第2話 裏道を知る者たち
評定が終わったあとも、城の空気は元に戻らなかった。
人はいつも通りに歩いている。廊下を拭く者がいて、台所では鍋の音がし、厩では馬が鼻を鳴らす。門番は門番の顔で立ち、近習は近習の顔で走る。誰も騒いではいない。だが、静かなまま全員が少しだけ速く動いていた。
城というものは面白い、と義重は思った。
外から見れば同じ城だ。櫓も塀も、庭の石も、昨日と何ひとつ変わっていない。ところが中にいる人間が少し焦るだけで、城全体が別の生き物みたいに見えてくる。柱の影がいつもより濃く見え、曲がり角の先が少しだけ遠く感じる。
評定の間を出た義重は、ひとまず「書の稽古へ戻られませ」と言われた。
言ったのは当然、あの老臣である。言い方は穏やかだが、実際には「これ以上うろつくな」という意味がたっぷり込められていた。
義重は部屋の前まで戻った。戻ったが、座らなかった。
机の上には筆と紙が置かれている。硯の墨も整えられていた。いつもなら嫌々ながらでも座るところだが、今日はどうにもその気にならない。書の稽古に向かうには、頭の中がごちゃつきすぎていた。
境の不穏。
失踪した者。
佐竹の内情を知る者しか通らぬ裏道筋。
墨より先に、そちらが頭の中に広がってしまう。
義重はしばらく机を見下ろしていたが、やがて後ろに控えていた近習の少年を振り返った。
「行くぞ」
「えっ」
少年は目を丸くした。年は義重より少し上か、同じくらいか。城仕えの子らしいきびきびした動きをするが、まだ顔つきには幼さが残っている。
「い、行くって、どちらへ……」
「城の中だ」
「城の中なら今ここに――」
「歩く方だ」
「それは存じております」
義重は障子を開けた。少年は慌てて後を追い、そのまた後ろから別の近習が顔をしかめる。
「若君、書の稽古は」
「あとでやる」
「あとで、とはいつにございますか」
「あとでだ」
「その“あとで”が参ったためしが」
「ある」
「一度か二度にございます」
「あるならよい」
「よくはございませぬ!」
義重は気にせず歩き出した。
廊下に出ると、春先の冷えがまだ板から足裏へ伝わってくる。日差しは柔らかいのに、日陰に入ると妙に寒い。こういう季節の城は、朝と昼とで別の顔になる。義重は角を折れ、土塀沿いの細い通路へ向かった。
近習たちは顔を見合わせる。
「若君、そちらは奥へ戻る道では……」
「知っている」
「ではなぜ」
「見たいからだ」
「何をでございましょう」
「裏道だ」
その一言で、近習の少年たちはそろって嫌そうな顔をした。
「若君……」
「何だ」
「評定の話を聞いたばかりで、すぐにそれを見て回るのは、いかがなものかと……」
「だから見る」
「だから、のつながりが分かりませぬ」
義重は足を止めて振り向いた。
「知らぬ方が危ない」
きっぱりとした声だった。
近習たちは揃って口をつぐんだ。そう言われると、確かに反論しづらい。何を知るべきか、どこまで見るべきかはともかく、何も知らぬままでいる方が危ういという理屈そのものは間違っていないからだ。
そこへ、後ろから聞き慣れた声が追いついてきた。
「若君がその理屈を持ち出された時ほど、こちらが困ることもございませぬな」
老臣だった。
いつの間に追ってきたのか、相変わらず姿勢よく歩いてくる。怒っているようにも見えないが、諦めている顔でもある。義重は少しだけ目を細めた。
「来たのか」
「参らねば、また供の者どもが青い顔を致します」
「大げさだ」
「若君は、ご自分が城中の胃袋にどれほど負担をかけておられるか、少しはお知りになるべきです」
「おまえのか」
「まずはわしの」
「なら、強い酒でも飲め」
「朝から飲めば、今度は別の意味で叱られます」
義重は少し口元を動かした。それを見て近習たちがほっとする。老臣が来ると、若君の無茶が多少はましになる――少なくとも供の者たちはそう信じているらしかった。
一行はそのまま、表の廊下ではなく、少し外れた通路を進んだ。
そこは客人の通る場所ではない。壁際に荷が置かれ、時おり女房衆や下働きが急ぎ足で行き来する、いわば城の裏側の道だ。表から見れば立派な城でも、裏では人が絶えず働き、物が運ばれ、火や水や餌や灰がめぐっている。義重はこの裏側が嫌いではなかった。むしろ、表の広間よりよほど城らしい気がする時もある。
