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戦国異聞伝『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第1話 若君、はじめて評定の空気を知る

朝の城は、静かなくせに、耳を澄ませると落ち着かない。


まだ陽は高くない。春浅い空気は冷たく、板張りの廊下には夜の冷えが残っている。どこかで火を起こした匂いが漂い、台所の方からは味噌の煮える香りが細く流れてきていた。城の下ではきっと市の支度が始まり、久慈川にはまだ朝霧が残っている頃だろう。いつもの朝なら、その静けさはひとを安心させる。


けれどこの朝の静けさは、違った。


何かを押し殺している静けさだ。


さっき門の方で馬の蹄が荒く鳴った。急ぎの使者が駆け込み、見張り役の声が上がり、そこから先は早かった。重臣が呼ばれ、近習が走り、奥向きにまで「何事か」とざわめきが伝わる。声は低く抑えられているのに、かえってそれが不穏さを増していた。


太田の城は今日も太田の城のままだった。柱も、塀も、庭も、何ひとつ変わっていない。だが、そこにいる人間の顔だけが変わる。ほんの少し口元が固くなり、目つきが鋭くなり、普段は無駄口の多い者ほど無口になる。


義重はそういう変化を見るのが妙に得意だった。


評定の間の前まで来たところで、背後からため息が落ちてきた。


「若君。まだ戻られるなら今のうちにございますぞ」


振り返らずとも誰か分かる。朝から付き従っている老臣だ。白髪交じりで、普段は穏やかそうに見えるくせに、いざという時は鋼みたいな顔になる男である。


義重は足を止めずに言った。


「戻らぬ」


「本日の話は、耳に気持ちのよいものではありますまい」


「なら、なおさら聞く」


「聞いたところで、胸がすく話でもございませぬ」


「すかねば駄目なのか」


老臣は一瞬詰まり、それから「若君はまこと理屈が立ちますな」と小さくこぼした。


義重はようやく立ち止まり、評定の間の障子を見上げた。中にはすでに何人か入っているらしく、低い声が漏れている。紙の擦れる音、衣擦れ、抑えた咳。大人の男たちが集まって、城と国のことを話す音だ。


その音を聞くだけで、義重の胸の内に、妙な熱が灯る。


自分の知らないところで、自分の城の話がされる。それが、どうにも気に入らなかった。


もちろん、まだ幼い。評定に口を挟める年でもなければ、家中の者たちが素直に耳を貸す立場でもない。それくらいは義重にも分かっている。だが、分かっていることと、納得できることは別だった。


「若君」


老臣が、今度は少しだけ声音を改めた。


「申し上げにくきことながら、皆は若君を遠ざけたがっております」


「知っている」


「怖がらせたくないからではありませぬ」


「知っている」


「ならば」


「邪魔だと思っているのだろう」


言うと、老臣は黙った。


義重は老臣を見上げた。その目に、わずかに笑うような気配が差した。


「だからこそ行く。邪魔だと思うなら、そう思われるだけの場所なのだろう」


「若君は時々、こちらが言い返しにくいことを平気で仰せになりますな」


「言い返せぬのは、おまえが図星だと思っているからだ」


「その歳でその返しをなさるのは、少々可愛げが足りませぬ」


「可愛げで城は守れぬ」


「しかし、年寄りの胃には少々こたえます」


そんなやり取りをしているうちに、評定の間の障子が内から開いた。顔を出した近習が義重の姿を見つけた瞬間、あからさまに目を丸くする。


「わ、若君……」


「入る」


「い、いや、その、ただいまは――」


「入る」


今度は言い切った。


近習は助けを求めるように老臣を見る。老臣は肩をすくめただけだった。


「止まりますまい」


「止めろ」


「止まりませぬ」


「おまえは味方ではないのか」


「若君の味方にございますとも。ただし、若君の無茶を完全に止められるほど器用ではないだけにございます」


そう言って、老臣は障子の内側へ声をかけた。


「若君が参られました」


内側の空気が一瞬で変わったのが分かった。低く抑えられていた話し声がぴたりと止み、数人分の視線が障子へ集まる気配がする。歓迎ではない。戸惑いと、軽い面倒臭さと、さてどう扱うべきかという迷いが混じった沈黙だ。


義重はその沈黙が少し好きだった。


誰かを困らせること自体が好きなのではない。ただ、自分がそこに現れることで、大人たちの顔が少しだけ本音に近づく。その瞬間を見るのが好きなのだ。


義重はためらわず、障子の内へ入った。


評定の間は朝の光を浅く受け、畳の上に斜めの明るさを落としていた。重臣たちが数人、座につき、中央には使者と思しき男が額に汗を浮かべたまま控えている。皆、一様に義重を見た。


