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誰かに見られてる

作者: 渡海 洋

 天気予報では午後から雪が降るだろうと言っていたが、空は曇っていたがまだ雪の降る気配はない。

 今日はクリスマスイブで、街中は活気に包まれて、行き交う人たちもどことなく浮かれているように感じられ、街路のスピーカーから流れるジングルベルの音楽が否が応でもクリスマス気分を盛り上げていた。

 池袋の街を窓から眺めながら平井は診察の合間の時間を利用してタバコをくゆらせていた。平井は大学病院を退職してから5年、この地で精神科を開業してようやく軌道に乗った病院経営に充実感を覚えつつ今日も多忙な診察を進めていた。

 開院当初は患者も少なく、暇を持て余して何時間もぼんやりと時を過ごし、このままでは自分のほうが鬱病になってしまうのではないかと思った時もあったが、大学の恩師や先輩の助けを借りて患者を回してもらい,ここ二,三年は待合室に人があふれるほどの活況を呈していた。今日は土曜日で診察も3時までであったが、順調に診察をこなしインターホンから流れる事務の鹿野さんの声が次の患者が今日の最後の患者であることを告げていた。最後の患者は初診の人で30代半ばのサラリーマンの男であった。奥さんが付き添いで来ていて最初に奥さんが話をしたいということで入ってきた。

 平井は,奥さんに席を勧めてからおもむろに病状を聞き始めた。奥さんが言うには男の様子がおかしくなったのはここ一年ばかりのことらしい。男は大学を卒業してから不動産会社に勤務していて、学生時代の同級生であった妻と十年ほど前に結婚し、2人の女の子をもうけて近郊の所沢に居を構えて何申し分ない暮らしをしていたそうだ。それが一年前のある日を境に不審な言動をとるようになったらしい。

どのようにおかしいことを言うのか平井が尋ねると、男が会社から帰ってくると、家の押し入れの中などを探し回って「会社の隠しカメラがしかけてある。会社の盗聴器がしかけてある。」とか誰も何も言っていないのに声がしたとか、自分の後を誰か尾行しているとか、果ては自分の考えていることがテレパシーで探られている等と言い出す始末らしい。

 平井は奥さんの話を聞いてカルテにペンを走らせながら、典型的な精神分裂病(当時はまだ統合失調症という言葉はつかわれてはいなかった。)の病状だなと思った。平井は試しに独語空笑(独り言をしゃべったり理由もなく笑い出すこと。)の様なことはなかったかと尋ねるとその様なこともあったらしい。一通り奥さんの話を聞き終えると平井は一度御主人と二人で話したい旨を告げた。奥さんはぺこりと頭を下げると夫を呼んで部屋を出て行った。

 入れ替わりに男が入ってきた。見るからに実直そうで生真面目な容貌であった。平井は「あなたの病状は奥さんから一通り伺いましたがあなたから直接詳しく話してもらえませんか?」と問いかけた。男はしばし語るのをためらっていたが、しばらくして訥々と話し始めた。

 「実は先生、私はいつも誰かに見られている気がするんですよ。」と男は訴える。「それはどんな時ですか?」と平井が尋ねると「一日24時間四六時中なんです。」と男は答える。「というと今でも。」と問いかけると男は「今でもです。」と答える。平井は「今でもと言ってもこの部屋にはあなたと私の二人しかいないじゃありませんか。それはあなたもお認めになるでしょう。」と問いかけてみた。すると男は「いいえ、今でも先生と私以外の誰かに見られている様な気がするんです。」と訴えた。平井は部屋を見回して「それはどこから誰に見られているんですか。」と畳みかけて聞いてみた。男は首を振って「それがわからないんです。でも確かにどこからか誰かに見られているんです。」と苦しそうに話した。平井は「どうしてその様な感じをもたれるんですか?」と問いかけてみた。男は「会社に出社すると、上司や同僚が何故か私の退社後の行動を知っている様な言動をとるんです。しかも私しか知らないような事が筒抜けになっているんです。否、会社の人間だけでなく街を歩いているとまるっきり赤の他人が私の私生活を何もかも知っている様に通りすがりに耳元で囁いていくんです。」

 平井は、少し興奮してきた男を遮って「あなたしか知らない事というと例えばどの様なことですか?もしよかったらその事を話してもらえませんか?」と水を向けてみた。

 男は少しためらっていたが、意を決した様に話し始めた。

「会社を退社してから家に帰るまでどの様な店に寄ったかということや、否、そんな事は別段気にもならないんですがトイレで用を足している時や、妻との夫婦生活のことも見られている気がするんです。」

