4 戦い
アマンダは、自殺することを考えていた。
彼女の細い足は、幾度の痙攣と激痛に見舞われ、もはや感覚を失っていた。闇夜の暗黒に閉ざされた砦は地面すら見えなかった。アマンダはこの暗黒の砦に残されたった一人の人間だった。
彼女は塔の上からマーガレットが殺されるところを見ていた。彼女は八つ裂きにされ、全身を数多のオークにむさぼり食われ死んだ。
彼女は、アマンダにとって母親も同然の人物だった。
王女の出生は国民に隠された。そして2歳の時には王都を出て、国中を転々とした。
六歳のとき、彼女はパルパットに連れてこられた。そして、辺境伯の娘アマンダと取り換えられた。彼女も赤い頭髪を持っていたのだ。それからはずっと、彼女はアマンダとして育った。
辺境伯は彼女を自分の娘のように育てた。いつしか彼女自身も、アマンダと呼ばれることに何の違和感もなくしていた。すべてのことが始まる、三日前の朝までは。
今、アマンダは暗闇に一人だった。兵舎に潜んでいたあの人は今どこにいるのだろうか。彼は身振りでここに待つように言った。しかし、彼一人で、このオークの群れの中でなにができるのだろうか。
彼女はまた足の筋肉の奥に鈍痛を感じた。それは痙攣がやってくる前兆だった……そして何度目だろうか、右足のふくらはぎがまた痙攣を起こし始めた。彼女は息を殺して激痛を噛み殺した。
もはや彼女の中に、意志の力はもう殆ど残っていなかった。
もはや死んでしまおうか。彼女はそう思った。
彼女は身を乗り出し、暗闇の地面を覗き込んだ。段々と胃がせり上がり、息が苦しくなった。段々と思考に靄がかかり、もはや何も考えられなくなった。
死ねばすべてが解決する、そう彼女は思った。
城が襲われたあの日、彼女がすぐに死んでいれば、オークはこの城を襲うことを諦めたかもしれない。そうすれば城の人間は、誰も死なずに済んだのかもしれない。母親も死なずに済んだのかもしてない。
彼女はマーガレットの顔を思い出した。彼女は死ぬなといった。決してあきらめるなといった。
彼女はそのことえお多いだし、今一度決心した。まだ,死ねない。
彼女は、再び屋根瓦に身を預けた。その瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。彼女は涙をぬぐった。
その時、突如闇夜に閃光が走った。
西の城壁からいくつもの光が瞬いた。そして耳をつんざく爆発音が闇夜の城塞に響き渡った。それはこだまとなって谷間に幾度も幾度も反響した。
暗闇のどこかで、姿の見えぬ鳥が羽ばたいた。
これは、銃声だった。
やがて銃火の反響音が去ると、闇夜の底からオークたちの悲鳴とうめき声が聞こえてきた。
兵士たちの反撃が始まったのだ。
銃声が聞こえた瞬間、アイルは物陰から出て別邸に向かって走り出した。そして壁にとりつき、すばやく上へよじ登った。
一階では、オーク達が何やら騒いでいた。彼らは扉から外に出てきた。しかし、死角になったアイルには気づかなかった。
オークが去ると、アイルはさらに壁をよじ登り、窓にとりついて中に侵入した。
部屋の中では、灯篭の明かりのゆらぎのほかには動くものはなかった。
彼は奥の部屋に向かった。そしてま棚の奥に作られえた隠し階段を駆け上がった。
