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戦国異聞伝『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第5話 落ちていたのは、味方の証

拾い上げた鞘は、思っていたよりも重かった。


土の汚れを親指で払うと、擦れた金具のあいだから見慣れた紋が覗く。佐竹の家に仕える者なら、誰しも見覚えのある印だ。戦場で掲げる旗ほど大きくはない。だが小さいからこそ、身近な者の持ち物だと分かる。


義重はしばらくその鞘を見つめていた。


通りには相変わらず人の往来がある。荷を担ぐ者、声を張る者、魚を値切る女、布を畳む商人。何も変わらぬように見えるのに、義重の中ではもう景色が変わっていた。さっきまでただの市に見えていたものが、今はどこもかしこも「何かを隠している場所」に見える。


老臣が一歩近づき、低い声で言った。


「若君。ここでは長く持っておられぬ方がよろしい」


「なぜだ」


「見られるからにございます」


「見られて悪いか」


「よいことは一つもございませぬ」


義重は鞘を握ったまま周囲へ目を走らせた。


確かに、こちらへ向けられる視線が少し増えている。あからさまではない。だが若君が通りの端でしゃがみ込み、何かを拾えば、見ぬふりだけで済ませられる者ばかりではない。しかも拾ったものが、もし城方の者に関わる品だと知られれば、噂はあっという間に広がるだろう。


「包め」


義重が言うと、近習の少年が慌てて布を差し出した。義重はそれで鞘を包み、自分の袖の内へ収める。


老臣が息をついた。


「若君は、たまにこちらが言う前に面倒の芽を半分だけ摘んでくださるので助かります」


「半分だけか」


「残り半分は、若君ご自身が育てておられますゆえ」


義重は無言で前を向いた。


そのまま一行は神前への使いという建前だけはきちんと済ませ、城へ戻ることになった。帰り道、老臣も近習たちも普段より口数が少ない。鞘の重さが、そのまま皆の黙り方へ移ったようだった。


坂を上り、城門をくぐり、ようやく内へ入ってからも、義重の頭の中では同じ問いが回り続けていた。


なぜ、あそこに落ちていたのか。


ただ落としたのなら、場所が出来すぎている。南の通りの外れ、荷箱の陰、気づく者が気づけば拾えるが、誰もが踏みつけていればそのまま埋もれてしまうくらいの場所。失踪した者の持ち物が、まるで「ここを見ろ」と言うような場所に転がっていた。