「見られている?どうしてそういう気がするんですか?」と平井。

「声がするんです。」

「声?どのような声ですか?」

「例えば妻との夫婦生活を営んでいる時は『まるでポルノ映画だなー。』という声がしたり、トイレで用を足している時に『悪趣味だなー。』という声が聞こえるんです。」

少々、男が興奮してきたので平井は話を終わらせることにした。

『分かりました。今日はこの位にしておきましょう。薬を出しますので、毎日必ず服用して下さい。    それとカウンセリングを定期的に受けたほうが良いので予約を取って受けてください。

 男はまだ何か言い足りない様子だったが、「分かりました。」と言って診察室を出て行った。

平井は奥さんをもう一度診察室に呼んで一通りの所見を伝えた。

 「まあ軽いノイローゼですね。本人にも伝えましたが、薬を出しておきましたので用法・用量をまもって服用させてください。後これも本人に伝えましたがカウンセリングを受けたほうが良いので受付で予約を取ってください。」

 平井は一通り説明を終えて二人を帰らせた。

「今日の診察はこれで終わりかな?」平井は大きく欠伸をしながら、受付の鹿野さんにインターホンで確認した。

「はい。今日はこれでおしまいです。どうもお疲れさまでした。」

 鹿野さんからの応答を聞いて平井は煙草に火をつけてくゆらせた。

「今日は妻と池袋で二人で食事する予定だったな。どこの店に行こうかな。」

平井はそう思ったが、妻との約束の時間にはまだ大部時間があるなと思った。

平井はコート掛けからコートを羽織ると受付の鹿野さんに後の戸締りを頼んで池袋の街に出て行った。

何気なく街をぶらつきながら本屋で立ち読みしようかパチンコでもして時間をつぶそうかなと思った。

 しかし平井はパチンコは度々やっていたが今日は何故か乗り気がしなかった。切りよく終わればいいが時間的に少し中途半端だと思ったのだ。所在投げに池袋の繁華街を歩いていると映画館が目に留まった。

いわゆる名画座と呼ばれる種類の映画館で昔の映画やマイナーな映画を上映している映画館だ。

平井も昔、学生時代によく足を運んで多くの映画を観たものだがここのところとんと映画にはご無沙汰だった。ポスターを見てみると「誰かに見られている」というものだった。聞いたことのない題名だなーと平井は思ったが、上映時間を見てみると一時間半ぐらいの映画らしく丁度今から始まるところだった。時間をつぶすには手ごろだなと平井は思った。

「久しぶりに映画を観るのも悪くないな。もしつまらなかったら寝てしまえばいいしな。」

 平井は発券機で入場券を一枚買うと映画館に入っていった。売店でコーラとポップコーンを買って中に入った。

 クリスマスイブだというのに客はまばらでそれほど人気の高そうな映画でもなさそうだなと平井は思った。

しばらくして場内が暗くなって映画が始まった。5分ほどのコマーシャルと予告編の後いよいよ本編が始まった。

「サムバディ・ウォッチ・ミー」という題が大写しになった。

アメリカ映画らしいが、あまり有名でない俳優の名がクレジットに踊った。

映画が始まると、アメリカの郊外に住むありふれた家庭の生活が映し出され、淡々と話が始まった。

 主人公の男はサムという白人男性で、ヘレンという妻とトムという男の子とメリッサという女の子の4人家族の家庭が舞台となっていた。

 平井はポップコーンをほおばりながら見ていたが、次第に飽き始めていた。とにかくストーリーが単調なのである。サムという男が朝起きて家族とともに朝食をとり家族に見送られながら車で会社に出社し淡々と仕事をこなし車で家に帰り家族と夕食をとって家族そろってベッドに入る、ただそれだけなのである。