彼は最上階の小部屋にたどり着いた。彼が窓にむかって歩くと、部屋の中に人の気配がした。
彼はナイフを抜き振り向いた。
そこには、小人がいた。彼女は目を見開いてアイルを見ていた。彼女は手を後ろに縛られた、栗毛のくせ毛を持つ侍女だった。
アイルはそばにより、ナイフで素早く縄を切った。
「アマンダ様は、屋根の上にいます!」侍女は言った。アイルは窓を開き、屋根の庇にとりついた
アマンダは、自分の足元で窓が開く音を聞いた。そして、何かが這い上がってくる音が聞こえてきた。
下で蠢く何かが屋根の庇を何かの手がつかんだとき、暗闇の中で、それはオークの手に見えた。
彼女は逃げようとした。
彼女は頬で屋根瓦をこすりながら、すり足で窓から離れた。しかし、尖塔の他の面がどうなっているのか、彼女は知らなかった。
彼女は庇のとっかかりに脚を引っかけた。彼女はつんのめり、右足を前に突き出した。
その足が屋根の庇を踏み外した。
彼女の体が空中に投げ出された。
「いや!!!!!」彼女は叫んだ。
しかし次の瞬間、彼女は何者かに襟首を掴まれた。そして一気に体を引き上げられ、彼女は再び屋根瓦に身を押し付けられた。
アマンダは驚き悲鳴を漏らした。しかしその口を手ではふさがれた。掌ににじむ汗の塩気がアマンダの唇を濡らした。アマンダが見ると、彼女の顔の真正面で、男が唇に人差し指を立て、しーと口から息を漏らしていた。
男は細い女性的な首を持っていた。彼の首元から汗の匂いが漂ってきた。彼の長いまつげのしたの真っ青な目と、真正面から見つめ合った。
彼はゆっくりと口元から手を離して言った。
「あなたを助けに来ました」
男は縄の先の輪っかを塔の先端に引っ掛けた。そしてもう片方の端をアマンダの体を縄に結ぶと、小さな礫を2つ地面に落として合図した。すると、縄が少し緩んだ。
「ゆっくり縄に体重をかけて」男はいった。男の金髪が櫓の炎に金色に美しくきらめいていた。堀の深い顔にはたいまつに照らされて深い影がかかっていた。
彼女は言われたとおり縄に体重をかけた。そして宙に足を浮かせた。体を支えるものがなにもなくなっとき、彼女はパニックに陥った。心臓がせり上がり、体がうまく動かない。彼女は目を閉じひたすら時間がすぎるのを待った。暗黒の中で、どこか遠くから銃声と剣戟の音が響いてきた。彼女は首をせばめひたすら身を震わせた。やがて足元から何かの声と気配がして、目を開けたときにはすぐそこに地面があった。彼女は二人の男に介抱されていた。
「お嬢ちゃん、もう大丈夫だ。」濃いひげの体の大きい男が言った。北方人特有の彫りの深い顔と毛深い腕をしていた。もうひとりの男が手早く彼女の縄を解いていた。彼も背が高く痩せて尖った鼻をしていた。男は縄を解き終わると、その縄を大く揺らして合図した。縄は再び上に引っ張られていった。
「ありがとうございます」アマンダは言った。太い男は白い歯を見せにやりと笑った。
やがて、縄が再び緊張した。男二人は紐に体重をかけると、ゆっくりと上の男をおろし始めた。
彼女は思考がぼんやりと定まらないまま男たちの行為を見守っていた。
(助かったんだ)彼女はそう思った。ようやく命が助かったことに実感がわき、彼女の足は再び震えだした。(助かったんだ……!)