部屋へ戻るなり、義重は布を解いて鞘をもう一度見た。


汚れの具合。傷。口元の擦れ。無造作に落として転がったなら、もう少し別の跡がついていそうな気もする。だが確かなことはまだ言えない。


老臣が対面に座る。


「さて」


「さて、ではない」


「若君のお考えをお聞かせくだされ」


義重は鞘を膝の上に置いた。


「落としたのではない」


「ほう」


「置かれた」


老臣の眉が少し動く。


「なぜそう思われます」


「目立ちすぎる」


「目立たぬような場所にも見えますが」


「それでちょうどよい」


義重は指先で鞘の金具を撫でた。


「通りの真ん中なら拾われすぎる。誰かに持っていかれて終わる。だが荷箱の陰なら、探す者か、気づく者だけが拾う」


「なるほど」


「しかも南の通りだ。旅人の噂があり、消えた者が誰かと会ったかもしれぬ場所でもある」


老臣は黙って聞いている。


義重はそこで一度息をついた。


「置かれたのなら」


「はい」


「誰に見せたかった」


その一言で、部屋の空気が変わった。


老臣は目を細め、ゆっくりと頷く。


「……そこまで考えられましたか」


「落としたのか、置いたのかだけでは足りぬ」


「左様にございますな」


「置いたのなら、誰かに見せたかったのだ。だが誰にだ」


老臣は顎に手を当てた。


「城方へ向けた脅しか。あるいは、仲間内の合図か。もしくは……」


「俺たちに拾わせたかった」


老臣が一瞬だけ義重を見た。


「若君」


「違うか」


「違うとは申しませぬ。ただ、その考えに辿り着くのが早い」


「遅いよりよいのだろう」


老臣は苦笑した。


「まこと、そう申されると年寄りは返す言葉がございませぬ」


義重は少しだけ身を乗り出す。


「もし俺たちに拾わせたかったのなら、理由は二つだ」


「お聞かせくだされ」


「一つは脅しだ。『城下まで手が届く』『お前たちの者は消えた』と見せるため」


「……はい」


「もう一つは、知らせだ」


老臣は言葉を継がない。義重が続きを言うのを待っている。


「消えた者が、まだどこかで生きているかもしれぬ。あるいは、そいつに味方する者がいるのかもしれぬ。『ここを探れ』と置いたなら、脅しではなく印だ」


老臣はしばらく沈黙してから、半ば呆れたように笑った。


「若君は本当に、こちらの心臓へ悪うございますな」


「何だそれは」


「半分は感心、半分は頭痛にございます」


「どちらが大きい」


「今のところ、感心の方を少し上にしておきましょう」


義重は「少しか」とだけ言った。


その日のうちに、鞘の件は限られた重臣にも知られることになった。当然である。城下で佐竹方の品が見つかったとなれば、隠したままでは済まぬ。


だが、知らせが広がると同時に、評定の場の空気はまた少しささくれ立った。


義重は隅へ座り、相変わらず口を慎むよう言い渡されながらも、目だけは忙しく働かせていた。重臣たちの温度差が、前よりもはっきり見える。


「若君に妙なものをお見せしすぎだ」


そう言ったのは、前にも「内の者が漏らしたと決まったわけではない」と先回りしていた重臣だった。声は穏やかだが、言葉の向きが違う。鞘そのものより、「若君がそれを拾ったこと」を気にしているように聞こえる。


「妙なものでは済みませぬ」


別の重臣がすぐ返す。


「城方の鞘が城下にあった。しかも例の南の通りに。これを見過ごせば、こちらから目を閉じるようなもの」


「だからといって、大げさに騒げば敵を喜ばせるだけだ」


「騒ぐなと言って、何も探らぬのはもっと敵を喜ばせよう」


「探るにしても、若君へ余計なことを吹き込むなと申しておる」


「若君はもう見ておられる。今さら“吹き込む”も何もない」


同じ佐竹家のためを語りながら、言葉の向きが微妙にずれている。


義重はそれを見ていた。


若君を案じている顔をする者。

若君を案じることを理由に話を縮めたい者。

逆に、若君の前でも構わず話を進める者。

誰が何を大事にしているのかが、少しずつ顔に出る。


老臣は義重の後ろに控えたまま、あえて助け舟を出さない。若君自身に見せているのだろう。この家中には、同じ方を向いているようでいて、そうでもない者たちがいると。


やがて、年長の重臣が重く言った。


「若君がお拾いになったこと自体は、もう変えようがない。ならば、その事実から目を逸らすべきではあるまい」


「しかし」


「しかしではない。問題は、あの鞘が“なぜあそこにあったか”だ」


義重は思わず顔を上げた。


年長の重臣の目はまっすぐ前を向いている。少なくともこの男は、鞘の意味を正面から見ようとしているらしい。


別の重臣が問う。


「落としたのか、置いたのか」


義重はそこで小さく口を開きかけた。だが、老臣がすぐ背後からごく軽く袖を引く。言うな、という合図だ。


義重は唇を閉じた。


しかし評定の場では、すでに同じ問いが重臣たちの間を回り始めていた。


「置いたとすれば、脅しか」

「合図ということもあり得よう」

「誰に向けた合図だ」

「それこそまだ分からぬ」

「分からぬから探るのだ」

「いや、軽々しく城下をかき回せば、相手にこちらの焦りを見せることになる」


またしてもきれいに割れぬ。白黒が簡単につかぬ。だがその割れ方そのものが、義重にはよく見えた。


評定を終えて部屋へ戻る途中、義重は老臣に言った。


「さっきの者は、やはり妙だ」


「どの者にございます」


「若君に妙なことを吹き込むなと言った男だ」


老臣はすぐには答えなかった。


「……なぜそう思われます」


「鞘より先に俺を気にした」


「はい」


「城下で城方の品が見つかったなら、まず気にするのはその中身のはずだ。だがあれは違う。俺が見たことそのものを嫌がっている」


老臣は歩みを緩めた。


「若君」


「何だ」


「その見方は、今すぐ誰彼なく向けぬ方がよろしい」


「疑うなというのか」


「疑うのはよろしい。顔に出しすぎるなと申しておるのです」


義重は少し考えた。


「なぜだ」


「人は、疑われていると知ると別の顔をします」


「別の顔なら、なお見やすい」


老臣はついに吹き出した。


「まこと、若君は困ったお方だ」


「褒めているのか」


「半分は」


「また半分か」


「残り半分は、若君がこのまま大きくなられた時の周囲の苦労を思っております」


義重は不満そうな顔をしたが、内心では少しだけ納得していた。確かに、疑っていることを早く見せすぎれば、相手は身構える。今はまだ、相手の顔を見たい。


その夜、義重は自室でひとり考えていた。


鞘。

南の通り。

城下で会っていた誰か。

内情を知る者しか通らぬ裏道。

そして、評定での重臣たちの温度差。


どれもまだ繋がり切っていない。だが、ばらばらのままでもない。線が何本か、闇の中で触れ合い始めている感じがある。


義重はふいに、昼間子どもに「ちっこいじゃん」と言われたことまで思い出した。


「……小さいから、か」


口に出すと、妙にしっくりきた。


子どもだからこそ、見えるものがあるのではないか。


大人たちは若君を前にすると、守るべきものとして見る。遠ざけるべきものとして扱う。まだ知らなくてよい、まだ口を挟まなくてよい、そういう目で見る。だからこそ逆に、本音が半歩だけ漏れることもある。