 つまらない映画だな、と思って映画館に入ったことを少々後悔した。

館内を見渡すと他の観客たちはそれなりに映画に没頭しているみたいだった。

最近の映画はこんなものかなと平井は思って再び視線をスクリーンに戻した。

 しかし、単なるホームドラマかと思ってぼんやり見ていた平井だったが、夜になってサムとヘレンの夫婦が濃厚なベッドシーンを演じ始めたときは少々驚いた。

 平井はびっくりして館内を見渡した。館内にはまだ年端のいかない子供もいたからである。

「おいおい、これはポルノ映画かよ。」と思えるほど濃厚なベッドシーンが繰り広げられているのだ。

ところがもう一つ驚いたことがあった。映画の中の主人公のサムが、行為を中断してきょろきょろとあたりを見回しだしたのだ。妻のヘレンは夫の態度に驚いて「あなた、どうしたの?」と尋ねた。サムは「今、声がしなかったか?」とヘレンに問いかけた。ヘレンが訝し気に「どんな声?」と尋ねると「『おいおい、これはポルノ映画かよ。』って聞こえなかったか?」と答えた。映画館の座席に座っていた平井はすこし驚いた。

「おいおい、これはポルノ映画かよ。」と心の中で思ったのは他ならぬ自分だったからだ。        映画の中で妻のヘレンは、「そんな声はしないわよ。さあ、続けましょうよ。」と行為の持続を求めた。主人公のサムは合点がいかない様子だったが、また行為に没頭し始めた。

 平井も、初めは淡々としていた映画の予想外の成り行きに少し興味を持ち始めた。

場面は変わって次の日の朝のシーンになった。さっきまでのポルノ映画のような場面とはうってかわってごく普通の家庭の朝食シーンが映し出されていた。さっきまでのベッドシーンは何だったんだろうと思いつつ平井はポップコーンをほうばりながら映画を見続けた。するとまた驚いたことに主人公のサムが朝食を終えてトイレに入っていった。平井は何気なく画面をみていたが次の展開にまた驚いた。主人公のサムが便座に座って用を足し始めたのだ。平井は半ばあきれてその下品さに『悪趣味だなー。」と思わず声を出した。

するとまた驚いたことに映画の中で主人公のサムがあたりをきょろきょろ見回し始めた。トイレで用を済ました後サムはヘレンに「今『悪趣味だなー』という声が聞こえなかったか?」と尋ねるのだった。

 「いったいこの映画は何を訴えたいんだ。」と平井は少々映画を見て頭が混乱し始めた。

それからのサムは映画が進んでいくうちに精神に変調をきたし始めたのだった。会社に出社すれば上司や同僚がサムの私生活を噂しているし街を歩けば町行く人がサムのほうを見てひそひそ話をしているのである。

それからも映画の筋はサムが精神に変調がきたし始めていくさまが映し出されていった。

 しかし、一ついえることは映画の中のサムの妄想や幻覚は映画の中ではサムにしか見たり聞こえたりするものだったが映画館の座席に座っている平井も含めた観客にはサムと同じように見たり聞こえたりしてることだった。平井も肚を決めて最後までこの映画を見続けるつもりになっていた。

 映画が進むにつれて会社でも家庭でもサムは常人と違った行動をとり始めた。それがどういう理由でそうなるのか映画を見ている平井にもわからなかった。

 映画の終盤になってとうとう妻のヘレンはサムを精神科に連れていくことになった。その精神科医を演じているのが何とロバート・デ・ニーロだったのは平井にとって嬉しい驚きだった。デ・ニーロは平井のお気に入りの俳優だったからだ。

ロバート・デ・ニーロ扮する精神科医は診察室にサムを呼んで話を聞き始めた。

サムは「先生、私はいつも誰かに見られている気がするんです。」とロバート・デ・ニーロ扮する精神科医に訴え始めた。

 平井はその台詞を聞いてさっき自分が診察した男のことを思い出した。

デ・ニーロは「誰かというと?」と聞き返した。

するとサムは「それがわからないんです。でも確かに誰かに見られているんです。」と訴えた。

「それはどんな時ですか?」とデ・ニーロが尋ねると「一日24時間四六時中です」とサムは答える。

「というと今でも」とデ・ニーロが問いかけるとサムは「今でもです。」と答える。

デ・ニーロは「今でもと言っても今この部屋にいるのはあなたと私の二人しかいないじゃありませんか?それは貴方もお認めになるでしょう?」と語った。

 するとサムは「いえ、今でも先生と私以外の誰かがいて私たちを見つめているような気がするんです。」と訴えた。

 映画館の座席に座って見ている平井は、自分が今日最後に診察した男の時と同じシチュエーションであることに気付き始めた。デ・ニーロは診察室を見回して「それはどこから誰に見られているんですか?」とサムに尋ねた。主人公のサムは首を振って「それが分からないんです。でも確かにどこかから誰かに見られているんです。」と苦し気に訴えるのだった。

