ⅱ 吾輩は猫であってネコではない
朝。
カーテンを閉めずに寝てしまったせいか目を開けるといきなりガードもなしに日光が飛び込んできた。天吏は思わずうめき声をあげてその場に突っ伏してしまう。そして、背中を丸め頭を抱えるという何ともしょうもない防御態勢に入った。
ジジジジジっ
蝉の鳴き声。
近年、街の人工化によって自然の生物は少なくなったとはいえ、この蝉の鳴き声は治まることはなかった。というより、むしろ悪化していると天吏は思った。耳障りな音。そんな音はいらないと突っぱねてもそれは通らなければいけない道であり、避けることはできない。
まぁ、大げさだが。
しかし、煩い。煩いのだ。
異常に、煩い。
耳を両手でふさぐもののそのガードはいとも簡単に破られる。まったく、どんだけ凄いんだよと天吏は呟くとむくっと起き上がった。そして、何度か頭を起こすために首を振ると視界の調整を始める。ぼやける視界、しかしそれはすぐに元通りのなる。
ふわぁぁぁぁぁ・・・・・・
天吏はこの世のものとは思えないほどの巨大なあくびをすると手を上に延ばして背中の筋肉を伸ばす。寝ている間に固まった筋肉を伸ばすときほどの快楽はない、そんなことを思いながら天吏は背伸びを楽しんだ。
現在の時刻は07:26と、目覚まし時計が告げる。
「あぁ、そうか」と、天吏はそれに答えるとハンガーに丁寧にかけてあったシャツをそのまま上に羽織った。そして、ズボンを履きかえると近くに置かれた鞄、規定のスクールバックをひっつかむと部屋の扉を乱暴に開け出ようとするものの、一端動きが止まる。そのままの姿勢でゆっくりと後ろ脚で部屋に戻ると、充電器が指しっぱなしだったiPhoneを掴むと部屋を飛び出した。
この家には誰もいない。
そう、天吏が住むこの家は何年も手入れされていないかのようにボロボロでまるで空家のようだった。玄関の門も壊れ、鍵は壊れ、柵という柵はすべてあさっての方向に向いていた。
しかし、今の世の中こんな家はざらにある。
というのも、人口が減少したからだ。
今から五〇年前、つまり、二〇一五年には約七十億人いた人間も二〇六五年現在では一億いるかいないかである。それは、五〇年前では考えられなかった事態であり、現実だった。すべては、あの二〇年前の二〇四五年、《no》と呼ばれている存在しない日によって消滅した。今や、人間が住んでいる面積は日本列島があるかないかぐらいであり、人間がこの地球を支配していた時代とは全く別のものとなってきている。
―――今の地球の支配者は人間ではない、鬼なのだ
という文句は天吏でも知っている。この今を生きる人間達は全員知っている。そして、それを認めている。
そうして人間は生きている。
「おはろ」
無愛想な声が天吏の後ろで聞こえた。振り向くとそこには少女がいた。天吏と同じぐらいの少女。セーラー服という名の制服を身につけている。目は大きく少し赤く染まっているが、それは天吏を見上げ、両方に均等に分かれた髪はうさぎの耳のように縛られ、肌は透き通るように白い。まるでうさぎのような少女は、ぱんぱんに頬を膨らまし天吏を見上げていた。
「お、おはよう・・・・・・」
思わず天吏はその威圧に後ろへと後退する。そして、
「梓」と付け加えた。
んぐ、とその少女、梓は唸ると何もなかったかのようにビニール袋を天吏に差し出した。
「あげる」
そして、梓は天吏を空気のように扱い平然とした顔で歩いて行った。
「あ、ありがとう」
遅れて天吏が感謝の意を表す言葉を述べるが多分それは梓には聞こえてはいないだろう。
これは日課といえば日課なのだ。
というか、梓によって強制的に日課となった日課なのだが。
さて、それは良いとして今日も一日が始まる。だるい学校と授業。それは学生に課せられた義務であり、今後生きていくための道しるべとか何とか。まぁ、そんなものだから堅苦しい。
そして、そんな堅苦しい学校が始まりのチャイムを告げた。
憂鬱な教室、憂鬱な授業、憂鬱な・・・・・・何か
それが順番に天吏を刺激した。そして、憂鬱にさせた。
