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戦国異聞伝『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第4話 城下へ下りる理由

城の上から見る城下と、実際に足を下ろして歩く城下は、まるで別のものだった。


義重はそれを知っていたつもりで、まだよく知らなかった。


朝から何度目になるか分からぬ押し問答の末、ようやく城下へ出る許しをもぎ取った時には、老臣の顔には「若君は本当に人の胃を痛めることに関して才がございますな」と書いてあった。もっとも口に出しては「神前への使いにございますれば、止める理も立ちませぬな」と言っていたので、ぎりぎりまだ建前は守っているらしい。


義重はその建前をありがたく使うことにした。


名目は神前への使い。

実際には城下の空気を見るため。


それくらい、もう互いに分かっている。


「若君」


城門を出る前、老臣が最後の念押しをした。


「本日は“神前への使い”にございます。決して、城下を嗅ぎ回るためではございませぬ」


「うむ」


「見慣れぬ者を見つけても、じろじろご覧にならぬよう」


「うむ」


「怪しいと思っても、すぐに追いかけぬよう」


「うむ」


「露店の荷を勝手に触らぬよう」


「子どもではない」


「そう仰せになるお方ほど、たまに子どもより厄介にございます」


義重は少しむっとした。


供は最小限だった。老臣に、近習の少年が二人、それに一応は神前への使いとして見栄えのする者が一人。いつもの大げさな供回りよりはずっと軽い。義重としてはそれでも多いと思ったが、老臣は「これ以上減らすなら、いっそわし一人が若君を背負って参ります」と意味の分からぬ脅しをかけてきたため、諦めた。


城を下りる道は、朝露の名残を少しだけ残していた。


春まだ浅い土の匂いがある。湿った土、踏み固められた道、わずかに混じる馬の匂い。風は冷たいが、日差しはもう冬のものではない。坂を下りきる前から、城下の気配が上がってくる。人の声、荷車の軋み、桶のぶつかる音、遠くで呼び売りする声。城の中の静かな緊張とは違う、暮らしのざわめきだ。


義重はその音を聞きながら歩いた。


城の中では、一つ一つの声が抑えられていた。誰も大きな声を出さず、必要なことだけを言い、余計な笑いも控えている。だが城下へ近づくにつれ、音はほどけていく。暮らしの音には、遠慮がない。


坂を下り、市へ差しかかったところで、匂いが一気に増えた。


川魚を焼く香ばしさ。

干物に残る潮の匂い。

味噌の発酵した重い香り。

薪の乾いた木の匂い。

布や藁や獣の匂い。

土の匂い。

そして、その全部の上を薄く流れていく春の風。


常陸は豊かな国だ、と義重はあらためて思う。


山のものがある。

川のものがある。

海のものがある。

それらがこうして同じ市に並ぶ。


露店には雑穀が山に盛られ、味噌桶が並び、塩が白く光り、薪が束ねられている。干した魚の列の隣には、ついさっきまで川で跳ねていたような魚が濡れた木桶に並び、その奥では布売りが色の違いを見せていた。農家の女たちは青菜を抱え、男たちは縄や桶や鍬の具合を見ている。武家の城から見下ろすだけでは分からぬ、暮らしの熱がそこにはあった。


義重は足を止めた。


「どうなさいました」


近習の少年が慌てて聞く。


「別に」


「別に、という顔ではございませぬが」


「うるさい」


「黙ると余計に心配になるのでございます」


義重は答えず、市の奥を見た。


どの顔にも、その日の用がある。

魚を買う者。

布を値切る者。

塩の重さを確かめる者。

薪を担ぐ者。

子を叱る母。

売り声を張る男。


こういうものが城の下にあるから、城は城でいられる。評定の間の言葉だけでは国は立たない。結局のところ、人は飯を食い、物を売り買いし、季節ごとの恵みを回さなければ生きていけないのだ。


義重は、胸の内でぽつりと思った。


これが失われるのは嫌だ。


言葉にするにはまだ少し曖昧だったが、感覚としてははっきりしている。城が落ちる、戦に負ける、年貢が乱れる――そういう言葉の先で本当に失われるのは、結局こういうものなのだ。朝の市、焼き魚の匂い、味噌の桶、子どもの泣き声、雑穀を量る手つき。そう思うと、城の中で交わされる「家のため」「国のため」という言葉の中身が、少しだけ具体的になる気がした。