「若君は、こういう道がお好きにございますな」
老臣が言う。
「表より本当の城に近い」
「ほう」
「広間では誰も綺麗なことしか言わぬ」
「裏では」
「急いでいるから、余計な飾りがない」
老臣は感心したような、呆れたような顔をした。
「そのうち、人の腹の中まで見ようとなさるかもしれませぬな」
「見えるなら見たい」
「やめてくだされ。世の中には見えぬ方がよい腹もございます」
通路を抜けた先には、台所があった。
朝の忙しさがまだ少し残っている。大鍋の蓋が揺れ、湯気が立ち、焼き台では魚が焦げ目をつけている。味噌の匂いに炊いた米の甘い香りが混じり、さらに薪の煙と湯気が合わさって、台所全体がひとつの生き物みたいに息をしていた。
若君の姿を見つけた女房衆が、あわてて手を止める。
「わ、若君さま」
「そんなに驚くな」
「驚きますとも。こんなところへおいでになるとは」
義重は鍋の方へ視線をやった。
「まだ朝餉の片づけか」
「はい。城の者だけでも口が多うございますゆえ」
「兵もいる」
「はい。人が多ければ、それだけ鍋も増えます」
義重は少しだけ頷く。
評定の間にいると、城は武士のもののように見える。だが台所に来ると違う。城は腹で立っているのだと分かる。飯を炊く者がいて、水を汲む者がいて、薪を割る者がいて、味噌を仕込み、魚をさばき、塩を量る者がいる。刀だけでは城は一日ももたない。
義重は鍋を覗き込んだ。
「今日は少し塩がやわらかいな」
年配の女がぎくりとする。
「も、申し訳ございませぬ」
「悪いと言っていない」
義重は平然としている。
「朝よりは昼向きだと思っただけだ」
台所の女たちが互いに顔を見合わせた。
若君は気難しい。怖い。理屈っぽい。そんな噂は皆知っている。だが、出てくる言葉が時々こういうふうに妙なので、構えた調子が外されるのだ。
年配の女が恐る恐る聞く。
「若君は、お味の違いなどようお分かりに?」
「毎日食っていれば分かる」
「はあ……」
「それに、寒い朝は少し強めでもよい。今朝ほどではない」
女は、今度は返事に困って笑った。
義重はそのまま焼き台の方へ目を向ける。小ぶりの魚が並んでいる。川のものだろう。海の魚に比べて匂いはやわらかい。
「これは久慈のか」
「ええ。今朝届いたものにございます」
「海のものは」
「今日は干したものが少し。風が合わず、思うようには届きませなんだ」
義重はそれも頷いて聞いていた。
山のもの、川のもの、海のもの。常陸はそれが全部そろう土地だ。子どもの頃は当たり前だと思っていたが、年を重ねるにつれて、それがどれほど贅沢なことか少しずつ分かってきた。だからこそ、守るのが面倒なのだろう、とも。
台所を出ると、今度は厩へ向かった。
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。藁と汗と獣の匂いが鼻に来る。馬たちは人の気配に耳を動かし、何頭かが低く鼻を鳴らした。義重はこの匂いも嫌いではない。台所の匂いが城の腹なら、厩の匂いは城の脚だ。
馬番が慌てて駆け寄ってくる。
「若君さま。何かご用にございますか」
「見に来た」
「見る、でございますか」
「馬を見るのに理由が要るか」
馬番は困って老臣を見たが、老臣は「諦めよ」という顔をしただけだった。
義重は手近な一頭の前で立ち止まった。栗毛の若い馬だ。見た目は立派だが、耳の向きが落ち着かない。足もわずかに浮ついている。
「こいつは、よく噛むな」
馬番がぎょっとした。
「な、なぜお分かりに」
義重は馬の鼻先を見ながら答えた。
「耳が忙しい。目も人を追いすぎる。口の端の癖がある」
「……その通りにございます。新しく入れた馬にて、気が強うございまして」
「強いのではなく落ち着かぬのだ」
義重は一歩近づき、馬の首筋を見た。
「前の扱いが荒かったか」
馬番が言葉を失う。老臣が横で目を細めた。
「若君は、ようご覧になりますな」
「人も馬も同じだ」
「何がにございます」
「落ち着いているふりをしていても、怖がっている時は目が先に動く」
老臣はそれを聞き、少しだけ間を置いてから言った。