天吏が通う高校は普通の高校といえばそうだ。しかし、違うと言えば違う。どっちだよ、と思うかもしれないが実際にどっちか分からないから問題なのだ。
そもそも、現在地球にある人間が生活する地域は七つある。そのうち一つが、元々日本があった地域、つまりここなのだが、この地域、通称『エメラルド地区』と呼ばれるこの地域は丁度、関東地方を丸のみできるかできないかの広さなのだ。世界では四番目に広く、人口は二番目。中型の比較的、整備の整った地区である。防御システムも上々で、生活する上ではそこまで問題はない。住民のほとんどが日本人で公用語は日本語。要は、日本を東京に収めた、と解釈してくれればいい。この『エメラルド地区』には高校が五つあり、天吏が通うこの高校は丁度中堅にあたる。現在の学校システムは学校ランクによって就職や進学先が決まるため進路にはそう考える必要はない。ただ、一度なってしまったものをひっくり返すことはできないという短所はあるが。
とにかく、天吏は中間のただの何もない一般人となる。
ただ、天吏はある特殊な能力を開花させていた。
特殊能力。
今の世の中で一番重宝される能力。天吏はその能力の保持者なのだ。ただ、それを公にしていないだけ。というのも、天吏は注目されるのが嫌だった。そういった人間ではないことは自負しているし、好きではない。逆に、嫌気がさすほどだ。
そもそも、英雄とかそう言った身分が嫌いなのだ。目立たず、控えめに過ごす。それがいい。そう思っていたし、これからもそうするつもりだった。
しかし、それは崩壊する。
そんなことを天吏は知りもしないけれど、それは後々知ることとなる。
黒猫によって。
✝
昼休み。
小一時間の長い休みがこの学校に訪れた。
空は快晴。
だからか、生徒たちはこぞって外でランチタイムを過ごそうと日陰の場所を求め教室から消え去って行った。教室にもまばらだが残ってはいたが、そのほとんどはパソコンや小説を開き個人の時間を楽しんでいた。天吏も普段はそっち、つまり個人の時間を楽しむ派なのだが今日はそうもいかなかった。
それは一時間目が終わった直後のことだ。アレが天吏の教室に侵入してきたのは。
アレ、それはバスケ部の部長ことチビ鬼部長と恐れられた高三の先輩、出雲先輩だ。少年のような体つきと童顔、そして、口調はまるで男。精神年齢は一〇歳前後と噂される。そんな出雲は天吏とは幼馴染だ。まるで、姉弟のように育ったせいか時たま天吏は出雲の事を「姉ちゃん」と親しみをこめて呼ぶ時もあった。最近はそうないが。
その出雲が何故か昼休みに天吏を呼び出したのだ。どーんと。
つまり、出雲が天吏の教室に登場。それが、豪快に扉を音を立てて開いたとしたら注目を集める。そして、「天吏ー」と叫び走って行って抱きつく。周りの観衆たちはなんだなんだとざわめき出す。「昼休み、校舎の裏に来い」とか男女の恋愛要素丸出しの台詞がそんな空気の中に吐かれ、観衆の興奮度がMaxに達する。
とまあ、こんな感じだ。
まるでなにかの漫画のような一場面だが、そんなことが実際に起こったというわけだ。
そして、昼休み。
天吏は重たい腰を上げると、ゆっくりと教室の扉から出て行った。そんな様子を一部の教室に残った組が面白そうに見てる。その中に梓もいた。
梓は大きな瞳を微動だにせず、じっと天吏を見守っていた。そして、しばらくするとうさぎの耳のように結ったツインテールを揺らしてサンドイッチに噛みついた。
「んで、久しぶり」
出雲と待ち合わせしていた場所、つまり校舎の裏側につくとすでにそこには出雲が待っていた。格好がバスケのジャージなのは昼練があるからなのだろう。天吏は朝、梓に貰ったビニール袋に入ったお昼を片手に持ち、イアホンを肩耳にして、情けなく歩いてきた。そして、出雲を見つけると
「よぉ」
と軽く返事した。
「んで、何?」
めんどくさそうに尋ねる天吏に出雲は溜息をつきながら頭を抱えた。
「アンタ、相変わらずだねぇ~本当。まぁ、それがどうとかオレには関係ないけどさ。あ、そうそう。アンタに用があんのよ。だからこうして呼び出した訳。別に、あそこらへんにいるバカップルとかになろうとは思ってないから安心して。この場が一番安全だと思って、ね」
