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戦国異聞伝『鬼義重、常陸を喰らう ――坂東最凶と呼ばれた男の戦国一代記――』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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プロローグ 坂東に、鬼はまだいない

春まだ浅い常陸の朝は、白い。


夜の冷えを引きずったまま、久慈川の流れに霧が立つ。川向こうの田はまだ色を持たず、湿った土の匂いだけが、じっと季節の来るのを待っている。遠くの山は薄く煙り、城下の屋根は朝露に濡れ、どこかの農家から焚き火の匂いが流れてきた。


戦国の世にあっても、朝は静かに始まる。


だが、その静けさは、平穏とは違う。


常陸は豊かな国だった。山があり、川があり、海がある。米が実り、馬が育ち、魚が揚がり、人が集まる。鹿島の神威を仰ぎ、古くからの名門が根を張り、都から遠いがゆえに、誰にも簡単には従わぬ意地があった。


それゆえに、争いもまた尽きない。


一つの城が立てば、それを妬む者がいた。

一つの村が実れば、それを奪おうとする者がいた。

一つの家が栄えれば、それを引きずり落とそうとする者がいた。


豊かであることは、守るべきものが多いということだ。

守るべきものが多ければ、刃を抜く理由もまた増える。


まだ朝靄の残る頃、太田の城内をひとりの少年が歩いていた。


年の頃は十にも届かぬ。まだ幼さの残る顔立ちだが、足取りには妙な迷いのなさがある。供もつけず、廊下を曲がり、土塀沿いの細道を抜け、裏手の見張り台へ向かう。小袖の裾には朝露が触れたが、本人は気にも留めなかった。


佐竹義重。


のちに“鬼義重”と呼ばれることになる男である――と、後の世なら簡単に言うのだろう。だがこの時の彼は、まだただの少年でしかなかった。背丈も足りず、声も高く、家臣に混じれば誰の子かと見紛うほどである。


もっとも、その目だけは、年相応ではなかった。


見張り台の脇に、老臣がひとり立っていた。白髪交じりの男で、鎧ではなく日常の装いだが、背筋は槍のようにまっすぐだ。少年の姿を見ると、いささか眉を寄せる。


「また一人で参られたか」


「また怒るのか」


「怒りもいたします。若君に何かあれば、わしらの首がいくつあっても足りませぬ」


「足りぬなら増やせばいい」


「増えませぬ」


老臣は即答した。少年は少しだけ口元を緩める。笑った、というほどではない。だが、からかいが通じたことは分かった。


「なら、見張っていればいいだろう」


「見張っております。若君が勝手に歩き回るのを、毎朝な」


少年――義重は、見張り台の縁に手をかけ、城下の方へ目を向けた。


朝の市が立ち始めている。まだ人影はまばらだ。荷を担いだ女、桶を転がす少年、馬を引く男。城の下で営まれる暮らしは、戦の気配から遠いようでいて、実のところ一番近い。城が負ければ、最初に泣くのはあの者たちだ。城が焼ければ、家を失うのはあの者たちだ。殿が愚かなら、税に苦しむのはあの者たちだ。


義重は、そういうことを、誰に教わるでもなく妙によく見ていた。


「今朝は、向こうの村から年貢米が届くのだったな」


老臣が目を細めた。


「覚えておいででしたか」


「昨日、おまえが言っていた」


「家中の話を、きちんと聞いておられるのは良きことです」


「聞かねばならぬから聞いている」


少年は淡々と言う。


「城のことは、いずれ俺のことになる」


その言葉に、老臣は一瞬だけ黙った。


まだ幼い。だが、幼いからといって何も分からぬわけではない。名門・佐竹の嫡流として生まれた以上、この子は物心ついた時から「家」を背負わされている。何を食うか、誰と話すか、どこへ行くか、その一つ一つがいつか家中の意味を持つ。童の時間など、とうに削られ始めていた。


老臣は慎重に言葉を選んだ。


「若君」


「何だ」


「城も、国も、急に背負うものではありませぬ。今はまだ、見て、聞いて、覚えればよいのです」


義重はすぐには答えなかった。


霧の向こうで、川面が朝日を受けて白く光っている。水は黙って流れる。人が争おうが、城が落ちようが、雨が降れば増し、晴れれば澄む。常陸の川は、古くから変わらぬ顔で、幾つもの家の栄枯を見てきたのだろう。


