、大袈裟に胸を押さえて仰け反る。
「なに目立ってんのよ。忍って文字を一万回書くといいわ、あんたは」
「いやあ、これは不可抗力ってやつでして……」
「酒場で騒いでるやつらなんて無視すりゃいいでしょうが。別に絡まれたわけじゃないんだから」
「そうだけどぉ……」
目の前の商人の声が聞こえないほどうるさかったので、つい行動に出てしまった焔である。雫にそう言われると、確かに短絡的だったかと思い、反論する声も小さくなってしまった。
「まあ、ちゃんと情報を得てきたところは評価するけどね……」
宿屋の一室には焔、雫、凪の三人だけで、バステトとアヌビスはまだ戻っていない。
「凪の方はどうだったの?」
「私は繁華街の方に行ったんだけどねぇ、何人か怪しい人とすれ違ったよ〜」
「怪しい人? 黒蝶の構成員?」
「そっちじゃなくて、薬の方の〜。足取りもフラフラ、目もうつろで、『クスリ、クスリ、クスリ……』って、ブツブツ呟きながら町を徘徊してたよぉ」
凪が見かけた、おそらく黄金薬の使用者と思われる者は四人。彼女は思ったよりも浸透していると感じた。
薬を買うための金を使い果たしたら、おそらく彼らは犯罪に走るのだろう。あの薬はそういった理性による抑止力を鈍化させる効果もある。
「解毒薬をあげようかとも思ったんだけどぉ……」
この任務のため、三人にはいくらかの解毒薬が与えられている。各国にも数十本しか渡していないものであり、それがどれだけ貴重なものかはわかっているつもりだった。
「やめて正解よ。命に関わる末期症状ならともかく、貴重な解毒薬をおいそれとは使えないわ。それに治したところで元を断たないと、また手を出す可能性もあるし」
「だよねぇ〜……」
凪にそういった正論を吐く雫だったが、彼女も忸怩たるものを感じていた。
救えるのに救えない。頭では今はそれでいいんだと思いながら、本当にこれでいいのか? という疑念が鎌首をもたげてくる。
雫は首を振り、余計な考えを頭から追いやる。今は任務中だ。目の前の仕事をただ忠実にこなすことだけを考える。
コツコツ、と窓を叩く音に顔を上げると、夜の闇に同化するような、黒いバステトとアヌビスの姿が浮かんでいた。いつの間にか屋根伝いに帰ってきていたようだ。
凪が窓を開けてやると、二匹は音もなく室内に降り立つ。
『いやー、疲れたぜー。あいつらあっちこっち動き回りやがるからさ』
アヌビスが前脚を伸ばすようにしてそんなことを口にする。ゴレムでも疲れたりするんだろうか? と焔は首を傾げたが、あえてツッコむのはやめておいた。
『黒蝶は黄金薬をばら撒くだけじゃなく、末期症状まで進んだ中毒者を回収していたわ』
「えっ? それって治療のため……じゃないわよね?」
雫の言葉に黒猫が小さく頷く。
『黄金薬により呪いが進行すると、身体の変異化が始まるわ。そうなるともう理性なんてなくなって、自分が何者かもわからなくなる。私たちが持たされた解毒薬ならまだ助けられるけど……』
「そんな人間を回収して黒蝶はなにを……?」
『完全に変異化が終わった個体には、その体内に「呪石」という正八面体の結晶体が作られるの。黒蝶の連中はそれを取り出していたわ』
バステトの報告に三人娘の顔が強張る。体内から取り出した……ということは、その者はもう生きてはいまい。
『この「呪石」というのはゴレムのGキューブの代わりになるの。より強く、より優秀なゴレムの核が労せずに手に入る……。さぞ黒蝶の連中は美味しい思いをしているんでしょうね』
本当に死ぬまで、いや、死んだ後まで搾取され続ける。そんな非道なやり方に、この場にいる全員が顔に怒りを滲ませていた。
「変異化って全員が全員、なるわけじゃないんだよねぇ?」
『魔法抵抗力がある者や、まだ心に希望を待つ者なんかはなりにくいって博士が言ってたわ。心の中の負のエネルギーが強い者ほど呪いにかかりやすい……ってことなんでしょうね』
凪の質問にバステトがそう答える。
だが、このような環境下で希望を持ち続けるのは難しいのではなかろうか、と凪は思った。黒蝶が牛耳るこの町で、希望など無いに等しいのだ。
「とにかくまずは黄金薬の出どころを調べないとね。闇取引のデロリア、密売・密造のビーリス、幹部のこの二人を尾けていれば、何かわかるかもしれないわ。尾行するならバステトとアヌビスが最適なんだけれど、今回は分かれてもらうことになるわね」
そう言った雫の言葉に、焔が眉根を寄せて傍らの黒犬に視線を向ける。
「え、バステト抜きで大丈夫なの、このバカ犬……?」
『おっとぉ!? 犬の演技をさせたら右に出る者はいない俺っちに、そいつぁずいぶんな言い草だなぁ!』
犬の演技もなにも、お前の行動、まんま犬じゃん、と三人娘たちは思ったが、言葉にはしなかった。
「さすがにアヌビスだけだと不安だから、私たちの誰かがついていかないといけないかもしれないわね……」
