その17
凌順が〝ひゅん〟と〝なぎー〟に案内されて入った部屋の奥は全面がガラス張りになっていた。
そのガラスの向こうで起きたこと、自分のその目で見たことを凌順は頭の中で反芻する。
ガラス越しの隣室には何本もの電気ケーブルをつながれてぼんやりと光を放つ巨大な結晶塊があった。
鉱物結晶といえば理科室の標本くらいしか知らない凌順にとって、大型トラックほどの大きさがある結晶はまるで化け物のように見えた。
その大きさに目を奪われていると、全身を仰々しい防護服に包んだふたりの作業員がストレッチャーを押して現れた。
防護服の頭部には耳を収めるふたつの膨らみが、お尻からは尾を収めている袋がだらりと垂れていることから、着用しているのが猫人であることが見て取れる。
そんな猫人の作業員が押しているストレッチャーに乗っているのは一匹の猫。
猫は薬剤を投与されているかのようにぐったりと動かない。
ただ、爛々と輝く目と立った耳、そして、落ち着きなく左右にパタパタと揺れる尾の様子から警戒していることだけはわかる。
ひとりの作業員がその猫を抱え上げ、結晶塊の前に設えられた台座に下ろす。
なにが始まるのかと見つめる凌順の前で猫の身体が変化を始める。
サイズとシルエットがヒトのように、猫から猫人へと変わっていく。
その変化が終わったところで作業員がストレッチャー上にたたんであったガウンをばさとひろげて台座の猫人に着せる。
そして、ふたりがかりで猫人を台座からストレッチャーへ移して寝かせると別の扉から出ていった。
「驚いたか?」
〝ひゅん〟の言葉に我に帰った凌順は〝ひゅん〟とガラス越しに淡い光を放ち続けている結晶塊を見比べる。
「なにがどうなってああなるんだ」
「原理などしらん。だから言っただろ。この世界を作っているのは魔法だと」
そう言われては納得するしかない。
「王女様が作ったあの結晶塊は電気刺激で進化を促す光を発する。このガラスは遮光機能があってこっちの部屋には影響はないから心配するな。そして、連れてこられたのは見ての通り猫だ。凌順と同じ世界から迷い込んできた」
「迷い込んできた?」
最初に作業員がストレッチャーを押して入ってきた扉を〝ひゅん〟が指さす。
「あの扉の向こうにこの世界と凌順がいた世界をつなぐ穴が開いてるんだよ。私たちはキャットウオークと呼んでいるが」
「つながっている穴っ」
凌順が思わず声を上げる。
ということはそこを通れば元の世界へ帰れる?
しかし、その思惑を知ってか知らずか〝ひゅん〟が淡々と答える。
「ああ、穴だ。直径十五センチほどで構造はわからないが一方通行のな」
あっさり帰還経路にはなりえないことが告げられた凌順は――
「ちぇっ」
――がっくりと頭を垂れる。
そんな凌順に構わず〝ひゅん〟は解説を続ける。
「そうやって迷い込んできた猫を明度調整した発光結晶体からの光に規定時間さらすことで、猫は猫人になる。もっとも、記憶こそ継続しているが見た目通りまったく別の生き物と言っていい。この世界に固有の生物へ猫が転生した姿――それが猫人だ」
そこへ警報と構内放送が鳴り響く。
「施設内にロクデナシが侵入、ロクデナシが侵入。警戒してください。警戒してください。施設内にロクデナシが侵入。警戒してください。局員はただちに近くの部屋へ退避して施錠してください」
「〝ひゅん〟局長っ」
〝なぎー〟が慌てる。
「ロクデナシが? バカな」
〝ひゅん〟が様子を見に行こうとしたのか施錠しようとしたのか、部屋の入口へと走る。
そのあとを凌順と〝なぎー〟が続こうとした瞬間、不意に扉が開く。
廊下からのものものしい足音と声に追い立てられて駆け込んできたのはひとりの女子高生――ロクデナシだった。
凌順はその小柄な姿に見覚えがある。