「見て、聞いて、覚えたら」


やがて義重は言った。


「そのあとはどうする」


「決めるのです」


「何を」


「何を守り、何を斬るかを」


老臣の声音は静かだった。

それは脅しではなく、慰めでもない。

ただ、この国に生まれた武家の子へ向ける、あまりに当たり前の言葉だった。


義重は小さく息を吐いた。


その時、城下の方から馬の蹄の音が聞こえた。朝には速すぎる、急ぎの足だ。門の方で控えていた者たちの声が上がる。老臣の顔つきが変わった。先ほどまで孫を見るような目をしていた男が、たちまち戦場に立つ武士の目になる。


「使いか」


「そのようですな」


「どこからだ」


「さて」


だが、老臣はすでに半分察していた。


この頃の常陸に、穏やかな知らせなど滅多にない。誰かが境を荒らした、誰かが兵を動かした、誰かが密かに誓紙を交わした。そういう報せのどれかだろう。小さな火種はいずれ野を焼く。常陸とはそういう土地だった。


義重は見張り台を降りた。


「若君、お待ちを」


「行く」


「まだ評定の場では――」


「聞くだけだ」


言って、少年は振り返る。朝の光がその頬を細く照らした。まだあどけない。だが、その目の奥には、頑ななものがある。引けば済む場面でも引かぬ者の目だった。


「俺が知らぬところで、俺の城の話をするな」


老臣は、思わず口をつぐんだ。


その言い方は子どもらしくない。だが、傲慢とも少し違った。自分のものだと言いたいのではない。自分が背負うものなら、自分の耳で聞きたい――ただそれだけの、不器用な責任感だった。


「……まこと、難しいお子だ」


「何か言ったか」


「いえ。若君は朝飯を召し上がるべきかと思うたまで」


「あとで食う」


「そうしてまた冷めた飯を嫌な顔もせずに召し上がる」


「嫌な顔はしている」


「されておりませぬ」


二人は早足で廊下を進む。曲がり角ごとに、城仕えの者たちがぎょっとして道を開けた。若君がこんな朝早く、供もなく、険しい顔で歩いていれば当然である。


途中、台所のあたりから味噌の香りがした。大鍋で汁が煮えている。焼き魚の匂いも混じる。川魚だろうか、それとも海から届いたものか。常陸の朝は豊かだ。山のもの、川のもの、海のものが同じ膳に並ぶ。それらを当たり前に並べるために、どれだけ多くの者が汗を流しているのか、義重は最近ようやく知り始めていた。


ふと、足を止める。


中庭の向こうに、若い下働きの娘が一人、桶を抱えて立ち尽くしていた。慌てて頭を下げた拍子に、桶の水をこぼしたらしい。回廊の板が濡れ、朝日を受けてきらきらと光っている。傍らの年嵩の女がきつい声で叱っていた。


