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第一話 甘い果実

朝の空気を肺いっぱいに吸い込むと、故郷とは全く違う匂いに顔を顰めた。

国を出たことがなかった少女にとって、潮の匂いがしないというのは違和感がある。

雪が僅かに残る山々も、故郷では雪自体が降らない為か、よく目が奪われた。


生い茂る針葉樹の隙間から漏れる木漏れ日すら、故郷のものとは違う。


同じなのは馬だけね、と少女は自分が乗る馬の鬣を優しく撫でた。


『帰りたい』


そう口にすることもできない。そもそも帰りたい故郷は業火に焼かれ、もう少女の知る国ではなくなっているだろう。少数の技術を持った人間や、使える人間は奴隷として連れてこられているし、今後この憎き敵国に対する復讐を避けるため、王族貴族は優先的に殺された。


許さない


ドロドロとした醜い感情が思考を覆う。そんな気持ちに気付いたのか、馬はチラリと少女を見上げ耳をパタパタと動かした。

その行動に少女は薄く笑い、もう一度馬の鬣を撫でつけた。


出口のない森の中を、一人彷徨っている気分だった。

「ステラ様」


 低く、昂揚のない声。アレキサンドライトの瞳は太陽に照らされて青緑を発している。ラマル王国の伝統衣装を身に纏い、家紋が入った首飾りが太陽に反射してキラリと光った。


「レ、レイン…」


 風で靡く亜麻色の髪を抑えながら振り向けば、ピクリとも動かない表情筋のまま、眉間に少しだけ皺を寄せてステラを見つめる従者が立っている。

 レイン・ネーベル。ラマル王国随一の豪商ラピス・ラズリ家の従者だ。


「何度申し上げればいいのですか。黙って屋敷を出て市場に降りるのはやめろと言ったはずです」

「だって、ハニーローザが市場に並びはじめたってセナ兄様が言うから…」


 人差し指を突きつつ、鋭い視線を回避しようと目を背けるステラを、レインは睨みつけた。

 灰青の髪を無造作に分けただけだというのに、年齢にそぐわない落ち着きと端正な顔立ちに睨みつけられれば、ステラとて肩をすくめない訳にはいかない。


「そのうち屋敷にも運ばれてくるんですから、まっていれば届きます」

「家に運ばれる分じゃ足りないわ。籠いっぱいを頬張り尽くしてこそ醍醐味というものよ、レイン」

「ゾウか何かですか」


 はぁ、と小さくため息を吐かれるのは慣れている。富豪の娘の自覚を持てと言いたいんだろうが、先ほど話に出たセナも立派な脱走犯な為、言っても聞かないのはわかっているんだろう。

 今頃セナの従者もセナにお小言をふっかけている頃だ。


「俺が買ってくるので、屋敷に戻ってください」

「いやよ。私はハニーローザも食べたいけど、市場の人たちと話すのが好きなんだから」


 そう言って踵を返し、市場へと足を進める。後ろからついてくる足音を聴くに、これ以上止めても無駄だと思ったらしい。


 ラマル王国。

 陸間海に浮かぶ小さな島は、気候も安定しており、農業、漁業が共に盛んである。

 また、さまざまな国との交易があり、非常に豊かな国だ。

 海の旅人たちが物資を補給する島として主に活躍している。

 そしてステラはこの国を代表する商家の2番目の娘だった。


「父様とカシム兄様もハニーローザが好きだからきっとたくさん食べられるわ。帰国は明日だって言っていたし、どんなお土産を買ってきてもらえるか楽しみね!」


 ステラの父は商家ということもあり、各地の名産品や骨董品、さまざまなものを直接国を回って手に入れてきた。そして品物の目利きを力を上げるため、長男であるカシムを引き連れて時たま海へ出ている。


「レインが好きな野いちごもあるわ。どれくらいいる?」

「いらない。仕事中だ」

「あなた達従者は私たちがいる限り一生仕事じゃない。もう」


 ステラはプンスコ言いながら、屋台の店主に声をかけ、試食用の野いちごを手に持ち、そのままレインの唇にくっつける。やめろとも言いたげな目線に屈することなく、ステラはぐい、とさらに押した。