「それを評定の間で使われたのでございますな」
義重は答えず、馬の首をそっと撫でた。馬は最初こそ耳を伏せかけたが、すぐには噛みついてこなかった。
馬番が感心したように口を開く。
「若君、馬がお好きにございますか」
「好きだ」
「では、この馬も」
「好きになるかはこれからだ」
即答だった。
老臣が小さく吹き出す。
「若君は本当に、何にでも容赦がございませぬ」
「好き嫌いは簡単に決めぬだけだ」
厩を出たあとは兵具蔵へ向かった。
そこでは槍や弓、矢、鎧の手入れがされていた。油の匂い、鉄の冷たさ、木の軋み。戦のためのものばかりが並ぶ場所だが、それらもまた日々の手入れがなければただの重い荷物でしかない。義重は何本かの槍の柄を見て、使い込まれ方の違いを眺めた。
「若君、武具もご覧になりますか」
兵具奉行が緊張した顔で言う。
「見る」
「何をお確かめに?」
「誰がよく使っているか」
奉行はきょとんとした。義重は一本の槍を指さす。
「これは手に馴染んでいる」
「は……」
「こっちは新しい。だが持ち方が悪い」
「そ、そこまで……」
「柄の擦れが違う」
奉行が感心する横で、老臣が静かに言った。
「若君は、物より人を見ておられるのでしょう」
義重は少し考え、それから頷いた。
「物は嘘をつかぬ」
「人は嘘をつく」
「つく」
「では若君、人をどう見分けられます」
義重は兵具蔵の薄暗がりを見回した。
「嘘をつく者でも、ずっと同じ嘘はつけぬ」
老臣は何も言わず、その横顔を見た。
兵具蔵を出たあと、一行は井戸端の方へ回った。
女たちが桶を並べ、水を汲み上げ、洗い物をしている。笑い声もあるが、普段より少し低い。城のどこかで何かあったと知れば、こういう場所にはすぐに噂が落ちる。誰が何を知っているのかまでは分からなくても、「いつも通りではない」ことだけは伝わるのだ。
義重は井戸の縁に立って中を覗き込んだ。
深い。暗い。水面に空の色が揺れている。
「若君、落ちますぞ」
近習の少年が慌てて袖を引く。
「落ちぬ」
「そう申される方ほど、周りは不安になるのでございます」
義重は井戸から顔を上げ、井戸端の女たちの出入りを見た。こちらから台所へ通じる道、裏庭へ抜ける道、少し外れた物見櫓へ続く細道。人の通りが多い道と、そうでない道。用のある者しか通らぬ道。顔の広い者だけが使いやすい道。
ふと、義重は歩みを止めた。
「ここも繋がっているな」
「何がにございます」
老臣が聞く。
「台所、厩、兵具蔵、井戸」
「左様ですな。城に必要なところばかりにございます」
「表の広間とは別の城だ」
「ほう」
「飯を作る者、馬を扱う者、武具を整える者、水を汲む者。こいつらが使う道は、重臣の通る道と違う」
老臣はゆっくり頷いた。
「違いますな」
「だが、城を本当に動かしているのは、こういう道の方だ」
その言葉に、老臣は少しだけ表情を引き締めた。
「若君」
「何だ」
「よくお聞きくだされ」
老臣は立ち止まり、城内の裏道を一度見回した。表の広間とは違い、ここには飾りがない。人が働き、物が運ばれ、暮らしと戦の準備が混じり合っているだけだ。
「城とは、壁ではなく人で守るものにございます」
義重は黙って聞いた。
老臣は続ける。
「高い塀も、深い堀も、立派な門も、それだけではただの形にすぎませぬ。飯を炊く者が逃げれば腹が減る。水を汲む者がいなくなれば干上がる。馬番が怯えれば馬は使えず、武具を整える手が止まれば兵は鈍る。城を守るとは、人が自分の役目を果たせるようにすることにございます」
義重は裏道の奥を見た。
評定の間で聞いた「裏道筋」という言葉が頭に残っている。誰もが通れるわけではない。だが、誰かは通れる。誰かは知っている。誰かは、そこで待つこともできる。
「なら」
義重はぽつりと言った。
「道を知る者が敵なら、壁より厄介だな」
老臣の目が、わずかに細くなった。
「……はい」
「外の敵は外から来る。だが内の道を知る者は、中で待てる」
「はい」
「失踪した者は、その裏道で消えた」
老臣は返事をしなかった。
肯定も否定もしない。その沈黙が、かえって答えのようだった。