そう言った雫、そして焔、凪の視線が交錯する。間違いなくこれは貧乏籤だ。面倒くさいことだ。
「「「じゃーんけーん……!」」」
『俺っちの扱い酷え』
白熱したじゃんけんを始めた三人娘に、アヌビスはボソリと呟いた。
◇ ◇ ◇
湾岸都市ブレンの北区には、この町にそぐわない高級店がずらりと並ぶ通りがある。
夜の闇に魔光石のネオンが光り、今日も大金を持った客を誘蛾灯のように引き寄せていた。南区の安酒場とは大違いである。
この店のほとんどが『黒蝶』の息がかかった店であった。『黒蝶』の取引相手を接待するための店であり、表に出せない闇取引をする場でもある。
そのひとつ、『ナイトメア』という看板が掲げられた娼館で、怪しい取引をする男たちの姿が見える。
いくらこの町の領主をも抱き込み、かなり好き勝手をしている『黒蝶』でも、帝都の騎士団にこういった取引の証拠を掴まれてしまったら、一巻の終わりである。
町のどこに潜入調査員がいるかわからない状況では、こういった取引をする場所は彼らにとって必須であった。
「こちらがお約束のものです。お納め下さい」
「確かに。では代金はこれで……」
ほの昏く青い正八面体の結晶体が入った箱と、かなりの金貨が入っていると見られるずっしりとした皮袋がテーブルの上で交換される。
取引が終わるとそそくさと相手は結晶体の入った箱を抱えて部屋を出ていった。
その後、すぐに別の扉から葉巻を咥えた恰幅のいい口髭を生やした男が現れる。
箱を渡した痩せぎすな糸目の男がソファーから立ち上がり、首を垂れた。
髭の男は取引相手が座っていた場所にどかっと座ると、吸い終わった葉巻を灰皿で揉み消し、テーブルに置かれた革袋を持ち上げて、そのずしっとした重さを確かめた。
「よくもまああんな石ころにこんな金を出す気になれるよな」
「ゴレム技師ならばいくら積んでも欲しい物ですから……。研究者にとっても未知の素材でありますし」
「は。強欲だな。まあ、そのおかげでこっちは潤っているわけだけどな」
髭の男はジャラッ、と革袋をテーブルに投げ捨ててシガーケースから葉巻を取り出した。シガーカッターで吸い口を作ると横にいた店員が恭しく火を点ける。
「で、例の物はどうなってる?」
「ここに」
髭男の目の前にいた糸目の男が小さなケースをテーブルに置く。蓋を開けると中には試験管のようなガラスの入れ物が1ダースほど入っていた。
試験管の中には暗金色の液体が入っており、髭の男はそれを一つ取り出して天井にある魔光石のシャンデリアに翳した。
「黄金薬に特殊な魔獣の因子を加え、濃縮したものでございます。人体実験をしたところ、これを身体に打ち込むことで強制的に変異させることはできたのですが、理性は完全に消し飛び、また核は生成されませんでした」
「失敗か」
「接種した人間はゴレムをも凌ぐ膂力を手に入れ、痛みを感じていないようでした。一概に失敗とは言い切れません」
「だが、理性が吹っ飛んでは兵隊として使い物にならんだろう。せめて核ができるのであれば苗床としての使い道はあっただろうが……」
髭の男が試験管をケースに戻す。糸目の男がそのケースに蓋をして話を続けた。
「いえいえ、たとえば王侯貴族のパーティーなどで、出席者にこっそりとこれを打ち込めば……」
「突然化け物が現れてパーティーはめちゃくちゃになるな。……なるほど、うまくいけば邪魔な奴が死んでくれるかも、ってか?」
「まあ、確実性は低いですが、要は使い方次第ということです」
ふむ、と髭の男──『黒蝶』の上級幹部の一人、密造・密売を担当するビーリスは考え込んでいた。
確かに確実性は低いが、その場で鉄砲玉を作れるというのは大きなメリットのような気もする。自分は怪しまれることなく、その場に被害を与えることができる。問題は打った相手が見境なく攻撃するので、自分が巻き込まれないかということだが。
「まだ改良の余地はあるんだろう?」
「はい。濃縮レベルを落とせばなんとか理性を保てるのではないかと考えています」
「なら続けろ」
「は」
糸目の男が恭しく頭を下げたところに、店員の一人が来客を告げる。
「来たか」
この店に来たビーリスの目的は、目の前にある新薬の報告を受けることではない。今やってきたその人物と取引をするためだ。
糸目の男が金の入った革袋と薬品ケースを回収し、テーブルの上が片付いたところで、店員に案内された人物が姿を見せた。
「邪魔するぞぃ」
初めてその人物をみた一部の店員はギョッとした表情を浮かべた。無理もない。あまりにも異様だったからだ。
黒いローブに身を包み、山羊の頭蓋骨を被った、不気味な男。
声から老人と予想されるその男の手には、メタルブラックの王笏が握られている。
邪神の使徒の一人、グラファイトは山羊の頭蓋骨の下で、にいっ、と笑みを浮かべた。




