第3話 若君、台所で味噌汁を飲む
朝はとうに明けているのに、義重の腹は今ごろになって空いてきた。
それも仕方のないことだった。評定の空気を吸い、裏道を歩き、台所や厩や兵具蔵まで覗き込み、書の稽古では筆より先に頭の方を働かせていたのだから、体の方が遅れて「いい加減に何か入れろ」と言い出したのである。
もっとも、それを素直に口に出す気にはなれなかった。
義重は自室で座っていたが、腹の虫というものは時に評定の重臣より遠慮がない。ぐう、と一度鳴ったところで、控えていた近習の少年が肩を震わせた。
「……今、笑ったか」
「め、めっそうもございませぬ」
「目が笑っていた」
「若君のお耳が良すぎるのでございます」
「腹が鳴るのは耳でなく腹だ」
「そこは存じております」
義重はむっとした顔をした。近習は慌てて頭を下げる。
「い、いや、しかしその、若君。そろそろ朝餉を……いや、もはや朝というよりは昼に近うございますが」
「分かっている」
「ならば台所へ」
「部屋へ持ってこぬのか」
「持っては来られますが、今朝は動きが立て込んでおりますゆえ、台所の方が早いかと」
義重は少し考えた。
普段なら部屋へ持ってこさせるところかもしれない。だが今日は、むしろ台所へ行く方が都合がよい気がした。腹も満たせるし、人の顔も見られる。城の空気は広間だけでは分からぬ。台所の湯気の中にこそ、今日の城の具合がよく出る。
「行く」
そう言って立ち上がると、近習の少年はなぜかぎょっとした。
「ま、またですか」
「何がだ」
「若君が“行く”と仰せになるたび、こちらの寿命が少し削れます」
「短い寿命だな」
「若君のおかげで日に日に縮んでおります」
「丈夫になれ」
「無茶を申されます」
そこへ、案の定という顔で老臣が現れた。どこで見張っているのか分からぬが、こういう時だけは実によく現れる。
「若君」
「何だ」
「今度はどちらへ」
「台所だ」
「……それはまた、微妙に止めづらい」
「止めるつもりか」
「場所によります。物見櫓や兵具蔵の奥なら止めますが、台所で飯を召し上がると仰せなら、止めればこちらが悪者にございます」
義重は「ならよい」とだけ言って歩き出した。
台所へ近づくにつれ、空気が変わっていく。冷えた廊下の匂いから、火と湯と味噌の匂いへ。炊いた米の甘い香りに、焼き魚の香ばしさ、出汁の匂い、濡れた薪の煙が混じる。城のどこよりも、生きている場所の匂いだと義重は思う。
台所の入り口に顔を見せた瞬間、中にいた女房衆と下働きたちの動きが一瞬止まった。
「わ、若君さま」
「お、おいでに……」
「今、この格好で……?」
一人が言いかけて、隣の女に肘でつつかれる。どうやら「まさか本当に来るとは思わなかった」という顔を皆している。
義重はその反応を見ても特に気にしない。
「飯はあるか」
すると年かさの女房が、慌てて前に出た。
「は、はい、もちろんにございます。ただ、上にお運びするには少々――」
「ここで食う」
また止まった。
さすがにこれは予想していなかったらしい。
若君が台所へ来るだけでも一大事なのに、その場で食うと言い出したのだ。下働きの若い娘など、手にしていた椀を危うく落としかけている。
老臣がその様子を見て、いかにも面倒そうに咳払いした。
「聞こえたであろう。若君はここで召し上がるそうだ。騒ぐと冷めますぞ」
その一言でようやく場が動いた。
「は、はいっ」
「すぐにお支度を」
「椀はどれを」
「そっちはまだ熱いよ、気をつけな!」
鍋の蓋が鳴り、椀が並べられ、魚が皿へ移される。義重は台所の隅、普段は働き手がさっと食事を済ませるために使う小さな板机の前へ座った。若君がそんなところへ当然のように座るものだから、女たちは余計に落ち着かない。
ほどなくして、膳が出された。
白い飯。味噌汁。小ぶりの焼き魚。漬物。豪華ではないが、城の飯としては十分だ。義重は椀を持ち、湯気の立つ味噌汁を一口すすった。
そのまましばらく黙る。
台所全体が、見えない手で止められたみたいに静かになった。
皆、義重の口元を見ている。
若君は気難しい。
若君は機嫌が悪いと何を言うか分からない。
若君は怖い。
けれど時々変なことを言う。
そんな噂が台所にも届いているのだろう。誰もが「さあ何と言う」と身構えていた。
義重は椀を置いて、淡々と言った。
「少し塩が強い」
凍った。
鍋の湯気まで凍りつきそうな勢いで、女たちの顔が強張る。若い下働きの娘など、今にも「申し訳ございません」と平伏しそうな気配である。
だが義重は続けた。
「だが寒い朝には悪くない」
空気が変わった。
ぴんと張りつめていた糸が、妙なところで緩む。女たちは顔を見合わせた。
怒られたのか。
褒められたのか。