 デ・ニーロは「どうして、その様な感じを持たれるのですか?」と問いかける。

サムは暫く沈黙した後次のように話し始めた。

「会社に出社すると上司や同僚がなぜか私の退社後の行動を何もかも知っているかの様な言動をとるんです。

しかも私しか知らないようなことが筒抜けになっているんです。否、会社の人間だけでなく街を歩いていると全くの赤の他人が私の事を何もかも知っているかのように通りすがりに耳元で囁いていくんです。」

 デ・ニーロは「あなたしか知らないような事というと例えばどのようなことですか?もしよかったらその事を話してもらえませんか?」と水を向けた。

 サムは少しためらっていたが意を決したかのように話し始めた。

「会社を退社してから家に帰るまでどのような店に寄ったかということや、いや、そんな事は別段気にもならないんですが妻との夫婦生活やトイレで用を足している時も見られているような気がするんです。」

 「見られている?どうしてそんな気がするんですか?」とデ・ニーロ。

「声がするんです。」

「声が?どのような声ですか?」

「例えば妻との夫婦生活を営んでいる時は『まるでポルノ映画だなー』という声がしたり、トイレで用を足している時には『悪趣味だなー』という声が聞こえるんです。

 サムが興奮してきたので、デ・ニーロは「分かりました。今日はこのぐらいにしておきましょう。薬を出しますので毎日必ず服用して下さい。それと、カウンセリングを定期的に受けた方がよいので予約をとって受けてみてください。」といった。

 平井は映画を見ながら今日の自分の診察を思い出していた。日本もアメリカも精神医療の現場は変わらないなという思いを抱いたがそれにしてもあまりにも今日の自分の診察に酷似しているのには少々驚いた。

映画の方はというと、その後何の進展もなく精神科の病院を主人公の夫婦が出て街中へ消えていくところで

エンドクレジットが流れ始めた。

 「何なんだ、この映画は?」平井は改めて思った。

平井はスクリーンの中の街に消えていく主人公夫婦に「せいぜいお幸せに」と心の中でつぶやいた。

 映画館を出ると街も少し薄暗くなり始めていた。

平井が池袋のパルコ前に行くと妻はまだ来ていなかった。

平井は妻を待つ間、今日見た映画について考えてみた。

映画ははっきり言ってあまり面白いというものではなかった。

 しかし、平井は思う。今日自分の診察室に来た患者は平井にいつも誰かに見られていると訴えていた。

映画の主人公も同じことを訴えていた。

 でもよくよく考えてみると映画の主人公の生活の一部始終を、平井をはじめとする観客は映画館の椅子に座って見ていたなと思った。そう考えれば映画の主人公のいっていることはあながち妄想とは言えないなと思った。では今日自分が診察した患者の場合は?

 そう考えていたその時、肩を叩かれて平井は我に返った。

「ごめんなさい。待った?」妻だった。

「いや、それほど待っていないよ。今さっき来たばかりだよ。」

平井はそう言って妻と歩き出した。

「今日はお仕事どうだったの?」妻が歩きながら聞いてきた。

「いつもと変わらずどうってことなかったよ。」と平井。

「時間が余ったので一人で映画を見てきたよ。」

「あらそう。どう、面白かった?」と妻。

「これがまたわけのわからん映画だったよ。」と平井。

「へぇー。どんな映画だったの?」

妻が興味を持ってきたが平井は話を変えて今晩はどこで食事しようか妻に尋ねた。

妻は暫く思案していたがとりあえずパルコのレストラン街へ行ってみることになった。

 しばらく二人で黙って歩いていたがふと妻が「え?」と平井の方を見て尋ねた。

平井も妻の方を振り向いて「何だい?」と言った。

「今、声がしなかった?」と妻。

「いや、何も聞こえなかったよ。」と平井。

「いえ、確かに今声が聞こえたわ。」と妻。

「なんて聞こえたんだい?」と平井。

「『せいぜいお幸せに。』っていう声が聞こえたの。」と妻。

平井は訝し気に妻を見てしばらく沈黙した。

さっき見た映画のラストシーンが平井の脳裏をよぎった。

しかし、平井は「空耳だよ。」と言って妻の手を取って歩を進めた。

 クリスマスソングが流れる中、雪が降り始めた街の中に平井と妻は消えていった。














 

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