年嵩の重臣のひとりが、いかにも穏やかそうな顔を作って言う。


「若君。本日は少々込み入った話にございます。どうか別室にて――」


「ここで聞く」


義重は言って、そのまま上座から少し外れた隅へ歩いていった。誰の許しも待たず、きちんと座る。邪魔にならぬ位置だが、退けとも言いにくい位置である。


場が妙にざわついた。


「若君、評定は遊びではございませぬぞ」


別の重臣が眉をひそめる。義重はそちらを見もせずに答えた。


「遊びだと思っていない」


「では、なぜ」


「城の話だからだ」


たったそれだけの返しだった。だが、言われた重臣はわずかに言葉に詰まった。


幼い声だ。高く、まだ少年の声ですらない。なのに、不思議と軽く聞き流せない響きがある。幼さを理由に退けようとすると、自分の方が逃げたような形になる。そんな言い方を、義重はもう覚え始めていた。


老臣は義重の少し後ろへ控えた。完全に庇う位置ではない。かといって放り出すでもない。誰かが強く退去を求めれば、いつでも前に出られる位置だ。


その立ち方を見て、古参の重臣がひとり、目を細めた。


若君を守るつもりはある。

だが、退かせるつもりはない。


そういう立ち方だった。


評定の場には、妙な緊張が落ちたままになる。


義重は黙っていた。ただ黙ってそこにいるだけなのに、皆がいつも通りに話し始められない。使者は若君の前で話してよいものか迷い、重臣たちは子どもに聞かせたくないような顔をしつつ、かといって若君の前で露骨に隠し立てもできぬ。


その落ち着かなさが、義重にはよく分かった。


自分が子どもだからだ。

そして、子どもだと思っている相手が、思ったほど何も知らぬ顔をしていないからだ。


やがて、家中でもっとも年長に近い重臣が、腹を括ったように息をついた。


「……よろしい。若君にはお聞かせ申し上げよう。ただし、口はお慎みくださいませ」


義重は小さくうなずいた。


重臣は使者へ向き直る。


「改めて申せ。境にて何が起きた」


使者は深々と頭を下げ、喉を湿らせるように一度息を飲み込んだ。


「はっ。今朝方、境目の村より早馬が参りましてございます。昨夜、村外れにて見慣れぬ兵の姿を見た者があり、さらに……こちらに通じる者が一人、戻らぬとのこと」


「名は」


使者が名を告げた。


その瞬間だった。


義重の視線が、すうっと部屋の中を動く。


真正面の重臣が、わずかに眉をひそめた。

左手に座る男が、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

別の男は反応を隠すように咳払いした。

老臣は動かない。最初から織り込んでいたような無表情でいる。


義重はそのひとつひとつを見ていた。


失踪した者の名は、ただの名前ではないらしい。少なくとも、この場にいる何人かにとっては。


「戻らぬとは、いつからだ」


「昨夜よりにございます。元は境の様子を探らせるため密かに出した者にて、夜半には戻る手筈なりしと……」


「手筈」


ひとりの重臣がその言葉を拾った。


「手筈、か。ならばその者の行路を知るのは限られるな」


使者は気まずそうに頭を下げた。


「……は」


すると別の重臣が、少し強い口調で言った。


「だが、まだ消えたと決まったわけではあるまい。夜道に難渋したやもしれぬ。あるいは潜んで戻りの機を待っているのかもしれぬ」


「境に兵が見えたという報せと同じ夜に、か」


「偶然はある」


「乱世において都合のよい偶然ばかり信じるのは愚かだ」


低い声で、部屋の空気がささくれ立つ。


義重はその応酬を見ながら思った。


皆、同じ話を聞いているのに、向いている方が少しずつ違う。


誰かは「外の敵」を見ている。

誰かは「失踪者そのもの」を見ている。

誰かは「その話を誰がどう利用するか」を見ている。

同じ場に座っているのに、見ている戦が違うのだ。


それが義重には新鮮だった。


戦とは、槍がぶつかり、馬が駆け、血が流れるものだと思っていた。もちろんそれも戦なのだろう。だが、今この場にあるものもまた、戦だった。声を荒げる前から、言葉を選ぶ時点でもう斬り合いは始まっている。