その時、塔の影の奥から物音がした。
その足音は、だんだんと大きくなった。そして明かりを持ったなにかが近づいてきた。
アマンダは凍りついた。痩せた男は手振りでアマンダに縄を持つよう指示した。そして剣を抜き、腰を落として物陰からくるなにかを待ち構えた。
それは胴鎧を着込んだオークだった。右手に短銃をぷらぷらと下げた、顎の肉が肥えた間抜け面の太いオークだった。ゲイルは呼吸を殺してオークの懐に潜り込むと、一閃、刃を下から喉元に突き刺した。オークは目玉を剥き驚愕の表情で刃を見下ろした。開いた口の乱杭歯の隙間からゲイルの剣の剣先が銀色にきらめくのが見えた。オークはカンテラを取り落した。蝋燭が倒れ明かりが消えた。ゲイルは素早く剣を引き抜くと、喉を再び突き刺した。
それでもなおオークの喉を潰すのに十分ではなかった。
「ぐおおおおおおおお!!!」オークが血の泡に溺れながら濁った雄叫びを上げた。
その雄叫びはこだまとなって城に反響した。そして一瞬の静寂の間があった。
ゲイルは身じろぎもせず耳を澄ませた。このまま何も起きないのではないかという期待もあった。しかしその期待は、すぐに打ち破られた。
五秒もたたないうちに、中庭のオークたちが騒ぎ出した。それは明らかに、今殺したオークの叫びに反応したものだ。
ゲイルは一瞬ためらった後、指笛を鋭く吹いた。
その途端、中庭で大きな物音がした。そして激しく剣を打ち合う音が聞こえてきた。兵士達が囮となり、騒ぎを起こし敵をひきつけているのだ。
ゲイルは上を向いて小声で叫んだ。「アイル、急げ!」
しかし次の瞬間、近くで何かが砂利を踏みしめる音がした。そして痩せたオークが建物の影からぬっと顔をだした。その頭には分厚い鋳鉄製の兜がかぶさっていた。
オークは3人を一瞥すると、ゆっくりと剣を抜き放ち、まず縄を支えて身動きの取れないヤゴーに切りかかった。
ヤゴーは片手で剣を抜きオークの剣を受け流した。オークの分厚い鋳造の剣は、ゲイルの両手剣の刃先を走り、激しい火花が散った。重い剣同士がぶつかり合う鈍い金属音が響いてきた。オークはその膂力で剣を易々と押し込み、ヤゴーの首元に剣を立てた。そのなまくらな剣の刃先はヤゴーの頬を裂き、血を流させした。
「アイル、急げ!」ヤゴーが鋭く叫んだ。すると手に持った縄がゆるんだ。おそらくアイルが壁に取り付いたのだろう。
ヤゴーは縄を放し両手で剣を握り直すと、オークの剣を押し返した。そして鋭く上段に振りかぶり剣を打ち下した。
オークは籠手で剣を受けた。そして返す刀で大股で踏み込み、下段に剣を突き出した。剣はヤゴーの太い右足に突き刺さった。彼は片膝をつき崩れた。
その時、気配を消していたゲイルが、オークの懐に飛び込み、その右目にむかって鋭く突きを入れた。
オークは首をそらして頬で剣先をうけた。剣はオークの頬を突き破った。しかし、口内に侵入した剣の腹を、オークは歯でがっちりと咥え込んだ。すさまじい顎の力で挟み込まれた剣を、ゲイルはひきぬくことができなかった。
オークはそのままゲイルに向かって剣を払った。ゲイルはとっさに剣を手離して飛び退いた。
ゲイルが無力になると、オークは再びヤゴーに向き直った。そして剣を高々と頭上に掲げ、大きく振りかぶった。
そのとき、頭のてっぺんをなにかにぶん殴られ、オークはフラフラとよろめきいた。次の瞬間には、小人を背負ったアイルが地面に舞い降り、転がって受け身をとった。
アイルは壁から飛び降りるとそのままオークの頭を全力で踏み抜いたのだ。
「殺せ!」ゲイルが叫んだ。