どちらなのか。
いや、たぶん両方ではないか。
そんな戸惑いが、そのまま場に広がる。
年かさの女房が恐る恐る聞いた。
「わ、悪く……ございませぬか」
「悪いとは言っていない」
「では、よろしいので?」
「少し強いと思っただけだ」
「はあ……」
「寒い時は腹に入る」
女房は返事に困って頭を下げた。叱られているようでもあり、気を遣われているようでもある。怖いのか怖くないのか、まるで分からない。
老臣が横で小さく笑う。
「若君、もう少し仰りようというものがございますぞ」
「何がだ」
「今の言い方では、褒められた側も罰を受けたような顔になります」
「事実を言っただけだ」
「事実が時として人をいちばん困らせるのでございます」
義重は首を傾げたが、老臣の言うことも少しは分かる気がした。だが、味がそうだったのだから仕方がない。
魚を箸でほぐして口へ運ぶ。今日は川魚だ。骨は多いが、身は柔らかい。塩気は強くない。味噌汁がやや濃いぶん、ちょうどよい。
「魚はよい」
義重が言うと、今度は別の女房がぱっと顔を上げた。
「ほ、本当にございますか」
「嘘をついてどうする」
「い、いえ、その、若君がお口に合わねばどうしようかと」
「合う」
「左様で……!」
なぜか今度は嬉しそうにしている。義重にはその反応の移り変わりが少し不思議だった。味が濃いと言われて固まり、魚がよいと言われて明るくなる。その程度のことでそんなに忙しく感情が動くのかと、どこか他人事のように思う。
けれど、台所の者たちからすれば、若君の機嫌は小さな合戦みたいなものかもしれない。下手に外せばその日一日が落ち着かず、思いがけず当たれば皆の顔が明るくなる。
義重はまた味噌汁をすすった。
やはり少し濃い。だが悪くない。冷えた朝に歩き回った後だから、塩気が体にしみる。外へ出る兵などにはこれくらいの方が都合がよい日もあるだろう。
女房衆も、若君が本気で怒っているわけではないと分かると、少しずつ口が動き出した。最初は必要なことだけをやり取りしていたのが、やがて普段の台所の会話へ戻っていく。
「今日の菜っ葉は少ないねえ」
「城下の市でも高くなってるそうで」
「境目の方が落ち着かないからだよ」
「そうそう、この頃は見慣れぬ旅人も多いとか」
「旅人って言うより、あれはどう見ても……」
「おやめよ、聞かれたらどうする」
「でも実際、妙な空気だよ」
義重は魚を食べる手を止めなかった。止めず、顔も上げない。だが耳だけはきちんと働いている。
見慣れぬ旅人。
境目の方が落ち着かない。
市の値も揺れている。
評定の場に出る話は、どうしても大きな言葉になりがちだ。境の不穏、内通、警戒、裏道筋。だが台所の話は、もっと腹に近い。「菜が高い」「見慣れぬ者が多い」「風向きが悪い」といった言葉になる。その方がかえって本当の空気を表している気がした。
女房の一人が、小声で続ける。
「昨夜なんぞ、城下の南の通りで揉め事があったそうじゃないか」
「ただの酔っぱらいって話もあるよ」
「今どき、何でも“ただの酔っぱらい”で済むものかねえ」
「済まないから皆ぴりぴりしてるんじゃないの」
義重は汁を飲み干し、椀を置いた。
「南の通りか」
ぴたり、とまた会話が止まった。
今度は皆、「聞いていなかったのではないのか」という顔で義重を見る。義重は気にせず飯を一口食う。
「何かあったのか」
女房衆はたちまち目で押し付け合いを始めた。誰が答えるのか、誰が余計なことを言ったのか、無言のまま責任のなすり合いが始まっている。
老臣が半ば呆れたように助け舟を出した。
「若君がお尋ねにございます。知る限りを申せ」
年かさの女房が、しぶしぶという顔で口を開く。
「……大したことではございませぬ。昨夜、城下の南の通りで、見慣れぬ旅人衆が酒を求めてうろついていたとか。店の者と口論になったというだけにございます」
「だけ、で済む顔ではなかったぞ」
隣の女がつい口を挟んだ。
「あんた見たのかい」
「見ちゃいないけど、うちの甥が通りで見たって」
「なら見てないじゃないか」
「見たも同じだよ」
義重は少しだけ目を細めた。
「旅人は何人だ」
女房たちはまた困った。だが若君が本気で聞いていると分かると、答えないわけにもいかない。
「三、四人……だったとか」
「いや、もっといたという話も」
「荷の持ち方が妙で、商人には見えなかったって」
「武家でもなさそうだったよ」
「でも、足だけは妙に早かったと」
話は統一していない。噂だから当然だ。けれど統一していないなりに、共通する匂いがある。見慣れぬ者が増えている。城下の者がそれを気にしている。境目の緊張が市や台所へじわじわ降りてきている。
食事ひとつで、城の緊張が見える。
義重はそう思った。