 ステラは頑固だ。そんなことはステラが物心ついた時から知っているレインは勘弁したのか、その薄い唇を開け、ステラの持つ野いちごを口に含んだ。


「美味しいでしょう?」


 ステラの太陽に照らされた濃いラピスラズリの双眼が、アレキサンドライトの無機質な瞳に映る。

 小さく頷くレインにステラが満足げに笑った。




 ×××





「ステラ様!また屋敷を抜け出してきたのかい?」

「シーナおばさま!こんにちわ!」


 籠を持って屋台を歩く二人に一人のふくよかな女性が声をかけてくる。よくステラが利用するカバーブ屋の亭主の奥さんだ。


「今日は従者も一緒なんだね。いつも町娘の格好をして一人で歩いてるから心配してたんだよ」


 眉を下げて心配げに話す女性に、ステラが「しー!」と口に人差し指を当てたが、レインには聞こえていたらしくジロリと睨みつけられた。

『お前俺の知らないところで勝手に出ていたな』とでも言いたげな顔である。一瞬にして居心地が悪くなったステラは「カバーブ一個ちょうだいっ」と話題を変えた。


「はいよ」と言って厨房へと向かった女性が完全に消えたところでレインのため息が溢れた。


「ステラ」

「ごめんって」


 レインは従者として常に一線を引いているが、それは人も目があるところだけだ。ステラも常に敬語の従者と一緒に過ごすのは嫌だから、二人きりの時は敬語はやめてと伝えているが、断じて今ではない。


「俺を呼べばいいだろう」

「だってレインも忙しいじゃない。鍛錬だってあるし、厩舎の係だってあるし、従者としての仕事だってあるのに」

「今日はもう終わらせた。…ステラの命が脅かされれば俺の命も無い。俺はお前のためにそばにいる義務がある」


 怒っていても冷静にそう告げるレインに、ステラは顔に影を落とす。

 わかっていることだが、レインが自分を心配するのは、あくまで主従関係があるからだと知らしめられ、ステラの小さな心臓がキュ、と締め付けられた。


「はい、カバーブね。」

「ありがとう」


 カバーブを持って現れた女性にステラはハッと顔をあげ、笑顔を作って受け取った。


 女性に手を振って別れた後、店を離れて近くの椅子へ座る。

 美味しそうなカバーブを前に我慢できないというふうに口を開けたステラの手をレインが掴んだと思えば、普段はあまり開かないその口を大きく開け、ステラの手からカバーブにかぶりつく。


 そして顔を上げたレインとステラの瞳がかち合った。思ったよりも顔が近く、レインの後ろにある太陽のせいで青緑からガーバンディ色に染まった瞳が一瞬揺らいだが、それはステラも同じだった。


 顔を離したレインが咀嚼をしながら口の端についたソースを親指で拭う。その仕草にさえ、ステラはドキリとするのだ。


「…毒は入ってない」


 咀嚼を終えたレインの一言で、毒味をしてくれたのだと気づく。

 従者はそこまでが仕事であり、町での買い食いはステラの身分では褒められた行為ではない。

 長年通っている店だ。疑うのは心苦しいが、身分上仕方のないものだとステラも思う。


「ありがとう」


 ドキドキとなる胸を沈めつつ、レインにバレないようにと平常心を保った。


「ステラだ!」


 カバーブを食べ終えた頃、市場の中心で遊んでいたのだろう子供達に、ステラは一瞬で囲まれる。

 褐色肌に碧眼の美しい無垢な瞳がステラを希望の星とでもいうように見つめ、無邪気に笑いかける。


「なーステラ!鬼ごっこしよう!」

「ダメだよ!ステラは私たちと花冠作るんだから!」

「ねーステラ!綺麗なシーグラス見つけたの!ステラにあげる!」


 わらわらと集まる子供達一人一人にステラは応える。遠目からその姿を見つめるレインの瞳には、聖母マリアのようにも見えるし、無垢な少女にも見えた。


 潮の匂いが風に乗って鼻腔を燻る。今頃当主はこの島に向けて出立している頃だろう。


 時折、ステラの父がステラを抱き締め、「俺の一等星」と頭を撫でる。

 何歳になってもそうやって抱き締め、愛情をめいいっぱい与える父を持つステラだからこそ、それを無意識に体現しているんだろう。


 自分にはできない芸当だとレインは思っているが、ステラはレインをも巻き込んで、日が暮れる頃まで子供達と過ごした。

 去り際、ステラは子供達にハニーローザを一つずつ渡す。

 籠いっぱいだったそれはみるみる数を減らし、最後の一人に渡した頃には一つしか残らなかった。



 ×××



 屋敷に戻ったステラは、子供達にもらったシーグラスを綺麗に洗って、父からの贈り物の宝石箱に入れ、花冠をブリザードフラワーにして欲しいと侍女に伝えた。長年この屋敷に支えている侍女は二つ返事でそれを受け取る。