ヤゴーは立ち上がった。右足の傷穴から血を吹き出しながら、彼はオークに走り寄り剣を振りかぶった。
彼は仰向けに倒れるオークの顔面に分厚い剣を振り下ろした。そして結果も見ずに何度も何度も剣を打ち付け、オークの顔面を滅多打ちにした。
「もういい、逃げるぞ」ゲイルが言った。オークは顔面をめちゃくちゃにされ死んでいた。彼はオークの口から剣を引き抜き、五人の殿について走り出した。
突然始まった銃撃に、緑青はただ身を投げ出して伏せることしかできなかった。やがて銃撃が終わると、彼は体を起こした。彼の太い右腕には穿孔が2つ空き、赤黒い粘度の高い血が吹き出していたが、今はそれより大事なことがあった。
『お前たち、生きてるか!』彼は叫んだ。しかし、返事はなかった。彼は近くで倒れ伏す仲間のそばに駆け寄った。彼の真下でおびただしい血が地面を染めていた。彼にもう息はなかった。
広場は仲間の死体とうめき声で覆われていた。彼は息のあるものを壁際まで引張ると、武器庫へ向けて走り出した。
武器庫の前には、すでに何体ものオークが扉の前に集まっていた。しかし彼らは扉を開けるのに手間取っているようだった。
『どうした!』緑青は言った。
『中から閂がかかって、開きません!』部下の一人が答えた。
『どいてろ!』緑青はそう言うと部下を扉から引剥がし、自ら扉に手をかけた。しかし、一度壊したはずの閂がなぜか再びかけられており、扉は小さくガタガタと揺れるだけで開くことはなかった。
『下がってろ!』緑青はそう言うと、扉から距離を取り、次いで全力で肩から扉に突進した。
扉は勢いよく開いた。それとともに、中で何かがはじける感触があった。
彼の目の前で、扉に括り付けられていた紐が、切断されはじけ飛んだ。
そのひもは部屋の壁を伝い、部屋の真ん中に鎮座する樽の上に伸びていた。
それは火薬樽だった。樽の前の床には、切っ先をこちらに向けて床に並べられた、二十数本の抜き身の剣を見た。
彼は紐が樽の上の構造を動かすのを見た……その構造とは、樽の上に固定された彼の愛銃だ。紐は短銃の引き金を引き、打ち下ろされたフリントが眩しい火花を擦り上げた。
この瞬間、緑青は罠の構造を悟った。
『伏せろ!!!』緑青は腕で顔を覆い、倒れ込みながら叫んだ。
直後、爆発と閃光が周囲を包んだ。臨界音響を超えた衝撃波が鼓膜と三半規管を激しく追檄する。粉砕された石畳の破片が千もの礫となって下肢を穿った。
緑青は激痛に歯を食いしばり目を強く閉じた。
やがて緑生はゆっくりと目を開けた。眼前には四柱の根本だけを残して吹き飛んだ倉庫と、パラパラと舞い落ちる石壁の破片と、あとは灰色の混凝土のつるんとした城壁だけが見えた。
緑青は立ち上がり振り返った。彼の背後には膝から上が吹き飛んだ同朋の死体と血の海だけが残されていた。
武器庫前に集ったオークは彼以外の全てが死んだ。
緑青は慟哭の叫びを上げた。
ヤゴーが兵舎にたどり着いたとき、背後かた爆発の衝撃音が聞こえた。どうやら罠は、うまく作動したらしい。
彼らは兵舎の中を突っ切り、そのまま二階へそして三階へ一気に駆け上がり、一番手前の寝室に駆け込んだ。
しかし彼らは、すぐに異変に気付いた。
「板がない!」かれは言った。板とは、兵舎と城壁との間に渡してあった逃亡用の木の板のことだ。
「おい、誰かいるか!」ヤゴーは窓から身を乗り出しながら叫んだ。事前の予定では、この東の胸壁にも兵士たちが配置されて居る手はずだった。しかし、返事はなかった。
「なんかまずい予感がするな」ヤゴーは言った。
突然、胸壁の石垣からオークが身を乗り出し、ヤゴーに向かって弓を引き絞った。
