第4話 城下へ下りる理由
城の上から見る城下と、実際に足を下ろして歩く城下は、まるで別のものだった。
義重はそれを知っていたつもりで、まだよく知らなかった。
朝から何度目になるか分からぬ押し問答の末、ようやく城下へ出る許しをもぎ取った時には、老臣の顔には「若君は本当に人の胃を痛めることに関して才がございますな」と書いてあった。もっとも口に出しては「神前への使いにございますれば、止める理も立ちませぬな」と言っていたので、ぎりぎりまだ建前は守っているらしい。
義重はその建前をありがたく使うことにした。
名目は神前への使い。
実際には城下の空気を見るため。
それくらい、もう互いに分かっている。
「若君」
城門を出る前、老臣が最後の念押しをした。
「本日は“神前への使い”にございます。決して、城下を嗅ぎ回るためではございませぬ」
「うむ」
「見慣れぬ者を見つけても、じろじろご覧にならぬよう」
「うむ」
「怪しいと思っても、すぐに追いかけぬよう」
「うむ」
「露店の荷を勝手に触らぬよう」
「子どもではない」
「そう仰せになるお方ほど、たまに子どもより厄介にございます」
義重は少しむっとした。
供は最小限だった。老臣に、近習の少年が二人、それに一応は神前への使いとして見栄えのする者が一人。いつもの大げさな供回りよりはずっと軽い。義重としてはそれでも多いと思ったが、老臣は「これ以上減らすなら、いっそわし一人が若君を背負って参ります」と意味の分からぬ脅しをかけてきたため、諦めた。
城を下りる道は、朝露の名残を少しだけ残していた。
春まだ浅い土の匂いがある。湿った土、踏み固められた道、わずかに混じる馬の匂い。風は冷たいが、日差しはもう冬のものではない。坂を下りきる前から、城下の気配が上がってくる。人の声、荷車の軋み、桶のぶつかる音、遠くで呼び売りする声。城の中の静かな緊張とは違う、暮らしのざわめきだ。
義重はその音を聞きながら歩いた。
城の中では、一つ一つの声が抑えられていた。誰も大きな声を出さず、必要なことだけを言い、余計な笑いも控えている。だが城下へ近づくにつれ、音はほどけていく。暮らしの音には、遠慮がない。
坂を下り、市へ差しかかったところで、匂いが一気に増えた。
川魚を焼く香ばしさ。
干物に残る潮の匂い。
味噌の発酵した重い香り。
薪の乾いた木の匂い。
布や藁や獣の匂い。
土の匂い。
そして、その全部の上を薄く流れていく春の風。
常陸は豊かな国だ、と義重はあらためて思う。
山のものがある。
川のものがある。
海のものがある。
それらがこうして同じ市に並ぶ。
露店には雑穀が山に盛られ、味噌桶が並び、塩が白く光り、薪が束ねられている。干した魚の列の隣には、ついさっきまで川で跳ねていたような魚が濡れた木桶に並び、その奥では布売りが色の違いを見せていた。農家の女たちは青菜を抱え、男たちは縄や桶や鍬の具合を見ている。武家の城から見下ろすだけでは分からぬ、暮らしの熱がそこにはあった。
義重は足を止めた。
「どうなさいました」
近習の少年が慌てて聞く。
「別に」
「別に、という顔ではございませぬが」
「うるさい」
「黙ると余計に心配になるのでございます」
義重は答えず、市の奥を見た。
どの顔にも、その日の用がある。
魚を買う者。
布を値切る者。
塩の重さを確かめる者。
薪を担ぐ者。
子を叱る母。
売り声を張る男。
こういうものが城の下にあるから、城は城でいられる。評定の間の言葉だけでは国は立たない。結局のところ、人は飯を食い、物を売り買いし、季節ごとの恵みを回さなければ生きていけないのだ。
義重は、胸の内でぽつりと思った。
これが失われるのは嫌だ。
言葉にするにはまだ少し曖昧だったが、感覚としてははっきりしている。城が落ちる、戦に負ける、年貢が乱れる――そういう言葉の先で本当に失われるのは、結局こういうものなのだ。朝の市、焼き魚の匂い、味噌の桶、子どもの泣き声、雑穀を量る手つき。そう思うと、城の中で交わされる「家のため」「国のため」という言葉の中身が、少しだけ具体的になる気がした。
老臣が横目で義重を見る。
「若君、何を見ておられます」
「城の下だ」
「見れば分かります」
「見ただけでは分からぬ」
「では」
義重は少し考えてから言った。
「こうして歩くと、守るとは何を守ることか、少し分かる」
老臣は驚いたようには見えなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。
「左様にございますな」
「……おまえは驚かぬのか」
