「なにかを“守りたい”と思ったことがあるか」
昼休み、教室。
澪の机に、水がかけられていた。
筆箱の中は濡れ、シャープペンの芯はバラバラ。ノートはふやけて文字がにじんでいる。
その光景に、青羽の中で何かが切れた。
「……誰がやった」
静かな声だった。でも、それは怒りを抑えた声じゃない。
それは“感情”というより、“本能”だった。
「誰がやったんだって聞いてるんだよ!」
彼は立ち上がり、周囲を睨む。普段は無表情に近い彼の、はじめて見る表情にクラスが凍りつく。
女子の一人が小さく笑った。
「なに? あんた、“実験”の恋人のために怒ってるの? ウケるんだけど」
その言葉に、教室全体がざわついた。
──“実験の恋人”。
それは澪が、告白されたら付き合う“恋愛実験”をしているという、噂の一部だった。
真実かどうかよりも、「ラベル」がつくことで、彼女は消費されていた。
「……澪は、誰かを利用したりなんかしてない」
青羽の声が震える。
「誰かを大事に思うことを、どうして“実験”なんて呼ぶんだよ。
わからないなりに、ちゃんと向き合ってるのに……」
彼は、澪の濡れたノートを抱えて、叫ぶように言った。
「俺が、好きだって、そう言ったら──
それも“わからない”って言うんだろ?」
澪は、その背中を見て、
胸が苦しくなるのを感じた。
涙ではない。とても似ているけれど、どこか違う。
「自分のために誰かが怒ってくれた」という経験が、人生で初めてだった。
その夜──望月燈の家
燈は、自室で静かにキーボードを叩いていた。
彼女は密かに、校内の人間関係や出来事を観察し、“記録”として書き綴っている。
──それは、感情を整理するための作業でもあった。
「澪という存在は、青羽という曖昧な存在を輪郭づける。
だがそれは同時に、三条の“未完の恋”に火をつける。
誰かの“好意”は、他者にとって“呪い”にもなり得る」
彼女は知っていた。
人が感情を持つ限り、恋は常に“誰かを傷つける可能性”と隣り合わせだ。
そして──
燈は、青羽にほのかに抱き始めた自分の“感情”を、そっと打ち消す。
「誰かを守るって、
本当は、すごく、すごく……孤独なことなのかもしれないね」