老臣が横目で義重を見る。


「若君、何を見ておられます」


「城の下だ」


「見れば分かります」


「見ただけでは分からぬ」


「では」


義重は少し考えてから言った。


「こうして歩くと、守るとは何を守ることか、少し分かる」


老臣は驚いたようには見えなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。


「左様にございますな」


「……おまえは驚かぬのか」


「若君がそういうことを仰せになると、驚くより先に“この歳でそこへ辿り着かれるのか”と胃が痛みます」


「また胃か」


「はい。若君の成長は、たびたび年寄りの臓腑にこたえます」


義重は少しだけ口元を動かした。


そんなやり取りをしていると、川魚を売っていた男がこちらへ気づき、慌てて背を正した。


「お、おや、これは……若君さま、でございますか」


まわりの何人かも釣られて頭を下げる。義重は大仰に扱われるのが少し苦手だった。とくに、市のような場所で皆が急にかしこまると、見えるものまで見えなくなる気がする。


「魚はよいのか」


義重が聞くと、売り手の男はぎょっとした。


「は、はい! 今朝の久慈のものにございます。脂はまだ少のうございますが、身は締まっております!」


「昨日より水は冷たいか」


「え……」


男は一瞬ぽかんとしたが、すぐに「あ、はい」と頷いた。


「昨夜は風が変わりまして。上流の方で少し冷えたのでしょう」


義重は魚の目と鱗を見た。確かに悪くない。


「そうか」


それだけ言って通り過ぎようとすると、背後で男が小声で「若君さま、魚のことまで」と呟くのが聞こえた。近習の少年がすぐに耳打ちしてくる。


「若君、あまり普通にお話しなさいますと、皆が混乱いたします」


「なぜだ」


「若君はもっとこう、遠く高いところの存在だと思われております」


「魚を見たくらいで混乱する方が変だ」


「その理屈が通るなら、世の中はもう少し楽にございます」


今度は味噌売りの前を通る。大桶の蓋が少し開けられ、香りが立っている。濃い、重い、腹にくる匂いだ。義重がその前で立ち止まると、味噌売りの女が目を丸くした。


「若君さま、もしやお味噌を」


「買わぬ」


「左様で……」


「見るだけだ」


「見るだけ……」


女はなぜか困った顔をした。義重は桶を覗き込みながら聞く。


「今年はどうだ」


「どう、と申しますと」


「出来だ」


女はしばらく瞬きをしていたが、やがて商人の顔に戻った。


「……豆は悪くございません。ただ、塩が少し高うございます。海の方もこの頃は落ち着かぬと聞きますゆえ」


「海もか」


「ええ。どこもかしこも、妙に人の動きが多うございます」


そう言ってから、女ははっと口をつぐんだ。


義重はその顔を見逃さない。


「何だ」


「い、いえ。別に、わたくしなどが申すことでは……」


「言いかけた」


「それは……」


老臣が穏やかに口を挟む。


「案ずるな。若君は、聞いたからといってすぐに首を刎ねるようなお方ではない」


「おまえは俺を何だと思っている」


「念のためにございます」


味噌売りの女は、おそるおそる声を落とした。


「見慣れぬ男どもが、時折まとまって通るのでございます。商人とも旅人とも少し違う。買うでも売るでもなく、道だけ見ておるような……」


「どのあたりを」


「南の通りや、川の近うございますところを」


南の通り。


またその名だ。


義重の頭の中で、台所の古株女中の言葉がよみがえる。消えた者が城下で誰かと会っていた。場所は南の通り。見慣れぬ旅人も同じあたりにいたという。繋がりがあるのか、ないのか。まだ断じるには早い。だが、こうして歩いてみると、噂は確かに同じ方へ流れている。


市は賑わっている。

だが、その賑わいの底に、妙な沈みがある。


人々は普段通りに笑い、売り、値切り、運んでいる。けれど、話が「見慣れぬ者」や「南の通り」へ寄った瞬間、声が半歩引く。誰かが左右を見る。言葉を飲み込む。よそ者の前でなくとも、噂を最後まで言い切らぬ。


その不自然さが、義重にはよく分かった。


市の賑わいと緊張が、同じ場所にある。


笑い声のすぐ隣に、言いかけて止まる口がある。焼き魚の匂いの向こうに、じろりと様子をうかがう視線がある。暮らしは続いているのに、その暮らしの裾へ戦の気配が触れ始めているのだ。