「若君がそういうことを仰せになると、驚くより先に“この歳でそこへ辿り着かれるのか”と胃が痛みます」
「また胃か」
「はい。若君の成長は、たびたび年寄りの臓腑にこたえます」
義重は少しだけ口元を動かした。
そんなやり取りをしていると、川魚を売っていた男がこちらへ気づき、慌てて背を正した。
「お、おや、これは……若君さま、でございますか」
まわりの何人かも釣られて頭を下げる。義重は大仰に扱われるのが少し苦手だった。とくに、市のような場所で皆が急にかしこまると、見えるものまで見えなくなる気がする。
「魚はよいのか」
義重が聞くと、売り手の男はぎょっとした。
「は、はい! 今朝の久慈のものにございます。脂はまだ少のうございますが、身は締まっております!」
「昨日より水は冷たいか」
「え……」
男は一瞬ぽかんとしたが、すぐに「あ、はい」と頷いた。
「昨夜は風が変わりまして。上流の方で少し冷えたのでしょう」
義重は魚の目と鱗を見た。確かに悪くない。
「そうか」
それだけ言って通り過ぎようとすると、背後で男が小声で「若君さま、魚のことまで」と呟くのが聞こえた。近習の少年がすぐに耳打ちしてくる。
「若君、あまり普通にお話しなさいますと、皆が混乱いたします」
「なぜだ」
「若君はもっとこう、遠く高いところの存在だと思われております」
「魚を見たくらいで混乱する方が変だ」
「その理屈が通るなら、世の中はもう少し楽にございます」
今度は味噌売りの前を通る。大桶の蓋が少し開けられ、香りが立っている。濃い、重い、腹にくる匂いだ。義重がその前で立ち止まると、味噌売りの女が目を丸くした。
「若君さま、もしやお味噌を」
「買わぬ」
「左様で……」
「見るだけだ」
「見るだけ……」
女はなぜか困った顔をした。義重は桶を覗き込みながら聞く。
「今年はどうだ」
「どう、と申しますと」
「出来だ」
女はしばらく瞬きをしていたが、やがて商人の顔に戻った。
「……豆は悪くございません。ただ、塩が少し高うございます。海の方もこの頃は落ち着かぬと聞きますゆえ」
「海もか」
「ええ。どこもかしこも、妙に人の動きが多うございます」
そう言ってから、女ははっと口をつぐんだ。
義重はその顔を見逃さない。
「何だ」
「い、いえ。別に、わたくしなどが申すことでは……」
「言いかけた」
「それは……」
老臣が穏やかに口を挟む。
「案ずるな。若君は、聞いたからといってすぐに首を刎ねるようなお方ではない」
「おまえは俺を何だと思っている」
「念のためにございます」
味噌売りの女は、おそるおそる声を落とした。
「見慣れぬ男どもが、時折まとまって通るのでございます。商人とも旅人とも少し違う。買うでも売るでもなく、道だけ見ておるような……」
「どのあたりを」
「南の通りや、川の近うございますところを」
南の通り。
またその名だ。
義重の頭の中で、台所の古株女中の言葉がよみがえる。消えた者が城下で誰かと会っていた。場所は南の通り。見慣れぬ旅人も同じあたりにいたという。繋がりがあるのか、ないのか。まだ断じるには早い。だが、こうして歩いてみると、噂は確かに同じ方へ流れている。
市は賑わっている。
だが、その賑わいの底に、妙な沈みがある。
人々は普段通りに笑い、売り、値切り、運んでいる。けれど、話が「見慣れぬ者」や「南の通り」へ寄った瞬間、声が半歩引く。誰かが左右を見る。言葉を飲み込む。よそ者の前でなくとも、噂を最後まで言い切らぬ。
その不自然さが、義重にはよく分かった。
市の賑わいと緊張が、同じ場所にある。
笑い声のすぐ隣に、言いかけて止まる口がある。焼き魚の匂いの向こうに、じろりと様子をうかがう視線がある。暮らしは続いているのに、その暮らしの裾へ戦の気配が触れ始めているのだ。
その時、少し先で子どもたちの騒ぐ声がした。
「おい、そっち行くなって!」
「違うって、見るだけだってば!」
「こら! 邪魔になるだろ!」
どうやら露店の脇で子どもが何かをひっくり返しかけたらしい。義重がそちらを見ると、近習の少年が慌てたように前へ出た。
「若君、あまり目立ちますと」
「目立っているのは向こうだ」
「そういう話ではございませぬ」
だが次の瞬間、魚籠を抱えた女が義重を見つけて慌てて子どもを押さえ込んだ。
「こらっ、おやめ! 若君さまの御前で何をしてるんだい!」
子どもは何が起きたのか分からぬ顔で義重を見上げたあと、素直に口を尖らせた。
「だって、ちっこいじゃん」
周囲が凍った。
近習の少年が青ざめ、母親らしい女は今にも倒れそうな顔になる。老臣は目を閉じて天を仰いだ。
義重は数瞬、子どもを見つめた。