それどころか、その名を知っている。
図書室の前で凌順の手から寿司の入ったコンビニ袋をかすめとった盗癖の〝れま〟。
思わずつぶやく。
「こいつも霧を越えてきてたのか」
〝れま〟は押し寄せてくる猫人たちの圧に押されるように凌順に向かってくるが、自分の前に立ちはだかっている茶トラの猫人が寿司をかすめとった相手であることには気付いていない。
一方の凌順は向かってくる〝れま〟に衝撃波を構える。
しかし、もし撃ち損じて命中させられなかったら、あるいは〝れま〟が避けたら――向かってくる〝れま〟の向こうから押し寄せる猫人に当たるリスクを考えて撃つことができない。
その猫人の中に黒猫の〝うず〟と〝うず〟に寄り添い、耳打ちしている小柄なぶち猫が見えた。
〝れま〟は図書室の前で寿司十二巻を掠め取った時を思わせるような目にも止まらぬ速さで凌順のかたわらを走り抜けると、行き止まりで結晶塊のある隣室と隔てるガラス壁に肩から激突し跳ね返される。
その戸惑った表情から追い詰められて、あるいはガラスの存在に気付かず激突したのではなく、ガラスを押し破るつもりだったことが見て取れる。
それに失敗した〝れま〟だが、諦めることなくガラス壁に拳を叩きつける。
さらにスカートをたくし上げて蹴り破ろうと前蹴りを繰り出す。
その後ろ姿を見ながら凌順は〝今なら〟と衝撃波を構える。
目的は動きを止めること、狙うのはその足元。
この距離で撃てば殺すこともできるかもしれない。
とはいえ、それには抵抗があった。ロクデナシに情を抱いたわけではなく、生殺与奪を決めるのはこの建物を管理している〝ひゅん〟局長であって自分ではないと思ったから。
そんな凌順が満を持して狙いすました衝撃波を放つ。
だが! しかし!
同時に〝れま〟がガラス壁に沿ってその場を離れた。
〝れま〟の立っていた位置に着弾した衝撃波がガラス壁にヒビ割れを走らせる。
〝れま〟が動いたのは衝撃波が見えていたわけではない、飛来する衝撃波を回避しようとしたわけではない。
偶然にもガラスを破ることを諦めて執った〝次の行動〟と同じタイミングだったに過ぎない。
その〝次の行動〟とは〝れま〟を追って部屋へ駆け込んできた猫人たちからひとり離れて〝れま〟を見ている〝なぎー〟を人質にとることだった。
「〝なぎー〟っ」
叫ぶ〝ひゅん〟の前で〝なぎー〟を盾にした〝れま〟がガラス壁に自身の背中を押し付ける。
そして、猫人たちに告げる。
「オマエら、そこどくし。道を空けるし」
そこへ声を上げたのは――
「局長っ」
――遠巻きに見ている猫人の中にいる隻眼の黒猫〝うず〟。
室内の全員からの視線を集めた〝うず〟が凌順を指さす。
「そいつがロクデナシを誘導したのではありませんの?」
「な……っ」
身に覚えのない告発に絶句した凌順が否定しようとするより早く口を開いたのは他ならぬ〝れま〟。
「おいちょっと待つし。ここへは黒猫のオマエが連れてきたんだし? ここから出ることができたら欲しいものをなんでも出してやるって話をなかったことにするつもりだし? 〝れま〟が暴れて局長とやらをクビにするのが目的って言ってたし?」
その一息で放たれた告発に〝うず〟が慌てる。
「な、なにを言ってるのかしらっ」
そして、ひとりごちる。
「まさかここまでバカだったとは」
その時〝れま〟は気付いた。〝なぎー〟の胸元で揺れる勾玉の存在に。
「これは確か……」
これを〝うず〟が使っていたシーンを思い出した〝れま〟は〝なぎー〟のヒスイを奪ってささやきかける。
「なにかぶっ叩く物がほしいし。えーと、そーだ、トンカチみたいなの、でかいやつ。出すし。急ぐし」
ヒスイが発光して巨大なハンマーを出現させる。
〝なぎー〟を突き飛ばした〝れま〟がそれを掴んでガラス壁に叩きつける。