義重は、ほんの少しぞくりとした。


面白い、とは違う。

怖い、とも違う。

ただ、知らなかったものを覗いた時の冷たさが背を走ったのだ。


「その者が向かった先、また戻る道筋はどうなっておる」


年長の重臣が問う。使者が答える。


「表道ではなく、裏手の道を使う手筈にございました」


「裏手?」


「は。沢沿いを抜け、林を越え、城の北手へ回る筋にございます」


その場の空気がまた変わった。


義重にも分かった。今の言葉は重い。


表の街道なら、ある程度誰でも知っている。だが沢沿いから北手へ回る裏道など、城に関わる者、しかもある程度内情を知る者でなければ知らぬ。使者が名を告げた時より、今の方が重臣たちの顔は明らかに硬くなった。


「誰がその筋を指図した」


問いは静かだったが、部屋の温度が一つ下がったように感じられた。


使者は額に汗をにじませる。


「そ、それは……」


「申せ」


「……具体のお名は」


そこで別の重臣がすかさず口を挟んだ。


「待たれよ。まだ内の者が漏らしたと決まったわけではない。たまたま件の者が独断で近道を取ったやもしれぬ」


言い方は理に適っていた。完全な庇い立てとも言い切れない。だが、義重の目には、その男の言葉が早すぎるように見えた。


まだ誰も「漏らした」とは言っていない。

なのに、その男は先回りして「内の者ではない」と言った。


義重はじっとその横顔を見る。


男は年の頃四十を少し越えたくらいか。髭は短く整えられ、表向きは温厚だ。けれど今、唇の端がほんのわずかに引きつっていた。


その時、義重の背後で老臣が、ごく微かに息を吐いた。


義重は視線を動かさぬまま、小さく言った。


「今、嘘をついた者がいる」


あまりに小さな声だった。けれど、近くにいた老臣には聞こえたらしい。横目で義重を見る。


「若君」


「誰とは言わぬ」


義重は前を向いたまま続けた。


「だが、いま、先に怖がった者がいる」


老臣は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。


一方、評定の場では話が進む。


「戻らぬ者が出た以上、ただの遅れでは済まぬ」


「境の警戒を増やすべきだ」


「いや、まずは内を洗うべきにございます」


「大事にすれば敵を利する」


「大事にしなければ、こちらが目隠ししているのと同じだ」


言葉が飛び交う。怒鳴り声にはならない。だが、怒鳴り合いよりよほど激しい。表向きは皆、佐竹家のためを思っている顔でいる。だからこそ厄介だ、と義重は思った。


誰が正しいのか、まだ分からない。

だが、誰もが同じ方向を向いてはいないことだけは、はっきりと分かる。


城の外に敵がいる。

それは分かりやすい。

槍を持ち、旗を掲げ、こちらへ来るからだ。


だが城の内にある敵は、敵の顔をしていない。家のためと言い、慎重と言い、軽率を戒め、もっともらしい理屈を並べる。しかも、全員が悪意だけで動いているとも限らない。恐れから口を濁す者もいれば、面倒を避けたい者もいるだろう。誰が嘘をつき、誰が見て見ぬふりをし、誰が本当に家を思っているのか――幼い義重にはまだ見極めきれない。


それでも、分からないまま目を逸らすのは嫌だった。


義重は、使者の顔を見た。男は疲れ切っている。泥に汚れた足袋、荒れた呼吸、強張った肩。今朝この城まで駆け込んできたのは、この男にとってもただならぬことだったのだろう。


「そなた」


義重が口を開くと、場がまたぴたりと静まった。


使者はぎょっとして平伏する。


「は、はっ」


「その者は、臆病な男か」


「……え?」


「消えた者だ。逃げるような男かと聞いている」


使者は戸惑った。重臣たちも若君が何を問うているのか測りかねないらしい。だが義重は構わず見つめる。


「どうだ」


使者は恐る恐る答えた。


「い、いえ。心得ある者にて……役目を捨てて逃げるような性では……」


「なら、戻れぬ理由がある」


義重はそれだけ言った。


ひどく単純な言葉だった。だが、部屋の中にいた何人かの表情が動いた。重臣たちは複雑に考えすぎていたのかもしれない。失踪した者の性質を問う、それだけで話の軸が少し変わる。