「逃げろ!」ヤゴーは叫んだ。彼らは身をかがめて全速力で部屋から出た。矢は五人の間を縫うように走り、廊下の壁に突き刺さった。
「まっずいな、東壁はもう取り返されたか」ゲイルは言った。「全員が毒飲んだわけじゃなかったか……まあ、当然なのか」
「どうする?」アイルが訊いた。
「ここからは危険すぎて脱出できねえ……となると、とりあえず北門に向かうしかねえな」ヤゴーは言った
「あたしにアイデアがあります」アマンダが言った。「王族のための隠し通路があります。そこを通れば外に出られます。
「なるほど。よしわかった、それを使おう」ゲイルは言った。五人は城へ向かった。
彼らは城の中を走った。明かりの消えた螺旋階段を駆け上がると、彼らは応接の間に再び足を踏み入れた。
「ここです」アマンダはそう言い、机の下の空間を指で指した。彼女が床の絨毯に指を走らせると、はた目には見えない絨毯の切れ目を探し当てた。彼女はそれをめくった。
絨毯の下には蓋があった
彼女がそれを持ち上げると、そこに階段が現れた。
「お前たちは先に進んでろ」ゲイルはそう言うと、邸宅の窓まで行き、砦の上空に向かって蟇目を放った。
矢は暗闇に閉ざされた砦に甲高い音を響かせた。これが、アマンダ脱出の合図だった。
彼は応接間のカンテラを外すと、アル達の後を追った。
その階段の道は、ある程度進んだあと、何度か方向転換し、そして下水道へとつながっていた。
ゲイルがカンテラの炎で道を照らすと、くるぶしの高さまで水につかった排水渠が遠くまで続いていた。
彼らは水に入り歩き出した。
下水道の水は臭く、ぬるかった。アイルは思わず鼻をつまんだ。
「うげえ、鼻がひん曲がりそうだぜ」ヤゴーは言った。「貴族様がこんな汚ねえところ通んのかよ」
「なるべくそういう場所の方が、外部の人間に見つかりにくいと言われました。」アマンダが答えた。
「誰がこの道を知ってるんだ?」ゲイルが訊いた。
「わずかな人間のみです。父や母のほかには、高位の役人ぐらいでしょうか」
「高位の役人ってのは?」
「イーサン、コルト様、それにクラウザー様です……」
「クラウザーがこの道を知っているのか?」ゲイルが言った。
そのときちょうど、彼らは排水渠の曲がり角を曲がった。
そこにクラウザーが立っていた。彼はカンテラに照らされた明かりの中で、笑っていた。
アイルは驚いて足を止めた。
次の瞬間、ヤゴーはアイルを後ろから突き飛ばし、クラウザーに突進した。
クラウザーは杖を掲げた。杖の先にはめ込まれた石が、すでに真っ赤な輝きを放っていた。
奴はカンテラの火を見て待ち構えていたのだ。
クラウザーは杖を突き出し、炎の魔術を放った。
ヤゴーはそれにかまわず突進した。
ヤゴーは炎の塊を突き破った。麻でを編んだ粗末な上着は、襟口が焦げてちりちりと炎が点いていた。
「うあらぁあああっっ!!!」ヤゴーはそう叫び、上段からクラウザーに切りつけた。
魔術師は杖を横に倒して剣を受けた。杖の先の宝石は、いまだ赤い光を放ったままだった。
次の魔法が来る。
「ヤゴー臥せろ!」後方からゲイルが叫んだ。
ヤゴーが水びだしの地面に突っ伏した瞬間、彼の背後から空気を裂いて矢が飛んできた。
それはクラウザーの肩にドスリ突き刺さった。彼はバランスを崩し、手で傷口を抑えた。
杖の先の光は、雲散霧消した。
クラウザーは身をひるがえし、暗渠の先の暗黒の中に逃げた。
ヤゴーはそれを追い走り出した。
「こっちに出口があります!」アマンダが叫んだ。彼女の指さす先を見ると、暗渠の先に、わずかなに明るくなった外の景色が見えた。