「付き合ってくれてありがとう、レイン。今日はもう休んでいいよ」


 いつもより早いが、主人にそう言われればレインは拒否することはない。

 ステラを部屋まで送った後、レインは一礼して部屋を後にした。


 ステラは子供達と遊んだことで汗をかいたため、侍女に伝えて入浴の準備をする。するとそこへ、姉と、下の双子の妹達が姿を現した。ちょうど家庭教師が終わった時間らしい。


 ステラを見つけた双子が嬉しそうに駆け寄ってきて、ステラに抱きついた。


「ステラお姉さま!」

『リリ、ララ!お勉強頑張ってきた?」

「うん!今日は北部の国についてお勉強した!」


 屈託のない笑顔を向ける妹達に、ステラも自然と笑みが溢れる。


「ステラ、また勝手に市場に出たのね?レインが怒って探してたわよ」


 不機嫌を隠そうとしない姉が、ため息まじりに苦言を口にした。その言葉に心配だということも含まれているのを、ステラはわかっていた。


「ごめんないさい、姉様。市場状況が気になって。鉄鉱石由来の製品が高騰していたわ。ヴァレンシュタイン帝国で何かあったのかしら」

「しっかり視察までしてきて…。製鉄する上で必要な水源が最近減少しているらしいわ。」


 交易も生業としているラピスラズリ家にとって、物の価値の高騰下落は逐一把握しておくべきところである。

 商家の娘として、少しでも父の役に立とうと思うステラは、時折街に出てはさりげなく確認していた。


 ヴァレンシュタイン帝国はラマル王国にとって鉄鉱石製品の主要国であり、一年前に亡くなったステラの実の母の生家である。母から祖国の話を聞くことはほとんどなかったため、どんな統治国家なのかはステラにも教科書上のことしかわからなかった。


「ねえ、お姉さま。リリ、お姉さまとお風呂入りたい」

「ララも!」


 硬い話をしていた姉を前に、妹が甘えるような声を出す。ステラは異母妹の可愛いお願いに、笑って頷いた。


「今日はみんなで入ろうか!お姉様もいい?」

「ふふ、久しぶりね」


 ステラの姉は黒く長い艶髪をさらりと流して頷いた。ステラの緩くウェーブのかかった亜麻色とは全く違う髪。


 この国は一夫多妻制である。ステラ達は互いに母が違う為、北部の肌と髪色を受け継いだステラと、南部の肌や髪色を受け継いだ兄弟姉妹では印象が全く別に見える。共通して全員が同じなのは、海の色とも空の色とも言える碧眼だけだった。

ステラと同じ白い肌をしているのは、レインとその他の少数の使用人だけ。


この国では数多の国の外交船の休憩地点として、よくに外国船の乗組員が街にいることがある。その中で肌の色や瞳の色で街の人と揉めることはよくあること。ラマル王国の国民は外国人が多く来るお国柄、見た目に対する差別などはないが、他の国ではそれが顕著にある場合があるらしい。


ステラはそれを、他所の国なは色んな価値観があるんだな、と幼いながら思ったのを思い出した。

使用人や従者という括りも、生まれ育った国が違っても、この屋敷にいるすべての人間は大切な家族だと父が提言している。


差別や偏見など何も無い平和な時を、愛する家族と過ごせたらいいと、妹達の笑顔をみて再確認した。



 ×××



 コンコンコンと静かにノックされたステラは、北部地方の歴史書から顔を上げ、なあに?と小さく返事をした。

 夜だからと控えめに返事をしたが相手にはしっかり聞こえていたらしく、部屋に通じるドアが開けられる。


 開けられたドアの奥に立っていたのは籠いっぱいのハニーローザを持ったレインだった。


「!レイン?」


 驚いたステラは歴史書を窓辺に置き、椅子から立ち上がる。窓が開いているせいで春風がページをめくったが、ステラは気にも留めなかった。

 ステラが呼びつけるか、急ぎの用ない限り部屋には来ないレインが、何の予告もなしに来たのが嬉しかったのだ。


 嬉しさをひた隠しながらステラはレインに近づく。夏用の寝巻きに変えたばかりで少し露出が多いのが気になったが、馬に乗ったり、剣や弓の練習をするときの方がどうやっても露出が多いため、すぐに頭から消した。


「どうかしたの?」

「これ」


 そう言ってスッと渡されたフルーツ籠。中にはステラの大好物のハニーローザが入っている。


「今日買った分は子供達に渡してほとんど食べられなかっただろう。当主さま達の分は厨房に置いてきたから、これはお前だけの分だ。」

「え」


 レインの顔を見てもいつもと変わらない涼しげな顔。その顔が怒りに染まったところも、悲しみに暮れる所も、ステラは見たことがない。ある従者はレインを無愛想だとか無感情だとかなじっていたけれど、そんなことはないのだと自分が証明できる。