しかし、割れない。
ヒビはおろか傷ひとつすらつけられない。
そこへどこからか男の声が飛んでくる。
「さっきヒビが入った所なら割れるはずだ」
それを聞いた〝れま〟はハンマーをぐるぐると振り回しながら凌順の衝撃波で入ったヒビへと走る。
そして、ヒビの入っている一画をハンマーで叩く。
ガラス壁が割れた。
〝れま〟がそこから結晶体室へと転がり込むのと同時にがらがらと下りてきたシャッターがガラス壁を覆ってふたつの部屋を隔離する。
猫人たちがシャッターに駆け寄る中で〝ひゅん〟は――
「非常シャッターだ」
――壁の制御盤を開いて操作パネルに指を這わせる。
その間、凌順は〝なぎー〟に駆け寄り声を掛ける。
「大丈夫?」
「はい。でも――」
まだ震えている〝なぎー〟の胸元からヒスイが消えていた。
「――盗られました」
改めて凌順は〝れま〟の二つ名を思い出す。
「盗癖の〝れま〟……か」
その時、壁の上部で点灯していた〝照射中〟の表示が消灯してアナウンスが流れた。
「発光結晶体への電源供給を停止しました。非常シャッターの手動開放が可能です」
〝ひゅん〟が結晶体への電源遮断に続けて操作盤のブレーカーを倒すとシャッターがきりきりときしんだ音をたてて上がっていく。
開いたシャッターの下で〝れま〟のハンマーが割った箇所から次々と結晶体室へと飛び込んでいく猫人たちにつられるように凌順も続く。
しかし、そこに〝れま〟の姿はなかった。
ケーブルにつながれた巨大な結晶塊にシャッターが降りる前の発光はなく、それだけで化け物のように見えた威容はまるで沈黙しているように、あるいは死んでいるようにすら見えた。
そんな結晶室に残されていたのはハンマーとぼんやりした光を放つ扉。
その扉が全員の見ている前で消えていく。
「転送ゲートか、使い捨ての」
吐き捨てるようにつぶやく〝ひゅん〟に〝なぎー〟がつぶやく。
「ヒスイのことを知ってたようです。私が盗られなければ……」
しょぼーん状態でうなだれる〝なぎー〟の頭を〝ひゅん〟が撫でる。
「気にするな。それよりあのロクデナシの一番近くにいた〝なぎー〟の記憶から再現したロクデナシの個体データーを自走捜索機に転送させて街中を捜査させよう」
そこへつぶやいたのは凌順。
「街にいるとは限らないんじゃないか? 霧の向こうへ帰ったのかも」
〝れま〟とは霧の向こう以来の付き合いである凌順にとって、それが最も自然な選択に思えた。
しかし〝ひゅん〟は――。
「それはない。転送ゲートは目的地までの直線ルートをシュリンクして途中の障害物をキャンセルする機能があるが、あの霧だけはキャンセルできないようになっている。わかりにくいだろうがあの霧は王女様の手によるもの。地形や転送ゲートを始めとするヒスイによる生成物とは存在の次元が違う」
存在する次元が違う――〝霧の中の魔女もそんなことを言っていたな〟と凌順は思い出す。
「つまり、霧は転送ゲートの機能を超越した存在だからクリアすることはできないと」
「ああ」
「局長」
頷く〝ひゅん〟に声を掛けたのは結晶塊を点検していた猫人のひとりだった。
「結晶体の一部に欠損が認められました。ロクデナシが飛び込んだ時にハンマーが接触したようです。機能面には問題なくこのまま運用再開できますが」
指さす先には確かに結晶の破片が散らばっていた。
〝ひゅん〟が指示を出す。
「キャットウオークに余裕があるはずだから急がなくていいだろう。運営には万全を期したい。再調整からやりなおそう」
「わかりました」
そこへ〝ひゅん〟と〝うず〟のポケットで同時にスマホが着信する。
短く会話を終わらせた〝ひゅん〟がスマホをポケットにしまいながら緊張した面持ちで〝なぎー〟と凌順を見る。
「〝らる〟様が小会議室でお待ちとのことだ」