「ヤゴー戻れ!」ゲイルは叫んだ。しばらくすると、ヤゴーは彼らのところまで走って戻ってきた。
彼らは地下水道から脱出した。
穴から出ると、そこは砦の真下の斜面の中腹だった。出入口は、手前にある大岩によって巧妙に隠されていた。
彼らは斜面を下り、渓流の中に入り体を洗った。
「シリカ、深さに気をつけてね」アマンダが言った。
「こんな浅い渓流で溺れたりなんかしません!」シリカはピシャリと言った。そして腰まで浸かり、服を擦った。
「よく落としとけよ、匂いで追跡されるからな」ヤゴーは言った。彼はブーツも脱いで、中身の汚物を何度も洗い流した。
「火傷は大丈夫か?」ゲイルが訊いた。
「まあちょっと皮がむけたぐらいだ。大したこたねえ」ヤゴーは答えた。
空にはいつの間にか月が出ていた。月の光に照らされて、渓流の水面がキラキラと輝いていた。
彼らは渓流を下り始めた。
五人はそのまま渓流を下った。彼らは滝の手前までやってくると、このさきは水の流量が増し危険なので、道に上がった。そして夜の道を駆けた。
彼らは走った。やがて彼の行く先に、闇夜の谷に浮かぶ長い吊り橋が見えてきた。
アイルは、橋の中腹に何かが立っているのを見た。
「何かいる」アイルは言った。皆、走りを止め、橋の上に目を凝らした。しかし闇夜の暗黒はあまりにも濃く、この距離からではその正体が何なのか見定めることができなかった。
彼らは橋の入口に立った。そしてようやく、その正体不明の生物を看破した。
「トロルだと……」ヤゴーは言った。橋の中央に、トロルが立っていたのだ。
この醜怪な生物は、その見た目に劣らず強力な魔物だった。その体高は十フィートにもなり、並の騎士では三人がかりでようやく仕留めるほどができるほどの化け物であった。
「スキを作る。やつが近づいたら、隙を見てお前たちは渡れ」ゲイルはそう言い、至近距離から矢を穿った。それはトロルの硬い皮膚に突き刺さりはしたが、敵は仁王立ちしたまま微動だにしなかった。狩人の攻撃では、この怪物に致命傷を与えることはできない。
「ちっ。まるで効かねえな」ヤゴーが言った。
その時、背後から狼の遠吠えが聞こえた。
魔物たちが猟犬を放ったのだ。その遠吠えは、かなりの速度で近づいいた。
下水溝を通り抜けたばかりのアイルたちは、他の道を通っても簡単に追撃されるだろう。
ここを渡るしかない。
ゲイルはもう一度矢を番えた。ヤゴーはそれを制止して、言った。
「作戦があるぜ。ここを渡ったときのことを思い出せ」
アイルはなんのことか分からなかったので、ヤゴーを見返した。
「作戦名『突風』だ」ヤゴーは言った。
「なるほどな」ゲイルはそう言いニヤリと笑った。
アイルもようやく合点がいった。彼は女の子二人に耳打ちした。
彼らは橋の中腹まで渡った。それに反応して、トロルは手に持った棍棒をゆっくりと構えた。
ヤゴーは小声でカウントを始めた。
「5……4……3……2……1……いくぞ!」
5人は橋の両端の蔦に捕まり、勢いよく左右に揺らし始めた。
「右!」ヤゴーが掛け声を上げ、右の蔦を掴み思い切り押した。アイルも同様に右の蔦に飛びついていた。二人の体重に引っ張られて、長い吊り橋は大きく右にたわんだ。
「左!」今度はゲイルが叫んだ。女たちは掛け声に合わせて左の蔦を押し、今度は橋は左に大きく揺れた
「右!」ヤゴーがまた叫んだ。橋はさらに大きく右側に揺れた。これを何度も繰り返しているうちに、橋の揺れは危険なほど大きくなってった。その蔦は弦楽器の線のように緊張した。
