3-13
異世界に来て16日目。
野営地を出発してしばらくしていると、道中、歩いている人や馬車、荷馬車が目立って来た。
「ねぇラシード。デルナダの城壁が見えてからだいぶ経つけど、いつ着くの?」
「……」
「ラシード?」
「あぁ、すみません。主に名前で呼ばれる幸せを噛み締めておりました」
「え?大丈夫?」
アルさんは定位置で笑いを噛み殺している。
昨日からこんな調子なんだよね。
なんだかなー。
昨日、彼を正式に雇うということになって、困ったことが起こった。
そう――名前である。
聞くタイミングを逃していたということもあったけど、デルナダでお別れするという前提だったので、あえて訊かない方向でいたのだ。
けれども、これからはそうもいかない。
「さすがに”キミ”はマズいよね」
「主がそれでよろしいのであれば、私は構いませんが」
いやいやいや。
キミって名前ならまだしも、自分の名前だよ。
ダメに決まってるじゃん。
なんでも聞いてみれば、
「名前は奴隷に落ちた時点でなくなっておりますので」
と、とんでもないことをサラリと言ってのけた。
アルさんに目で確認すると静かに頷く。
だったら今までどう呼ばれていたのかと訊けば、「おい」「お前」「そこの」と言った呼ばれ方だったらしい。
そういえば。
アルさんも途中「こいつ」って言ってたな。
――マジか。
「だったら君が名付けるといい」
「私が、ですか?」
「奴隷の呼び方は主が決めるものだ」
「それじゃぁ元の自分の名前の方が良くないですか?」
ほら。
名前は両親からの最初の贈り物っていうじゃない?
友達なんか、めちゃくちゃ頑張って考えていたよ?
「ご安心ください、主。あんな名前に、未練など全くありませんから」
安心できるかバカ者。
そんなに嫌な名前だったの?
「――出過ぎた願いかもしれませんが、どのようなものでも構いません。主から付けていただけるのであれば、私にとってはこの上ない喜びです」
お、おぅ。
そんなこと言われたら付けざるを得ないじゃないか。
ネーミングセンスは全くないんだけどなぁ。
さて……どうしたものか。
そんなこんなで、無い知恵を絞りに絞って漸く出した名前が、
「ラシード」
確か『賢い』とか『正しく導く』とかそんな意味だったような気がする。
そう伝えると、彼――改めラシードが胸に手を当て、言葉なく震えていた。
「……気に入らなかった?」
「――いえ……とても、良い名前ですね」
ラシード、ラシード……
彼は涙目で、けれど、嬉しそうに何度も何度も新しい名前を呟いていた。
名前ということでもう一つ。
そう、お気づきだろうか。
実は私――竜賢さん以外、未だ誰にも名乗っていないのである。
しかも、竜賢さんからは「主」、ラシードからは「主」、アルさんからは「キミ」と、名前を聞かれたことも、ましてや呼ばれたことなど一度もないのである。
幸い、今まで何の問題もなくこれたけど、さすがにこれはおかしくないだろうか?
あれ?そう言えば――
「ねぇ、聞いてもいいかな?」
「はい、何でしょう」
「一昨日、アルさんに名乗ろうとしたらラシードが必死になって止めていたよね。あれはなんで?」
あの後も、なんとなく訊く機会がなかったんだよね。
そんな私の素朴な疑問に、2人の動きがピタリと止まる。
そして、何故か驚愕に満ちた眼差しを向けてくる。
ラシードは、
「――主、本気で仰っていますか?」
「うん」
なんて言うし、アルさんも、
「じーさんから何も聞いてないのか?」
「何を?」
え?私、そんなに変なこと聞いた?
てゆーか、聞くわけないじゃん。
相手は500年近く引き籠っていた竜賢さんだよ?
そんなこと教えてくれるわけがない。
――と、声を大にして言いたい。
……何だろう。
ラシードがもの凄く絶望的な顔をして天を仰ぎ、アルさんは私に向かって「ほら、お前が変なこと言うから……」みたいな盛大なため息を吐く。
仕舞いには、アルさんがラシードに、
「――お前、今、本気で後悔してるだろう」
「……言わないでください」
とか言い出すし……
解せぬ。
なんとか気を取り直した、というか立て直したラシードが、こめかみを押さえながら、
「――あのですね。女性は軽々しく自分の名前を男に呼ばせないものです」
「なんで?」
「女性の名を呼ぶことが許されるのは身内だけなので」
ふ~ん。昔の日本もそんな感じじゃなかったっけ?
確か、幼名とか官職とかを使い分けていた――って、有名な歴史研究家が講演で言っていた。
「違います」
「え?違うの?」
言葉を濁してこの世界とは違う、日本の文化を伝えたら即否定されてしまった。
「おそらくですが、それは便宜上や身分、立場上で使い分けていたのではないでしょうか?」
――確かに。
「ラシード」
「なんですか」
必死に笑いを噛み殺しながらアルさんがラシードを呼べば、彼はムッとした顔を隠しもせずに向ける。
「主人以外に名前を呼ばれたくないのは分かるが、もう少し自重しろ。それと、お前の主は、はっきり言わないと伝わらない」
「そうでした」
――うん。いや、そうなんだけどさ。
本人を目の前にして、キミタチ、もうちょっとオブラートに包もうか?
それとラシード、即答はやめて。
地味に傷つくから。
「いいですか、主。女性――この場合主が、ご自分のお名前を私達に教えること自体に問題はないんです。問題なのは、主の名を私達に呼ばせようとしていることなんです」
「と、いうと?」
「主は出会って数日しか経っていない男性を『夫』にするおつもりですか?」
「いやぁ、さすがにそれはないかな」
やっぱり、最低3ヶ月はお付き合いをして、それから3ヶ月は同棲。
婚約期間も半年は欲しいし、結婚するなら最短1年後かな?
――あくまで妄想上だけど。
「それを聞いて安心しました。ですが主は先程から、主のお気持ちとは関係なく私達を『夫』にしようとしていたんです」
「――は?」
ちょいとお待ちよ、ラシードさんや。
わたしゃそんなこと、一言も言ってないんだが。
ラシードからの問題提起をアルさんが、実に面白そうに補足してくれる。
「じーさんから何も聞いていないなら無理もない。この国に限らず、この世界ではな。女が男に自分の名を呼ぶ許可を与える、そのことを『求婚』と言うんだ」
「俺は構わないけどな」と、現実逃避中の私にはアルさんの声が遠く聞こえる。
きゅうこん……?
黄色いチューリップや白い水仙を咲かせる球根ではない。
うん、分かってる。分かってるよ。もう一つの方だよね。
それってつまり……
「……逆プロポーズ?」
「はい」
ラシードが頷く。
「誰が?」
「主が」
「誰に?」
「アル様と私に、です」
「…………」
うそやんっ!!