もし世が穏やかなら、台所で交わされるのは魚の大きさや味噌の出来や、誰が鍋を焦がしたかといった話ばかりのはずだ。ところが今は、菜の値から旅人の顔つきまで、何もかもが「落ち着かぬ」という一言に繋がってしまう。腹を満たす場所にまで戦の影が落ちているのだ。
義重は飯を食べ終え、箸を置いた。
「ごちそうさま」
台所が、また少しざわつく。
若君がそんなふうに普通に言うとは思っていなかったのだろう。年若い下働きの娘が、思わずぽかんと口を開けたまま固まっている。
義重は立ち上がると、魚を焼いていた女の方を見た。
「魚はうまかった」
「……っ、ありがたき幸せにございます」
「味噌汁も悪くなかった」
「は、はい……!」
「少し塩が強いが」
「やっぱりそこはおっしゃるのでございますね!?」
思わず素で返した女に、台所じゅうがしんとした。
女は自分で言ってから顔色を変え、慌てて平伏しそうになる。だが、先に吹き出したのは老臣だった。
「はっは、よい。今のはよい」
義重も少しだけ目を瞬かせたあと、口元をわずかに緩めた。
「次は少しだけ薄くしろ」
女はまだ真っ青なままだったが、義重の顔を見て、ようやくこれは叱責ではないと気づいたらしい。おそるおそる頭を下げた。
「承りましてございます」
義重が台所を出ようとすると、背後でひそひそ声が立ち始める。
「怖いのか怖くないのか分からないねえ」
「でも、ちゃんと食べるんだね」
「普通にここで食べる若君なんて初めて見たよ」
「魚褒められてたじゃない」
「味噌汁は褒められたのかい、あれ」
「半分は」
「半分って何さ」
義重は聞こえないふりをしたが、耳にはしっかり入っている。
老臣が横に並び、小さく言う。
「若君、台所の者どもに強い印象を残されましたな」
「何だ」
「しばらくは“怖いのにちゃんと食べる若君”として語られましょう」
「ちゃんと食べるのは当たり前だ」
「当たり前のことが、時に人の心を軽くするのでございます」
義重はその言葉に少しだけ考え込んだ。
自分はただ腹が減ったから食べただけだ。出されたものを食べ、味を言っただけ。だが、周りの者にはそれが別の意味を持つこともあるらしい。
城は広い。
広間の言葉と、台所の言葉は違う。
けれどどちらも同じ城の中で繋がっている。
表で重臣が話す「境目の不穏」は、裏では「菜が高い」「見慣れぬ旅人が多い」という話になる。そしてその話は、やがて城の者の眠りや、鍋の塩加減にまで影を落とす。
義重は廊下を歩きながら、さっき聞いた言葉を頭の中で並べていた。
南の通り。
見慣れぬ旅人。
境目の村が落ち着かぬ。
揉め事。
夜の城下。
すると、後ろから遠慮がちな声がした。
「若君さま」
振り返ると、台所の入り口の影に一人の女が立っていた。かなり年配で、腰は少し曲がっているが、目つきは妙にしっかりしている。さっきから黙って働いていた古株の女中だ。
「何だ」
女は周りをちらりと見てから、少しだけ近づいた。老臣の目が鋭くなる。近習たちも息を詰めた。
古株女中は声を潜める。
「今の旅人衆の話ではございませぬが……」
「うむ」
「消えたあの方にございます」
義重の足が止まる。
老臣が一歩前へ出ようとしたが、義重は手で軽く制した。女中はさらに声を落とした。
「昨夜、あの方は城下で誰かと会っておいででした」
廊下の空気がすっと冷えた気がした。
義重は女中の顔を見る。
嘘を言っている顔ではない。
けれど軽々しく口にしてよい話でもない顔だ。
「誰だ」
女中はすぐには答えなかった。喉を鳴らし、ためらい、しかし意を決したように言う。
「名までは、この場では……。ですが南の通りにございます。見た者がおります」
南の通り。
さっき台所で出たばかりの地名が、ぴたりと繋がる。
義重の胸の内で、ばらばらだった話がゆっくりと形を取り始めた。旅人の噂と、消えた者の足取りが、別々ではなく同じ夜の中にあるかもしれない。
老臣が低く問う。
「その見た者とは」
古株女中は、今度は義重だけを見るようにして言った。
「……若君がお聞きになるなら、今夜、あらためて」
そう言って深く頭を下げると、女はすぐに台所の奥へ引っ込んでいった。
しばし、誰も口を開かなかった。
やがて老臣が小さく息をつく。
「若君」
「何だ」
「味噌汁を飲みに行って、ずいぶん大きな具を拾ってこられましたな」
義重は真顔で答えた。
「具ではない」
「では」
「火種だ」
老臣は一瞬黙り、それから困ったように笑った。
「……まこと、その通りにございます」
台所の湯気の中で交わされた何気ない話が、城の奥に潜む見えぬ火へ繋がっていく。
若君の朝食は、腹だけでなく、次の厄介事まで満たしてしまったらしかった。