城下でも同じだ。

若君として扱われれば皆かしこまる。

だが、年若い者がうろついていても、ただの供の子と思えば口を滑らせるかもしれぬ。


義重の胸の内に、ひとつの考えが形を取った。


あえて、目立たぬ格好で再び市へ出る。


そうすれば、城の者としてではなく、もっと別の顔で空気が見られるかもしれぬ。少なくとも、若君が来たと分かった途端に消える会話よりは、ましなものが拾える。


「駄目にございます」


その考えを老臣へ口にした瞬間、返事はほとんど同時だった。


義重はむっとした。


「まだ最後まで言っていない」


「若君が最後まで言われれば、もっと駄目にございます」


「なぜだ」


「若君は、ご自身が目立たぬ格好をしても目立たぬと本気で思っておられますか」


「少しは」


「少しもございませぬ」


「そんなことはない」


「ございます。歩き方が若君にございます」


「歩き方で分かるか」


「分かる者には分かります」


「なら分からぬ者のところへ行けばよい」


「そういう理屈は、本当にこちらの寿命を削りますな……」


老臣は額に手を当てた。だが、完全に頭から否定している顔でもなかった。むしろ、駄目だと言いながら頭のどこかで可能性を測っている顔だ。


義重はそこを見逃さぬ。


「無理だと思っているなら、そんな顔はせぬ」


「若君は時々、年寄りの逃げ道まで塞がれますな」


「できるのか」


老臣は長い息をついた。


「……若君が本気でなければ、できませぬ」


「本気だ」


「それが問題にございます」


「なら、なおさらよい」


老臣はついに苦い顔で笑った。


「若君は、子どもだからこそ見えるものがある、とでもお考えでしょう」


義重は少しだけ目を見開いた。


「そうだ」


「やはり」


「悪いか」


「悪くはございませぬ。ただし、その考えは若君が思う以上に鋭い。鋭いものは、ともすれば持ち手も切ります」


「切られぬように持てばよい」


「簡単に仰せになりますな」


話は結局、今すぐにはまとまらなかった。老臣は「少なくとも今夜は駄目」と言い、義重もそこまでは強引に押し切らなかった。夜の城下へ出るのは、さすがに供の者が何人いても危うい。だが考えそのものを捨てたわけではない。


夜が更ける。


城は昼のざわめきをたたみ、闇の中で呼吸を細くしていた。遠くで見張りの声が交わされ、どこかの戸が閉まる音がし、風が板塀を撫でていく。昼間の市の匂いとは違う、冷えた木と土の匂いがする。


義重はまだ起きていた。


灯りのそばで、昼間拾った鞘をもう一度見ていたのである。答えは出ない。だが見ていないと、相手に置いていかれる気がした。


その時だった。


外で、かすかな音がした。


ぱし、と乾いた音。


風にしては妙だ。木に何か硬いものが当たったような、短く鋭い音。義重が顔を上げるのと、近習が外の気配へ向くのがほとんど同時だった。


「誰だ」


返事はない。


老臣がすぐさま立ち上がり、灯りを背にせぬ位置へ義重を下がらせる。


「若君、こちらへ」


「何だ」


「動かず」


外にいた見張りが駆け寄る音がする。障子の向こうで低い声が交わされ、やがて一人が息を呑む気配があった。


「……板塀に」


老臣が自ら障子を開け、夜の庭へ出る。義重も一歩ついて出ようとしたが、近習が慌てて止める。


「若君!」


「見る」


「危のうございます!」


「もう刺さっている」


それもそうか、と近習は言葉に詰まった。


庭の端、板塀に一本の短刀が深く突き立っていた。月明かりは弱いが、灯りを近づければはっきり見える。柄は質素、刃の入りもよい。投げたのか、近づいて刺したのかは分からぬが、少なくとも見張りの目を抜けてここまで来たことになる。


そして短刀の柄元には、紙片が一つ、きつく結ばれていた。


老臣が慎重にそれを外す。


場にいる者たちが息を潜める中、紙が開かれた。


義重は老臣の手元を覗き込み、そこに書かれたたった一行を読んだ。


「境だけを見るな。火は中にある」


夜気が、さらに一段冷たくなった気がした。


誰かがこちらを見ている。

そう告げるには、十分すぎる文だった。


しかも、ただ脅しているのではない。城の中に火がある、と言っている。味方の顔をした何かがいる、と。


義重は紙片を見つめたまま、胸の奥で静かに思う。


やはりそうだ。


戦は、もう外だけではない。

そして相手は、こちらがどこを見ているかさえ見ている。

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