その9
霧を出た?
きょろきょと見渡すそこは霧の中にできた気泡のような空間だった。
正面の霧をスクリーンのように、背の高い人影がゆらゆらと投影されていることに気付く。
凌順は無意識に芽衣を下がらせて前に出ると右腕を構える。
ふたりが息をのんで見つめる前で次第に実体化していったそれは、つば広の三角帽子に黒マント――オーソドックスな姿の魔女だった。
とはいえ、その身長は二メートルを超えている。
その魔女が静かに口を開く。
「この霧はロクデナシどもを隔離し封印するがための膜。何者であろうといかなる現象であろうと通さない。あらゆる因果を断ち切る隔壁。この霧の向こうへは通させぬ。引き返すがよい」
〝ロクデナシ〟ってのはあの女子高生たちか、確かにな――凌順が理解したのと同時だった。
「無理矢理でも通りますっ」
芽衣が叫んで伸ばした尾を振り回す。
その尾が魔女の身体を透過して空を切る。
魔女には実体がなかった。
「ならば永久に霧の中をさまよってもらおうかねえ」
魔女が指を鳴らす。
凌順が最初に気付いたのは芽衣の異変。
身長が伸びる、体型が変わる。
「やだ、ちょ……」
相対的に短くなったスカートの裾を慌てて引っ張る。
さらに変化は続く。
一転して背が低くなり、髪が白くなり、腰が曲がり始める。
ここに至って初めて凌順も自身の変化に気付く。
視界から明瞭さが失われ、芽衣の声も遠くなる。
広げてかざした自身の両手は骨張り、ぽつぽつと浮かんできた染みに覆われていく。
芽衣が崩れ落ちるように倒れた。
駆け寄ろうとする凌順だが、一歩踏み出したヒザに激痛が走り転倒する。
さらに転倒の衝撃で腰骨が砕けたようにその場で倒れ伏す。
起き上がることはおろか、身体に力を入れることすらできない。
ぐったりと横たわって朽ちていく老いた芽衣の姿が霞んで視界が白に染まる。
「理解したか?」
魔女のささやきを受けて我に帰った凌順は、明瞭な視覚と聴覚の中で自身の身体を確かめる。
ヒザや腰の痛みはなく、手指も元に戻っている。
となりでは同じように全身を撫で回して異常のない姿を確かめている芽衣がいる。
「いまのは……幻覚?」
つぶやく凌順に魔女がせせら笑う。
「私はこの世界を創造した全能の存在から霧の管理を任されている立場だからねえ。この霧の中に存在するすべてのものを支配しているのさ。オマエたちとは存在する次元が違うのさ」
凌順は魔女が持つ女子高生ども以上の能力に息をのんで立ち尽くす。
この魔女は次元違いの能力を持つだけではなく、それに加えて実体がないのだ。
そうなると凌順にも芽衣にも対抗できる手段はない。
絶望が思わず口から出た。
「こんなやばいやつがいるなんて……」
気付けば震えている凌順のとなりで芽衣が――
「え……と。これでいいかな」
――まるで空気が読めてない口調でタブレットに目を落としている。
そして、タブレットを魔女にかざして見せる。
「これでも?」
「……ん?」
魔女は目が悪いのか、表示されたものが信じられないのか、タブレットに顔を寄せて目を凝らせる。
そして――
「失礼しましたっ。お通りくださいっ」
――巨体がその場に土下座する。
「よしっ。行きましょう」
思わぬ展開にぽかん状態の凌順を芽衣が促す。
「なにやってんですか。さ、早く」
背を押されながら凌順は芽衣のタブレットに疑問を抱いていたことを思い出す。
なぜ女子高生たちのパーソナルデーターや学校の構内図が入っているのか、そもそもタブレットは誰の物なのか、それを芽衣はどうやって手に入れたのか、そして、なぜ魔女は土下座したのか……。
さらに思い出す。校舎内で芽衣が霧を攻略する手段はあると言っていたことを。
ということは芽衣は学校の関係情報だけでなく霧のことも知っていた?
一方で、最初に尾で攻撃したことから魔女に実体がないことは知らなかったようだが、それはそれでなぜ知らない?
そこまで考えた時、不意に周囲の霧が晴れた。
霧の向こう側に出た瞬間だった。