☆3
翌日。夕刻、アパートに帰って来た僕が見たものは――
時刻は6時前。夏の日差しは眩しくて、日中と同じくらい周囲は明るかった。
それなのに、1LDKの僕のアパートの何処にもフワフワの姿はなかった。
まさか? もう? 天国へ戻ってしまったのか?
一瞬愕然とした僕。
今日は小学生の頃よりグッと上達した料理の腕前を見せるべく、本格的カレーを作ろうと買い込んで来た極上牛肉や香辛料や野菜が詰まったエコ袋を腕に抱えたまま、僕は玄関に立ち竦んだ。
そのまま狭い室内を見廻して――
ハッとした。
僕は荷物を床に下ろすと、ベランダに突進した。
いた……!
何とフワフワは、僕のフワフワは、
ベランダのコンクリの上で眠っていた。
「やっぱり、おまえなんだな? フワフワ……!」
僕は力一杯フワフワを抱きしめた。
ベランダはフワフワのお気に入りの場所だった。
フワフワを飼っていた当時も僕等は母子してやっぱり今みたいな1LDKに住んでいたから、思う存分放して自由にさせられるのはベランダだけだったんだよな。
「そうか、やっぱり、ここが好きか、フワフワ?」
何年ぶりかで抱きしめたフワフワ。
昔と違って柔らかくはなかった。かなりゴツゴツしてたな。
一応男の子だもの。華奢だとは言え、筋肉質で骨もしっかりして、そして、毛皮ではなくて(昨日盗み見た通りに)滑らかな肌……
でも、違っているのはそういう部分だけで他は全部、昔と一緒だった!
つまり、フワフワは抗うことなく僕の腕の中でじっと抱かれていて、そうする時いつも僕を塗り潰していた不安や孤独や悲しみを、一瞬で何処か遠い処へ吹き飛ばしてくれたのさ。
ああ、失恋の痛みが消えて行く……
翌日は水曜で、僕の休みの日だった。
あ、僕は駅前のデパートの紳士服フロアの専属なんだ。
だから、スーツの着こなしにはちょっと自信がある。
俺を振ったあいつにも職員割引でスーツをバッチリコーディネートして買ってやったのに。それなのにあいつは、あいつときたら――以下、あまりに女々しいため数行削除。
仕切り直し。
翌日は水曜で、僕の休みの日だった。
僕は満を持して、フワフワを連れて遠出した。
路面電車に乗って、バスに乗って――
勿論、フワフワの料金もちゃんと払ったさ! 籠に入れて持ち歩いているわけじゃないからな。
おまけに綺麗な色の格子の半袖シャツをプレゼントして着せたんだ。
予想通り、フワフワはアイビールックがよく似合った。
あ! レトロだって笑った、おまえ、よく聞いとけよ! アイビールックは最近復活の兆し大有りなんだぜ。ラルフローレンだって、P・スミスだって――
いけねぇ、また脱線した。
なんせ、小説を書くのはこれが初めてなんで。
要するに、僕が目指したのは藻X山という山だった。
新しく導入されたヨーロッパ山岳地帯採用と同種のロープウェイを降りると、そこは見晴かす緑の絨毯……!
白樺の木々は風に揺れて賑やかな影を零している。
その燦ざめく影が音符なら、次々と跡を辿ったならどんな素敵な調べになるんだろう?
こんなことこそ神様に訊きたい気がした。
その美しい地上で、僕はフワフワに言った。
「さあ! 思いっきり走って来い!」
「……」
フワフワは困った顔をした。
あの日と同じだった。
ごめん、フワフワ。
全て僕のせいだ。
僕はこれを謝りたかった。ずっと――
ベランダしか知らなかったフワフワを初めて外へ連れ出した日。
その日は何ヶ月振りかの母の完全休日で、僕等はお弁当を持って、フワフワも一緒にこの山へやって来た。(当時のロープウェイは旧式のやつだったよ)
どんなに喜ぶかと思ってフワフワを草の上に下ろすと、フワフワは凝結したように一歩もその場から動かなかった。
ベランダのコンクリの地面しか知らないフワフワ。
こんな歪な生き物にしたのは僕だ。
僕は、ずっと後悔してた。
だから、もし、フワフワを呼び戻すことができたなら、絶対、今度こそ、緑の草の上を走る楽しさを教えてやろうって思ってたんだ。
嘘じゃないぜ?
フワフワが死んだ日、フワフワを納めた柩(キ×ト屋のケーキの箱だったけど)に僕はちゃんとそう書いた手紙を入れたんだからな。
「さあ! フワフワ! 今日は一日中、この草の上を走りまわろうな?
怖いことなんて全然ない。そりゃ、最初は足の裏がチクチクするかも知らないけどさ。
絶対、気持いいってわかるから!」
困ったようなフワフワの顔が少しだけ笑ったように見えたのは、気のせいだろうか?
手本を示すべく、裸足になって、俺は緑の斜面を駆け下りた。
振り向くと、フワフワも僕を追って、裸足で走り出していた。
WOW! 大成功……!
僕たちは、その日一日中、もういいってくらい山頂を走り回ったさ!
他人の目なんか知ったことか!
その夜のこと。
なにせ、昼、あれだけ運動したせいでグッスリ眠りこけていた僕は、真夜中、妙な気配で目を醒ました。
暗闇の中で僕を覗き込んでいるフワフワの円らな瞳……
「フワフワ?」
フワフワは遂に言葉を発した。
(って、人間化してるんだから、喋ったってそう不思議はないだろ?)
闇の中でフワフワははっきりと言ったのだ。
「あんた……スッゴク……いい人だな?」
それをわかってもらえて、僕も凄く嬉しかった。
でも、その後の行為はどうしたものだろう?
自分のかつてのペットにこんなことしていいんだろうか?
でも、言わせてもらえば、誓って、積極的だったのはフワフワの方だ。
後で知ったんだけどウサギは万年発情期なんだってな?
だからか? こんな可愛い顔してるのにその技術たるや――
一体何処で憶えたんだよ、フワフワ?
あ! ダメだ!
いや、これはその時の、俺の発した声じゃなく、ダメだ! これ以上は……
いや、だから、これ以上持たないのは俺の体の箇所じゃなく、〈タグ〉のことさ!
畜生、選択をミスったな?
やっぱりRー18にしておくべきだった。
せっかくの絶頂――自主規制により以下削除。
そういう理由で、一挙に事後へ飛ぶ。
僕はフワフワを胸に乗っけたまま満ち足りた気持ちで囁いたよ。
「今度の休みにはさ、動物園へ行こうか?」
胸の上でフワフワが笑う。
フワフワな猫毛が肌を擦って、擽ったかったっけ。
「いきなりだな? なんでまた?」
「知らないのか? 円X動物園さ、一年間で夏の何日かだけ夜に開いてるんだ。
夜の動物園て……凄くロマンチックだと思わないか?」
恋人とさ、そこへ行くのが夢だったんだよ。
例えば、恋人と並んで夜の狼を眺める。
それで、勿論、チャンスがあったらキスを交わす。辺りは真っ暗なんだから。
今年の夏こそ実現させるつもりだったのに。
畜生、あいつとは夏まで持たなかったとはな?
でも、その夜、眠りに落ちる僕の頭の中では、狼舎の檻の前で手を繋いで立っているのは元恋人ではなくてフワフワだった。
僕はこの上なく幸せな気持ちだった。
フワフワが完全にいなくなってしまったのは翌日のことだった。
夜の動物園へ行くって約束をしておきながら……