「“好き”の仮説と、実験のキス」
「じゃあ、さ。……試してみようよ」
澪が言った。
静かな図書室の窓辺。
夕陽が落ちかけて、二人だけの世界がオレンジ色に染まる。
「試す?」
「うん。“好き”かどうか、わかんないなら……試してみようって思ったの。
青羽くんが言ってた、“感情の実験”。ちょっとやってみたい」
「……どんな?」
「誰かに告白されたら、付き合ってみる。
誰かと手をつないだら、何か感じるか。
誰かにキスされたら、好きって思えるのか――」
言葉が、空気に溶けて消えそうになる。
「私さ、ずっと“好き”が怖かったの。
誰かを好きになったら、相手に応えなきゃいけない気がして。
でも、青羽くんといると……ちょっと違う気がするの」
「違うって?」
「“好き”じゃないけど、“嫌い”じゃない。
何考えてるか全部わかんないけど、話すと落ち着く。
もし明日から青羽くんが、他の誰かと付き合っても……私、きっと嫌だ」
それは、彼女の精一杯の「仮説」だった。
好きじゃない。でも、誰にも渡したくない。
触れたい。でも、触れられたら壊れそう。
「ねぇ、青羽くん……キスしてみる?」
そう言った澪の目は、真剣だった。
ふざけてなんかいなかった。
彼女は、“感情の実験”として、本当に確かめようとしていた。
「……いいの?」
「うん。……してみて、何も感じなかったら、また考える。
感じたら、その気持ちに名前をつけてみる」
少しの沈黙。
そして、僕は澪の目を見た。
ガラスのような、でも、奥に柔らかい温度がある瞳。
「……目、閉じないの?」
「だって、ちゃんと見てたい。
“どうなるか”って、知りたいじゃん」
その言葉が、あまりにも彼女らしくて。
僕は少しだけ笑って、そっと彼女の頬に手を伸ばした。
……そして、唇が、触れた。
ほんの一瞬。
音も、言葉もない世界の中で、
彼女のまつげが微かに震えた。
「……青羽くん」
「うん」
「今、心臓の音、ちょっと速いかも」
「……僕も、かも」
でも、それが“恋”なのか、“驚き”なのか、まだ分からない。
「この気持ちが、ただの実験結果でも、今は……それでいいかも」
そう言った澪の声が、いつもより少しだけ高かった。
僕は、その横顔を見つめながら、ふと思った。
(これが“好き”じゃないなら、
“好き”って、いったいどんな感情なんだろう)