鎮痛剤
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カーテン越しに見た外は曇り空だ。どんよりとしている。あたしは持病の頭痛が悪化していたので、つい最近ドラッグストアで買っていた鎮痛剤を箱から一錠取り出し、グラスに注いだ水で服用した。天気がいいときは全く症状が出ないのだが、悪天候になると一変する。部屋の中を歩き回りながら、しばらくいろいろと考え事をしていた。まあ、このマンションは家賃が安い分、1Kで狭くて何かと不便だったのだが……。キッチンに入り、電機ポットに入れて沸かしていたお湯を使い、ホットコーヒーを一杯淹れた。今日は土曜日で仕事が休みなので、ゆっくり出来る。普段はずっと会社に詰めていた。ストレスが溜まるのは言わずもがなである。だけど仕方なかった。地方の三流半ぐらいの四年制大学を出て上京してきたあたしにとって、会社員として働くしか選択肢がなかったのだし……。その日は何事もなく過ぎ去る。そしてふっと、つい最近のウイークデーのことを思い出した。
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いつも午前七時過ぎに目を覚まし、電車に乗ってオフィスのある都心に出るのだが、休日になると自宅で寛ぐ。金曜日の夕方に一週間分の食糧を買い溜めしてから、自宅マンションに帰り着くのだ。一週間分と言っても、買うのは牛乳や野菜ジュース、ソーセージ、それに食パンなどで特に重たいものはない。手で十分抱えていける。毎日オフィスに通勤する際は財布と携帯電話、それに化粧道具や香水などが入ったバッグを持っていき、他はとりわけない。単にいろいろと小物を揃えているぐらいで、後は何もなかった。朝食を取った後、洗顔とメイクを済ませ、幾分早めに家を出る。朝方は新宿に辿り着くまで結構混雑するのでなるだけ早めに自宅を出、最寄の駅まで歩く。そこから電車に乗り、車窓越しに朝の街を眺める。今日も東京の街は雑多な感じで、さすがに見るだけで疲れた。今日も一日が始まるんだなと言った感じで。オフィスに入れば全部のデスクにパソコンが起動されていて、皆気分を引き締めたようにして一日の業務をこなし始める。余裕は全くなかった。ずっとキーを叩きながらパソコンの画面を見続ける。あたしも一応部下が三人いた。小さな会社なので従業員自体少ない。数える程度の社員の中にあたしのブレーンがいるのだ。そして小まめに動いてくれていた。もちろん、あたしもずっとパソコンを使って資料を作ったりしながら、オフィス内で仕事し続ける。別にこれと言って変わったことはなかった。単に日常は淡々としていてとりわけ変化はない。マシーンに向かってキーを打ちながら、合間にメールなどに添付されて回されてきた書類などを読む。それで仕事は進んでいた。オフィスは住んでいる部屋同様狭くて、絶えず電話が鳴り、パソコンのキータッチ音やコピー機、プリンターなどの作動する音も聞こえてくる。慣れてしまえば何ともない。仕事はずっと進んでいるので。
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正午過ぎになると宅配の弁当屋が来る。いつも社員分の弁当を卸す業者の人間たちだ。皆、交代で食事を取っていた。平の社員たちは電話番をしながら配られた弁当を食べる。ゆっくりしている暇はない。弁当にはお茶が付いているので、食事を取りながら飲む。ずっと会社員をやっていると、どうしても疲れてしまう。別に変わったことはないのだ。外は幾分雨模様で天気が悪かった。あたしは頭痛持ちなので、食事を取った後などは欠かさず鎮痛剤を飲んでいる。それで何とか済む。症状があって治まってなくても、午後からは会議などが行われる。重役たちがやってくるのだが、小規模な会社である以上、お互い馴れ合いになることの方が多い。だけどそういった馴れ合いって案外大事だと思う。あまりにも堅苦しいようだと気分が滅入るからだ。別に会議でもこれと言って緊張するような案件ばかりが出るわけじゃないのだし、大抵取引先の状況の報告と、これからのうちの社の出方を議論するだけだ。いや議論と言うよりも、互いにアイディアを出し合うといった感じが適切か……?これがないと会社は運営できない。いろんなことが重なって法人としての合意が形成できる。半分摺り合わせるような感じもあるにはあったのだが……。意見を聞かれると、一応一言二言言うのだが、何も改まって突飛なことを言い出すつもりはない。全部手元の資料や立ち上げていたノートパソコン上に記述してあることを言うのが常だからだ。上の人間たちもそれで納得しているのだった。