老臣が、今度はあえて皆に聞こえる声で補った。


「若君のお考え、理に適っておりますな。あの者が務めを放って消える性でなければ、戻れぬだけの事情ありと見るが自然」


年長の重臣がゆっくりとうなずいた。


「……うむ。戻らぬのではなく、戻れぬ。そう考えるべきか」


その一言で、場にあった曖昧な逃げ道がひとつ塞がれた。


さきほど「夜道に難渋したやもしれぬ」と言っていた重臣が、わずかに顔をしかめる。義重はその顔も見ていた。


しばしの沈黙の後、使者がさらに口を開いた。


「加えて、今朝、現場近くを改めた者どもが申すには……」


「何だ」


「その者が消えたのは、ただの夜道ではなく……」


使者はそこで一度息を整えた。評定の間にいる全員の視線が、自然と使者へ集まる。


「……佐竹家の内情を知る者しか通らぬ裏道筋にてございます」


今度こそ、誰もすぐには口を開かなかった。


まるで畳の下から冷たい水がしみ上がってきたような静けさだった。


城の北手へ回る沢沿いの筋。兵も商人も滅多に使わず、普段は城方の限られた者しか知らぬ。そこを、失踪した者は通っていた。そして、その場所で消えた。


偶然で片づけるには、出来すぎている。


義重は胸の奥がひやりとするのを感じた。


外に敵がいるだけなら、まだ分かりやすい。

だがこの一件は、もう明らかに外だけの話ではない。


誰かが道を知っていた。

誰かがその道を使わせた。

あるいは、誰かがその道で待っていた。


評定の場にいる重臣たちの顔は、それぞれに違う色を見せていた。


怒り。

警戒。

不信。

苛立ち。

そして、ほんのわずかに滲む焦り。


義重は、自分の両膝の上に置いた手をそっと握る。


城の中にも、見えぬ戦がある。


さっき抱いた感覚が、今度ははっきりと言葉になった。槍も刀も抜かれていない。血も流れていない。けれど、この場にはもう戦が始まっている。人の顔の裏で、声の調子の奥で、誰かが誰かを探り、隠し、守り、切り捨てようとしている。


そしてきっと、これから自分も、その戦の中に立たされる。


幼いから知らぬでは済まされない。

嫡子である以上、いつかは家の話が自分の話になる。

ならば、聞かぬふりなどしていられない。


年長の重臣が重く口を開いた。


「これは境目の小事では済まぬ。内へ通じる道にて人が消えたとなれば、家中に漏れがあると見ねばならぬ」


「だが、軽々しく疑えば家中が乱れる」


「乱れておらぬと言い切れるか」


「証が足りぬ」


「足りぬからこそ探るのだ」


また低い応酬が始まる。


けれど、さっきまでとは違った。今や誰も「夜道に手間取っただけかもしれぬ」とは言わない。場の中心が、明らかに“内”へ寄っている。


義重はその流れを見つめながら、胸の中で静かに思った。


面倒だ。

ひどく面倒だ。


だが、逃げるのはもっと嫌だ。


老臣が、ごく小さく声を落として言う。


「若君。もう十分お聞きになりましたかな」


義重は首を横に振った。


「まだだ」


「胃が痛くなる話ばかりにございますぞ」


「おまえのか」


「主にわしの」


義重は少しだけ口元を緩めた。


そのほんの小さな表情の変化を見て、老臣もまた、困ったように目を細める。こういう時に笑えるのは、肝が据わっているのか、単に変わっているのか。おそらく両方だろう、とでも思っている顔だった。


評定の場ではなおも議が続いていたが、義重の中ではもう一つの確信が形になりつつあった。


城の外を守る前に、城の中を見ねばならぬ。

旗の色で分かる敵より、同じ色の顔をしている者の方がずっと厄介だ。


それは幼い若君にとって、あまりに早い学びだったかもしれない。だが常陸は、子どもが子どものままでいられるほど甘い土地ではない。豊かであるがゆえに狙われ、名門であるがゆえに嫉まれ、誰もが生き残りの理屈を胸に抱えている。


評定の間の障子の向こうから、朝の光が少しだけ強く差し込んだ。


城下では、市が開き、人々が今日を生き始めているだろう。味噌を売る者も、川魚を並べる者も、荷を担ぐ者も、城で今こんな話が交わされていることなど知らぬままに。


義重はそのことを思った。


自分たちがここでしくじれば、困るのはあの者たちだ。


それだけは、なぜかはっきり分かった。


評定の声はなお続く。

境の不穏。

消えた者。

裏道筋。

内にある火。


幼い義重は、その朝初めて、本当の意味で「家の話」を他人事ではなく受け取った。


それはまだ、鬼とは程遠い少年の目覚めだった。

だが、後に“鬼義重”と呼ばれる男の、最初の一歩でもあった。

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