 レインはステラが言ったことを全て覚えている。それは遡ればステラに初めて会った時からだ。


 今回もステラが籠いっぱいのハニーローザを食べたいと言っていたのに子供達に渡してしまったから、わざわざステラを屋敷に送り届けた後また市場に戻ったんだろう。

 当主であるステラの父や兄妹も好きなのを知っていたからその分を兼ねて。


 これのどこが無感情なのか。あの時なじっていた従者はやはりもう一度平手打ちをかましてやればよかったと後悔した。


「…?いらなかったか」


 驚いて声が出なかったステラをレインが猫のように小首を傾げて見る。

 ハッとしたステラはすぐにレインを見て首を横に振った。


「いる!嬉しい!ありがとう!夢が叶う!」


 抱きつく勢いで籠を受け取ったステラにレインは驚いたのか少しだけ目を見開いた。

 そして何が面白かったのか、普段は滅多に上がらない口角が僅かに上がった。


「よかったです。」


 レインのその顔に、ステラは心臓を撃ち抜かれた気分になった。

 好きすぎてつらいというのはこの事かと、頭の中の冷静な自分が解釈する。

 頭と心臓が大騒ぎするのをどうにか鎮めたステラは、籠を持ってドアの前に出た。


「レインも一緒に食べない?部屋だと侍女はダメって言うだろうから、中庭で」


 侍従であっても歳の近い男女が部屋に二人きりになるのはまずい為、ステラは中庭を選んだ。レインは頷いて黙ってステラに付き従う。誘っていて何だが、もう休んでいいって言ったのに従わせて悪いな、と思いつつ二人の時間を持てるのが嬉しくて黙っていた。


 ラピスラズリ家の中庭は、当主の妻である夫人達が自ら手がけた楽園だ。昼間は色とりどりの花々が咲き誇り、夜は明かりの少ない噴水に腰掛けると満天の星空が見える。ここにある花は異国の花も多く、ステラの母は東方の国の桜が好きだった。例に漏れず娘であるステラも桜が大好きだが、季節が巡り、今は青々とした葉が植えられている花達を主役にしている。


 噴水の周りのベンチに腰掛けた二人はハニーローザを齧りながら他愛もない話をした。

 と言ってもレインは口数が少ないし、仕事以外の趣味もあまりないため、話しているのはほとんどステラだった。


 ふと、レインを見る。月明かりに照らされたレインの横顔はあまりに綺麗で、その光によって見え方の違う瞳を凝視してしまう。話の途中で不自然に止まったステラのお喋りに気づいたのか、レインは見上げていた星空からステラに視線を向けた。


 好き、と口に出しそうになり、慌てて両手を口に当てた。勢いがありすぎてほぼビンタのようになってしまい。口から顔の半分にかけて痛みがじわじわと広がる。

 急に主人が自分で自分にビンタをかました衝撃でレインはさっき以上に驚いて目を丸くした。元々じゃじゃ馬で突拍子もない行動に出るステラに慣れてはいるが、自分にビンタをするなんて思わなかったのだろう。


「だ、いじょうぶか」

「…大丈夫」


 かつてないほど動揺した従者を見て、気まずさで涙が出そうだった。

 こっちはこんな何でもない行動や仕草、表情にすら狼狽しているのに、好きな人には可愛さどころか異常行動を見せて狼狽させている現実が不甲斐ない。


 これはもう、告白しよう。


 そしてあっさり振られよう。


 従者と主人である自分たちが恋愛などできるわけがない。レインは拒否するに決まっている。プライベートを仕事に持ち込むのを嫌う男だとステラはわかっている。

 父に言えば仲をとり持ってくれるだろう。もとより上には一人の姉と二人の兄がいる。


 家督を継ぐわけでもなく、特筆した能力があるわけでもない。そして父は政略的な結婚はさせたがらない。

 可愛い娘が従者と結婚したいと言えば、父はレインに婚姻を申し込むだろう。良くも悪くも身分の差など気にしない男だ。


 だがレインは当主に申し込まれれば、NOとは言えないし言わない。それが従者と言うものだ。

 レインの意思に関係なく、強引にでも結婚することができる力をラピスラズリ家が有していることは、ステラも十分わかっていた。

だからこそ、レインの気持ちが共わないことはステラは受け入れられない。彼女は従者と結婚したいわけではなく、レインという一人の男と結婚して幸せな生活を送りたいのだ。


叶う可能性はゼロに近くても、この気持ちを隠し続けることは不可能だった。


「レイン。明日、エータ流星群が見えるんだって」

「そうみたいですね」

「家の裏の丘からなら綺麗に見えると思うから、一緒に見ない?」


 ステラは再度爆発しそうになる心臓を必死に抑えながらレインを見る。

 今、自分はどんな顔をしているのか。想像もしたくないが、ステラは勇気を振り絞って彼を見た。


「いいですよ」


 レインは普段と変わらない表情で軽く頷いた。















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