たしかに、あたりを見回すとそこはリア充の聖地だった。あちこちでべたつくカップル共が昼の休みを有意義に使っているようだった。思わず、天吏は気まずくなったがもう遅い。
「で、その用って何だよ」
気を紛らわすためか、そう言ったものの天吏の顔は赤くなってしまっていた。
ん、とだけ出雲は唸ると小さく聞き取りずらい低い声でこう言った。
「今日の夜、十一時五十五分に中央公園に来い。そこで続きは話す」
それだけ言うと出雲は音を消すかのようにその場を去った。
そして、そこには天吏だけが残った。
「な、何だよ」
天吏は梓からもらったお昼が入ったビニール袋を眺め溜息をつく。そして、その場に座り込むとビニール袋から包み紙を取り出し、開封。中には、サンドイッチが入っていた。中身はチキンとレタス、タマゴ、ツナのようだ。定番と言えば定番。そして、女子の手作りだ。ありがたく頂こう。そう思った頃にはすでにサンドイッチは天吏の腹の中に消えていた。まったくありがたみのない奴だ、と言われてもしょうがないし言われるのも覚悟したが、そんなことを天吏に指摘する人はいないのでそれは天吏の一人芝居となる。
「あー腹減った」
お腹はならないものの、空腹感は満たされなかった。文句は言えない。今の世界は物資不足で当然のように食べ物も不足しているのだから。
「おいしかった、か?」
急に無愛想な声が耳元でした。振り向くとそこには梓がいた。表情のない顔をぐっと近づけて、じぃっと天吏を見ている。その大きな少し赤く染まった目で。
「お、おいしかったぜ。いつもありがとよ」
「どうも」
空白。
いつもだった。
梓はいつも、天吏の側にいようとするが、話そうとはしない。話しかけると答えてはくれるものの、自分からは話さない。そんな子なのだ。
「ねえ」
珍しく、梓が話しかけてきた。
「出雲さんとなにかあったの?」
「何かってもんじゃ、ないけど。まぁ、たしかに何かはあったな」
「ふぅん」
なんだなんだ、と天吏は背筋が凍る思いがした。その目、その見つめる目が今にも天吏を殺してしまおうという殺気が立っていて怖かった。その動かない表情と、ずっと見開かれている赤い目。ツインテール。そのすべてが、天吏は怖かった。だけれど、梓の作る料理はおいしいし、世話にもなっている。
ただ、今日の梓は何かいつもと違う気がした。
にゃおーん
猫が鳴く。
気づいたら、あと十分で昼休みが終わる時刻になっていた。あたりを見回すといつのまにかカップル達の姿は消えている。
そして、
梓の姿も消えていた。
にゃおーん
黒猫が―――目の前を横切った
✝
教室に戻ると、生徒は天吏以外、全員揃っていた。授業開始十分前なのに珍しい、そう思いながら一番最後であることを少し恥ずかしく思って、天吏は逃げるように席に着いた。もちろん、梓も平然とした顔で座っている。
―――ただ、何か込み上げてくる違和感があった
それは違和感というほどのものではないかもしれない。ただ、気になった。異常に、気になった。
そう、猫耳。
猫耳が見えた。
眼鏡をかけた大人しそうな世界史の教師、たしか名前は田中次郎とか何とか・・・・・・ふざけた名前だった記憶がある。そう、その田中先生の頭の上に猫耳があったのだ。真っ黒の、猫耳。しかし、生徒たちはそれを気にする様子もなく、黙って眺めている。いや、止まっている。
よくよく見ると、止まっていた。もちろん世界が、だ。
動いているのは天吏だけ。あとは、止まっている。いや、天吏だけではない。田中先生もだ。先生もまた、にやっとしていた。そして、
「気づいたようだね」
と、笑った。
「だ、誰だよ・・・・・・お前」
「お前とは、聞き捨てならないな。吾輩は、おほん・・・・・・。
―――吾輩は猫である。黒猫でもなければ、ネコでもない。猫、である。名前はまだない」
と、かの有名な作品の有名な一節を少し変えて決め台詞のように言った。そして、再びにやっと笑った。
あー文章が下手だなあ・・・・・・と思いながら。