その時、少し先で子どもたちの騒ぐ声がした。


「おい、そっち行くなって!」

「違うって、見るだけだってば!」

「こら! 邪魔になるだろ!」


どうやら露店の脇で子どもが何かをひっくり返しかけたらしい。義重がそちらを見ると、近習の少年が慌てたように前へ出た。


「若君、あまり目立ちますと」


「目立っているのは向こうだ」


「そういう話ではございませぬ」


だが次の瞬間、魚籠を抱えた女が義重を見つけて慌てて子どもを押さえ込んだ。


「こらっ、おやめ! 若君さまの御前で何をしてるんだい!」


子どもは何が起きたのか分からぬ顔で義重を見上げたあと、素直に口を尖らせた。


「だって、ちっこいじゃん」


周囲が凍った。


近習の少年が青ざめ、母親らしい女は今にも倒れそうな顔になる。老臣は目を閉じて天を仰いだ。


義重は数瞬、子どもを見つめた。


「……小さいのは知っている」


そう言うと、子どもは「ほらな」という顔をしたが、母親の方は余計に蒼白になった。


「も、申し訳ございませぬ! この子、まだ世間知らずで!」


「世間知らずなのは見れば分かる」


「若君!」


近習が慌てて止める。だが義重はむっとした顔のままだった。


子ども扱いされるのは嫌いだ。相手が本当に子どもであっても、嫌なものは嫌だった。


「若君、どうどう」


老臣が小声で言う。


「馬ではない」


「ですが耳が後ろを向いております」


「向いていない」


「向いております」


義重はさらにむっとした。近習の少年は必死で笑いを堪えている。義重はそれが気に入らぬ。


「何がおかしい」


「い、いえ、若君があまりにその……」


「何だ」


「年相応でいらしたもので」


義重は返す言葉を失った。


老臣が咳払いを一つして場を収める。


「よい。子は悪気なく申したのであろう。それより魚籠を落とさぬよう気をつけよ」


母親は何度も頭を下げ、子どもの首根っこを掴むようにして去っていった。去り際に子どもがまだ義重を不思議そうに見ていたので、義重は少しだけ眉をひそめた。


「若君」


老臣が横から覗き込む。


「まだご機嫌が斜めにございますな」


「別に」


「別に、のお顔ではございませぬ」


「うるさい」


「子どもに子ども扱いされるのは、なかなか珍しい経験にございます」


「もう言うな」


「承りました」


近習の少年たちが後ろで肩を震わせている。義重は振り返りざまに睨んだ。


「笑うな」


「わ、笑っておりませぬ」

「顔がそう申しております」

「それは顔が勝手に……」


義重は深く息を吐いた。だが、不思議とそれで少しだけ力が抜けたのも事実だった。市の緊張ばかり見ていると、胸の内まで固くなる。こういうくだらぬやり取りが一つ挟まると、頭が少し動きやすくなる。


やがて一行は、南の通りへ近づいた。


こちらは市の中心よりやや人通りが少ない。店の並びも少し粗く、倉や荷置き場が混じる。川へ抜ける道も近いせいか、土と水の匂いが強くなる。風に乗って、川の湿り気が鼻へ来た。


義重は歩みを緩めた。


ここだ。


旅人の噂。

揉め事。

消えた者が誰かと会った場所。


表向きは何も変わらぬ。人はいる。荷は運ばれている。だが、どこか視線が合いにくい。こちらを見た者が、すぐ目を逸らす。口を開きかけて閉じる。通りの奥に立つ二人の男など、商人の格好はしているが、荷の持ち方が妙に軽かった。


義重は何気ない顔で、そのあたりを見て回る。


焼いた干物を吊るす軒先。

樽の並ぶ壁際。

乾いた藁。

踏み固められた土。

人が多く、なおかつ少し身を隠せる場所。


待ち合わせには都合がよい。

誰かと会い、少し話し、様子が悪ければそのまま川の方へ抜けることもできる。


「若君」


老臣が、いつになく低い声で言った。


「ここから先は、見るだけに」


「分かっている」


「本当に、でございますぞ」


「分かっている」


義重は口ではそう答えたが、目は止まらなかった。


通りの端、荷を積んだ木箱の陰に、何か細いものが落ちているのが見えた。


最初はただの折れた木片かと思った。だが、光の当たり方が少し違う。土に半ば埋もれ、踏まれ、汚れてはいるが、そこだけ形が整いすぎている。


義重はふいに足を止めた。


「どうなさいました」


近習が囁く。


義重は返事をせず、木箱の方へ一歩近づいた。老臣が止めるより少しだけ早い。


「若君」


「待て」


義重はしゃがみ込むと、土の中からそれを拾い上げた。


小刀の鞘だった。


土で汚れている。だが、ただの鞘ではない。手に取れば分かる。作りがよい。しかも口元の金具に、擦れてはいるが見覚えのある紋が刻まれていた。


佐竹家の紋。


義重の目がすっと細くなる。


これは失踪した者が持っていたはずのものだ。評定の場で名の出た、あの男が身につけていたと聞いた覚えがある。城方の者の持ち物。それが、なぜこんな城下の片隅に落ちているのか。


老臣もすぐに気づいたらしい。顔色が変わった。


「若君、それは」


「鞘だ」


「見れば分かります」


「佐竹の紋だ」


近習の少年たちが息を呑む。


さっきまで市場のざわめきに溶けていた景色が、一瞬で別の色を帯びた。露店も、通り過ぎる人影も、木箱の積み方も、すべてが“ただの市”ではなくなる。ここで誰かが何かを落とした。いや、落としただけかどうかも分からない。置いたのかもしれぬ。見せたかったのかもしれぬ。


義重は鞘を見つめたまま、静かに思う。


城の中だけではなかった。

戦の気配は、もう町にも落ちている。


そして今、自分たちはその影の真ん中へ、足を踏み入れてしまったのだ。

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