トロルははじめ橋の踏み板に仁王立ちになって踏ん張っていたが、揺れが大きくなるに連れてその巨体を支えきれなくなり、思わず左の蔦に飛び移った。
「今だ!」ヤゴーは叫んだ。女たちは右の蔦に飛び移り、蔦に腕を絡め必死でしがみついた。
ゲイルはナイフを取り出し、左の蔦を切った。
蔦はバンジョーの線が弾けるように、緊張から解き放たれ中を舞った。
急に支えを失ったトロルは、つんのめって橋の上から身を投げだした。そして蔦を掴んだまま、渓流の底へ落下していった。
アイルは谷底へ消えるトロルを眺めていた。彼が後ろを振り向くと、ゲイルは右の蔦に捕まり、すでにナイフをさやにしまっているところだった。
気がつくと、猟犬たちの声はもう橋の入口まで迫っていた。
「急ぐぞ」ヤゴーは言った。
彼らは橋の大穴を渡りだした。今度はゲイルが殿を務めた。片方の太索を落とされた橋は不安定になり、彼らの足は遅くなった。
やがて彼らは橋の四分の三を渡り切った。
「そこに穴が開いてるぞ!気をつけて!」アイルは叫んだ。橋のはめ板がぽついポツリと何枚も空いているところを、女子たちはジャンプで軽々と超えていった。
アイルは夜で谷底が見えなくてよかったと思った。もし見えていたら、昼間の難民たちのように、足がすくんで動けなくなっただろう。
アイルがすべての穴を超えると、最後はヤゴーの番だった。彼が最初の穴を飛び越え、向こう岸に着地すると、その体重を受けて橋は大きく上下に揺れた
「へへへ」彼は笑った。「おい、お前らは先渡っとけよ」
ヤゴーはそう言うと、背後を振り返った。猟犬たちはもう橋を渡り始め、その細かい足の振動がゲイルにも伝わってきた。
彼は向き直り、2つ目の穴を渡るために助走をつけた。
その時、彼の足首がなにかに掴まれた。彼はつんのめって、橋のはめ板に激突した。
彼が振り返ると、その足首は巨大な手に握られていた。
これはトロルの手だ。
「ヤゴー!」アイルが対岸から叫んだ。
トロルは橋に這い上がった。そして仁王立ちになり、ヤゴーを見下ろした。
ヤゴーは剣を抜いた。しかしトロルは手を払い、その剣を弾き飛ばした。
そしてトロルは自らの腰の県を抜き放ち、ヤゴーを上から串刺しにした。
「ヤゴー!!」ゲイルは叫んだ。ヤゴーははめ板ごとその太い剣に串刺しにされた。
そしてトロルは走り出した。そのすさまじい体重は橋の底板を踏み抜き、爆発的な衝撃音を立てながらアイルたちに迫った。
「くそがっ」ゲイルは言い、剣を抜き橋へと足を踏み出した。
「馬鹿野郎!来るんじゃねえ!!」ヤゴーが叫んだ。「今すぐ戻れ!」
倒れ伏すヤゴーの真横を、猟犬たちが通過した。それはヤゴーを完全に無視し、対岸のアイルたちを殺そうとしていた。
ヤゴーは腰のナイフを抜いた。
そして右手の蔦を断ち切った。
パンと音を立て蔦が弾け飛んだ。支えを失った橋は、一瞬ふわりとたわみ、そして落下を始めた。
橋は、ヤゴーと、野犬と、そしトロルを巻き込んで、谷の底に落下していった。
「ヤゴー!」ゲイルは叫んだ。彼は崖から身を乗り出し、谷底に向かって叫んだ。「ヤゴーーーー!!!!」
ゲイルの叫びは闇夜の谷間に反響した。しかし、その叫びに応えるものはなかった。
アイルその場に立ち尽くした。ゲイル崖の淵を震える手でつかみ闇の底を睨みつけていた。しかし、やがて大きく首を振り、立ち上がり言った。
「ここから逃げるぞ」彼はそう言い、アイルに先を急がせた。
ゲイルは彼らが言ったあとも、しばらくその場にとどまっていた。「すまねえ」彼は小声でつぶやくように言った。そして踵を返した。
四人は森の道を走った。