「……小さいのは知っている」
そう言うと、子どもは「ほらな」という顔をしたが、母親の方は余計に蒼白になった。
「も、申し訳ございませぬ! この子、まだ世間知らずで!」
「世間知らずなのは見れば分かる」
「若君!」
近習が慌てて止める。だが義重はむっとした顔のままだった。
子ども扱いされるのは嫌いだ。相手が本当に子どもであっても、嫌なものは嫌だった。
「若君、どうどう」
老臣が小声で言う。
「馬ではない」
「ですが耳が後ろを向いております」
「向いていない」
「向いております」
義重はさらにむっとした。近習の少年は必死で笑いを堪えている。義重はそれが気に入らぬ。
「何がおかしい」
「い、いえ、若君があまりにその……」
「何だ」
「年相応でいらしたもので」
義重は返す言葉を失った。
老臣が咳払いを一つして場を収める。
「よい。子は悪気なく申したのであろう。それより魚籠を落とさぬよう気をつけよ」
母親は何度も頭を下げ、子どもの首根っこを掴むようにして去っていった。去り際に子どもがまだ義重を不思議そうに見ていたので、義重は少しだけ眉をひそめた。
「若君」
老臣が横から覗き込む。
「まだご機嫌が斜めにございますな」
「別に」
「別に、のお顔ではございませぬ」
「うるさい」
「子どもに子ども扱いされるのは、なかなか珍しい経験にございます」
「もう言うな」
「承りました」
近習の少年たちが後ろで肩を震わせている。義重は振り返りざまに睨んだ。
「笑うな」
「わ、笑っておりませぬ」
「顔がそう申しております」
「それは顔が勝手に……」
義重は深く息を吐いた。だが、不思議とそれで少しだけ力が抜けたのも事実だった。市の緊張ばかり見ていると、胸の内まで固くなる。こういうくだらぬやり取りが一つ挟まると、頭が少し動きやすくなる。
やがて一行は、南の通りへ近づいた。
こちらは市の中心よりやや人通りが少ない。店の並びも少し粗く、倉や荷置き場が混じる。川へ抜ける道も近いせいか、土と水の匂いが強くなる。風に乗って、川の湿り気が鼻へ来た。
義重は歩みを緩めた。
ここだ。
旅人の噂。
揉め事。
消えた者が誰かと会った場所。
表向きは何も変わらぬ。人はいる。荷は運ばれている。だが、どこか視線が合いにくい。こちらを見た者が、すぐ目を逸らす。口を開きかけて閉じる。通りの奥に立つ二人の男など、商人の格好はしているが、荷の持ち方が妙に軽かった。
義重は何気ない顔で、そのあたりを見て回る。
焼いた干物を吊るす軒先。
樽の並ぶ壁際。
乾いた藁。
踏み固められた土。
人が多く、なおかつ少し身を隠せる場所。
待ち合わせには都合がよい。
誰かと会い、少し話し、様子が悪ければそのまま川の方へ抜けることもできる。
「若君」
老臣が、いつになく低い声で言った。
「ここから先は、見るだけに」
「分かっている」
「本当に、でございますぞ」
「分かっている」
義重は口ではそう答えたが、目は止まらなかった。
通りの端、荷を積んだ木箱の陰に、何か細いものが落ちているのが見えた。
最初はただの折れた木片かと思った。だが、光の当たり方が少し違う。土に半ば埋もれ、踏まれ、汚れてはいるが、そこだけ形が整いすぎている。
義重はふいに足を止めた。
「どうなさいました」
近習が囁く。
義重は返事をせず、木箱の方へ一歩近づいた。老臣が止めるより少しだけ早い。
「若君」
「待て」
義重はしゃがみ込むと、土の中からそれを拾い上げた。
小刀の鞘だった。
土で汚れている。だが、ただの鞘ではない。手に取れば分かる。作りがよい。しかも口元の金具に、擦れてはいるが見覚えのある紋が刻まれていた。
佐竹家の紋。
義重の目がすっと細くなる。
これは失踪した者が持っていたはずのものだ。評定の場で名の出た、あの男が身につけていたと聞いた覚えがある。城方の者の持ち物。それが、なぜこんな城下の片隅に落ちているのか。
老臣もすぐに気づいたらしい。顔色が変わった。
「若君、それは」
「鞘だ」
「見れば分かります」
「佐竹の紋だ」
近習の少年たちが息を呑む。
さっきまで市場のざわめきに溶けていた景色が、一瞬で別の色を帯びた。露店も、通り過ぎる人影も、木箱の積み方も、すべてが“ただの市”ではなくなる。ここで誰かが何かを落とした。いや、落としただけかどうかも分からない。置いたのかもしれぬ。見せたかったのかもしれぬ。
義重は鞘を見つめたまま、静かに思う。
城の中だけではなかった。
戦の気配は、もう町にも落ちている。
そして今、自分たちはその影の真ん中へ、足を踏み入れてしまったのだ。