「何をしてるんだい、ぼんやりして! 若君がお通りになるところだよ!」


娘は青ざめて、さらに頭を下げようとして、また足元を滑らせかけた。


義重は少しだけ眉をひそめる。


「そこで転べば、もっと怒られるぞ」


娘は顔を上げ、ぽかんとした。叱っていた女の方は真っ青になって平伏する。


「も、申し訳ございませぬ若君! この者、まだ不慣れで――」


「濡れたままでは誰でも滑る」


義重はそれだけ言うと、老臣の方を見た。


「布はあるか」


「……ありますが」


「拭けばいいだろう」


老臣は一拍置き、それから小さく笑って懐から手拭いを取り出した。少年が自分で取るより先に、近くの小者へ放る。


「ほれ、急げ。若君のお言葉だ」


叱られていた娘は、慌てて何度も頭を下げた。義重はもう見ていない。興味を失ったように歩き出す。


老臣が隣に並ぶ。


「お優しいことで」


「優しくない」


「では」


「濡れていると危ない」


「左様で」


「怒鳴るより、拭いた方が早い」


老臣は、今度ははっきり笑った。


「若君は、理屈がまっすぐに過ぎますな」


「悪いか」


「いずれそれで、たくさんの者が困りましょう」


「おまえもか」


「真っ先に」


義重は、ようやく少しだけ笑った。


この頃の彼を知る者は、まだ誰も思っていない。

この無愛想で理屈っぽい少年が、やがて戦場で敵の肝を冷やし、味方にすら“鬼”と囁かれるようになるとは。


だが、鬼はある日いきなり鬼になるのではない。


守るべきものを知った子が、

奪われる現実を知り、

ためらいの代償を知り、

何度も何度も選び続けた先に、

人はようやく鬼になる。


評定の間に近づくにつれ、空気が張り詰めていく。戸の向こうには、すでに数人の重臣が集まっているらしい。低い声が交わされ、紙が擦れる音がし、誰かが吐いた短い息に、場の重さが滲む。


使者は泥を跳ね上げた足袋のまま控えていた。よほど急いできたのだろう。顔色は悪く、額には汗がにじんでいる。


若君の姿を見た瞬間、そこにいた者たちの視線が一斉に集まった。驚き、戸惑い、そして、どう扱うべきかという一瞬の迷い。


まだ幼い。

だが、追い返して済む顔ではない。


義重は、その視線を真正面から受け止めた。


「話せ」


誰かが「若君」と止めようとしたが、遅い。


使者は喉を鳴らし、それでも頭を下げた。


「境にて、不穏の動きありとのことにございます。村境で兵の姿を見た者がおり、さらに――」


そこで言葉が詰まる。


義重は急かさない。ただ待つ。


「……昨夜、こちらに通じる者が、ひとり消えたと」


部屋の空気が、一段重くなった。


裏切りか。拉致か。討たれたか。まだ分からぬ。だが、いずれにせよ穏やかな話ではない。誰かが小さく舌打ちし、別の誰かが腕を組む。老臣の目はすでに遠くを測っていた。


義重はその場の誰よりも小さかった。

だが、その沈黙だけは不思議と軽くなかった。


「消えた者の名は」


使者が名を告げる。家臣の一人が顔をしかめた。別の者は何も言わず視線を逸らす。そこにある微かな反応の差を、義重は見逃さなかった。


城の中にいても、もう戦は始まっている。


誰が何を知り、

誰が何を隠し、

誰がどちらを向いているか。


刃を合わせる前から、戦は人の顔の中にある。


少年は静かに思った。

面倒だ、と。


だが、同時に、目を逸らしてはならぬとも思った。


この国を守るというのは、敵を討つことだけではない。城の中で嘘を見抜き、味方の中の弱さを知り、泣く者が出る前に動くことだ。それは武芸よりも、よほど厄介で、よほど汚れる仕事かもしれなかった。


それでも。


義重は、開け放たれた障子の向こうに、春の光を見た。

遠い川。

山の影。

田に張られる水。

城下に立つ朝市。

味噌の匂い。

潮を含んだ風。


守るべきものは、思っていたよりずっと具体的だ。

名門だの威信だのという言葉の前に、失えば二度と戻らぬ暮らしがある。


その時、まだ十にも満たぬ少年は、胸の奥に生まれた小さな熱を確かに感じていた。


怒りに似ている。

悔しさにも似ている。

だが、もっと固い。


誰にも好きにさせぬ。

この城も、この川も、この土地も。


それはまだ幼い誓いだった。

青く、荒く、危うい誓いだ。

けれど人の一生は、案外そういうものから始まる。


後の世は、この男を鬼と呼ぶ。

その名は畏れとともに語られ、敵に震えを与え、味方にすら息を呑ませる。


だが、この朝の義重はまだ鬼ではない。


ただ、常陸の空の下で、

守るべきものの重さを知り始めた、ひとりの少年であった。


そしてその小さな肩に、やがて坂東の血と火が、容赦なく降りかかってくる。


常陸は豊かな国だ。

だからこそ、争いは深い。

都から遠い。

だからこそ、人は膝を折らない。


これは、そんな土地で生まれた男の物語。


名門の子として育ち、

戦の中で牙を研ぎ、

守るために苛烈となり、

やがて“鬼義重”と呼ばれるに至る、佐竹義重一代記。


春の霧は、まだ晴れきらない。

だが、坂東の風はもう動き始めていた。

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