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「じゃあ今日の会議はここまでにするよ。後は各自所定の位置に付いて、終業時間まで頑張ってくれ」
社長の川平の一言で散会する。そして皆が各々の部署へと歩き出す。あたしも会議室を出て、自分のデスクに舞い戻る。さすがに疲れていたのだが、心労は絶えない。誰もが一定量のストレスを抱え込みながら生きている。あたしも例外なしにその一人なのだった。さすがに秋が終わり街に冬が降りてきている。冷え込むと風邪などを引くこともあった。だけど風邪ぐらいじゃ会社は休めない。確かに有給休暇はたくさんある。取っておかないと、何かがあった場合大変だからだ。実家のある九州に住む兄の娘――つまり姪だが――が今大学受験の勉強の真っ只中で、来春どこかの大学に進学する。姪はそこそこ成績がよくて、来年春には最低でも滑り止めの学校には進学できると思われたので、叔母のあたしはお祝いなどをしないといけない。お金はちゃんと貯めてある。それを使えば何とか工面できた。そのことばかりが頭の中を過ぎっている。責任があった。仕事でも家族関係でも。まあ、姪に会うことはほとんどなかったのだし、会うときといえば大抵正月やお盆休みなどまとまった休暇が取れるときぐらいだったが……。
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その日も仕事が終わり、フロアにいる人間たちに先に退社する旨伝えると歩き出す。東京の街は冷え込んでいた。おまけにまた頭が痛む。鎮痛剤は昼間飲んでいたので、午後六時過ぎである今ならまた服用できる。一錠取り出し、持ってきていたペットボトルの水で飲んでしまってから新宿駅まで向かう。辺りは雑踏だった。とてもたくさんの人がいて今夜もここは不夜城となる。本来なら飲み屋などで一杯飲むのもよかったのだが、仕事でクタクタになったあたしにとって自宅で買い置きの缶ビールなどを飲みながら、摘みに裂きイカなどを食べる方が断然いい。歩きながら、そんなことばかり考え続けていた。何かと気分が晴れない。だけど気分を紛らわすには自宅で飲む方がよかった。冷蔵庫に缶ビールが入れてあったことを思い出し、摘みも戸棚に入れてあったことを思い浮かべる。電車に乗るため改札口で定期券を通し、ホームへと向かう。上下ともスーツを着て、上からロングコートを羽織っていた。すっかり冬の格好である。ホームで待ち時間に携帯を取り出し、ネットに繋いで情報を見ていた。ニュースは何ら変わったことがない。単に景気が悪いということが羅列されているだけで。あたしは電車が来るまでずっと見続けていた。何も言わずに。確かに三十代後半で、人生において何かと倦怠し、迷いが生じる時期だ。ただそれを乗り切れば後は吹っ切れる。立ち止まっていてもしょうがない。絶えず前進し続けることが大事だと感じている。一歩一歩着実に進むしかない。たとえそれが亀のように遅かったとしても。
いつの間にか頭痛は治まっていた。鎮痛剤がちゃんと効いたのだろう、頭の痛みは全く感じない。そして電車がホームへと入ってくる。乗り込み、座席に座った。ほんの数分で着くので何ら問題はない。ただ待つ時間だけは携帯を弄りながら……。時は過ぎ去っていく。着実に。そして脳の中はどんどん入れ替わる。古い情報が捨てられ、新しい情報へと。人間の脳は実に上手く出来ている。そう具に感じているのだった。帰宅すれば美味しいお酒に有り付けると思っていたのも本音だったし……。
(了)