義重はもう一度、今歩いてきた道を頭の中で辿る。台所。厩。兵具蔵。井戸。どこも人が多く、誰かが何かを運び、時には顔も知らぬ者が混じっても不自然ではない。城の中は狭いようで広く、広いようで狭い。知る者には抜け道だが、知らぬ者にはただの壁だ。
失踪者が消えたのは、ただの夜道ではない。
もし外の敵だけが相手なら、待ち伏せの場所を知るには少し都合がよすぎる。
ならば――
「中で待っていた者がいたのではないか」
義重ははっきりと言った。
近習たちがぎくりとした。老臣だけが静かに義重を見つめる。
「若君」
「考えすぎか」
「考えすぎではございませぬ。ただ、その考えは口にした時から刃になります」
義重は老臣を見た。
「刃か」
「はい。向ける相手を誤れば、こちらが傷つきます」
「向けねば、相手に気づけぬ」
「それもまた事実」
老臣は困ったように息をついた。
「まこと、若君は覚えるのが早すぎますな」
「遅いよりよい」
「それを申されると、年寄りの立つ瀬がございませぬ」
二人がそんなやり取りをしていると、井戸端の奥から小走りで一人の下男が現れた。老臣へ何事か耳打ちする。老臣の顔色がほんの少し変わる。
「何だ」
義重が問うと、老臣は一拍置いて答えた。
「門の警戒を少々増やしたとのことにございます」
「それだけか」
「それだけにございます」
義重はじっと老臣を見た。
嘘ではない。だが全部でもない。そんな顔だった。
義重は追及しなかった。まだ聞き出せぬこともある。それくらいはもう分かっていた。追えば話す者、追えば黙る者、追わぬ方が先に綻ぶ者。人はそれぞれ違う。
一行はそのまま部屋へ戻された。今度はさすがに老臣が本気で見張りについたらしく、義重が廊下へ出ようとするたびに、どこからともなく近習が現れた。
「若君、今度こそ書でございます」
「筆は重い」
「槍よりは軽いにございます」
「槍の方がまだましだ」
「それを申されると師が泣きます」
「泣くのか」
「心で」
義重は渋々机に向かったが、筆は遅かった。紙の上に書くべき字が頭に入らない。代わりに城の構えが浮かぶ。裏道の曲がり角、井戸端の出入り、厩から兵具蔵へ抜ける細い通路。そこに誰がいて、誰が通れて、誰が立ち止まっても怪しまれないか。
書の師が「若君、そこは跳ねるところにございます」と言うたび、義重は別の道筋を考えていた。
やがて日が傾き、城の中に夕方の色が落ちた。台所の火は今度は夕餉の支度に移り、厩では馬が落ち着き、井戸端の声も朝よりやわらぐ。城はまた別の顔を見せ始める。昼の忙しなさが引き、夜に備える静けさが広がってくるのだ。
義重は夕餉を終え、ようやく自室でひと息ついた。
だが、胸の内のざわつきは消えない。
評定の間で見た顔。
裏道の構造。
城を動かす人の流れ。
そして「中で待っていた者がいたのではないか」という、自分の考え。
それらが頭の中で繋がりかけて、まだ完全には形にならない。
夜も更けきらぬ頃だった。
障子の外で、ごく控えめに気配がした。
近習が用心深く声をかける。
「誰だ」
「……わたくしにございます」
聞き慣れた声ではない。だが城内の者の声だ。近習が老臣へ目を向ける。老臣は少し考え、静かにうなずいた。
障子が細く開く。
入ってきたのは、昼間に井戸端でも見かけた下働きの中年女だった。顔を伏せ、必要以上に目立たぬようにしている。普通ならこんな時間に若君の部屋へ近づくこと自体が不自然だ。
老臣の声音が低くなる。
「何用にございます」
女は深く頭を下げたまま言った。
「申し上げるべきか迷いましたが……昼より胸騒ぎがして」
「申せ」
「消えたあの方にございます」
部屋の空気が変わる。
義重は背筋を伸ばした。老臣も一歩だけ前に出る。
女はさらに声を潜めた。
「昨夜、あの方が最後にお会いしていたお人の名を、存じております」
義重の指が、膝の上でぴくりと動いた。
ついに出た。
裏道の先ではなく、その前に誰と会ったのか。
そこが分かれば、道を知る者へ辿れるかもしれない。
老臣が慎重に問う。
「誰にございます」
女は唇を強ばらせ、左右を一度だけ見てから、ほとんど囁くような声で名を告げた。
その名を聞いた瞬間、老臣の目が鋭くなった。
そして義重は思う。
やはり、火は外だけではない。
夜の城は静かだった。
だがその静けさの下で、見えぬ火がたしかに燃え始めていた。




