☆1
「悪いな、納所、俺もう行かなけりゃ」
立ち上がった友人の翔に僕は縋った。
「え? もう行くのか? 俺が傷心なの知って……慰めようと呼び出したんじゃないの?」
「いや、おまえがそんな大変な状況だとは知らなかった。こっちとしても今日はちょっとコミいった問題抱えてて……いけねぇ、呼び出しだ!」
わざとらしく携帯に視線をやる翔。
わかってたけどな。こいつは決して信頼の置ける人間じゃない。ここ狸×路で売れっ子ホストとして荒稼ぎしてる、見てくれだけが全ての調子のいい奴さ。
翔は僕を残してさっさと牛丼屋を出て行った。
そういうわけで──
普通の精神状態だったら僕は絶対あんな真似はしなかったろう。
友人からはクールだと(一応)思われてるし、他人のことに首を突っ込む質では断じてない。
でもさ、その日の自分はもうどん底だった。
前日、恋人にメール一行で振られて……(こんなのアリか?)悲しくて、辛くて、寂しくて、仕方なかった。
だから──
日本一古い某TV塔前の交差点で、コケて派手に荷物をぶちまけた老人に手を貸したのだ。
改めて思い返すと、その老人はちょっと変わっていたな。
西洋人で190くらい上背があって、肩までの銀髪、水色の目。
バックパッカーとして世界旅行をするには歳を取り過ぎてるんじゃないか?
横断歩道に散乱した荷物を掻き集めて老人に肩を貸し、兎にも角にも向こう側に渡りきった。
冬には氷の像が立ち並ぶその公園のベンチに腰を下ろすなりじいさんはこう言った。
「ありがとう。君は優しい青年だね?」
嫌に流暢な、モロ日本語。
照れ臭くて去ろうとした僕の手を引いてじいさんは言うのだ。
「お礼に、どうか、これを受け取ってくれ」
「いや、お気遣い無く。大したことしたわけじゃ──」
僕の言葉はそこで止まった。じいさんが手に持っているモノを見て。
何だったと思うよ?
それは何の変哲もない──と言うか、ただの黒いゴミ袋だった。
(からかわれてんのかな? それとも、老人特有のあれ、ボケてんだろうか?)
吃驚した僕の顔を見て、じいさんはニヤッとした。
その顔は正常そのものだった。だって、僕の驚きを楽しんでいるように見えたから。
「たかがゴミ袋、と思ったね?」
「あ? いえ」
「ところが違うんだよ。実はこれは〈ペテロの袋〉なんだ」
あー、ボケてる方だった。
「失礼します」
だが、老人はガッチリと僕の腕を掴んで離さない。その力たるや……!
言い忘れたけど僕だって身長180あるからね。中高と水泳部で鳴らして、今だって自宅アパートのある白X区の地下鉄近くのスポーツクラブで週に三日は泳いでる。その僕を身動きできないほど抑えつけてんだぜ。
僕はつくづくやり慣れないこと──親切なんてするもんじゃないと後悔した。
それはともかく、ここは素直に話を聞いて一秒でも早くこのジジィから逃れるのが賢明だと悟った。
「聞きたまえ」
「聞きます、聞きます」
「〈ペテロの袋〉を知ってるかね?」
「いえ」
「人間はね、死んだ時、天国の門の前でかの聖者に袋を一つ手渡される」
「僕は曹洞宗ですが、大丈夫でしょうか?」
この質問はスルーされた。
「その袋の中にはその人が生前失くした大切なもの……一番取り戻したいものが入ってるんだ」
老人は静かに微笑んだ。
「今日の君の親切な行いを讃えて特別にこれを与えるよ。君が失って一番取り戻したいものの名をこの袋に囁いてごらん。必ず君の元へ戻って来るから」
それだけ言うとウィンクして老人は行ってしまった。
その場所を一刻も早く去りたがっていた僕の方は暫く動けなかったんだからお笑いだ。
気づくと、ジャガバタや焼き玉蜀黍の匂いの漂う公園の雑踏の中に僕は立ち竦んでいた。黒いゴミ袋を握り締めて。
それから、僕はどうしたと思う?
君! 最初に戻ったね? 僕が恋人に振られてどん底の気分だったって箇所をチェックし直した? 先は読めたと北叟笑んでる?
ハズレ! そこまで僕は単純でもなければお人好しでもない。何より、こんな馬鹿な話を本気にするようなロマンチストでもないよ。
だから、取りあえず、近くのコーヒーショップへ寄って濃いコーヒーを飲みながら考えた。
今日の奇妙でささやかな邂逅を記念して、マジにならない程度の軽いお遊びなら、それなりに楽しめるんじゃないか、とね。
考えても見ろよ。黒いゴミ袋に向かって振られた恋人の名を囁く姿はあまりにイタ過ぎる。
でも、軽いジョークなら、そこそこスタイリッシュというものさ!
それで僕は、こっちを見てる人がいないのを確認した後で、ゴミ袋にこっそり囁いた。
僕の人生で、僕が失くした大切なもの。
もう一度、戻って来て欲しいものの名を。
「フワフワ……!」