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短編一覧

せめてあなたの雨が止むまでは

作者: ハイパー檸檬汁

「……ふぁ〜」


 ひんやりと少し肌寒い風に頬を撫でられ、わたしは目を覚ました。

 ぼんやりと(おぼろ)げる瞳を指で(こす)り、軽く伸びをして、そして気づく。北窓から差し込む陽光が橙色に染まっていることに。


「やばっ、もうこんな時間!?」

 

 部屋の壁に立てかけてある時計に目を向ければ、時刻は18時を回っていた。夕刻である。

 いけないいけない。どうやらお昼寝をし過ぎてしまったらしい。


 カタンカタンカタンカタンっ。


 不意に、アパートの階段を勢い良く駆け上る音が、わたしの鼓膜を揺らした。

 音はわたしのいる部屋の前で止まると、続いて何やらガサゴサ忙しなく何かを探す音が聞こえてくる。

 それからカチャリ、鍵が回る。

 古い鉄扉がギィーッと渋音を奏で、扉の向こうから夕日に照らされ、我が家の可愛いチビ助が顔をみせた。


「りっくんおかえり〜。お〜っと。今日も派手に汚してきたなぁ……!」


 りっくんの着ている泥だらけの練習着に目を落とし、「おふっ」とわたしは少々引きつった笑みを浮かべてしまう。

 あの汚れはかなり手強(てごわ)そうだ。そう簡単には落ちてくれないだろう。まぁ洗うのはパパなのだけれど。

 りっくんこと律樹(りつき)は今年で11歳。

 サッカー好きのパパの影響で、りっくんは小学高入学と同時にサッカークラブに入会した。

 毎日毎日いっぱい練習して、最近になりようやくレギュラーに選ばれ試合にスタメン出場している。ちなみに5年生の中でスタメンに選ばれているのはりっくんだけ。ママとして鼻が高いのなんのって。


「………」


 玄関で靴を脱いでいるりっくんの隣にかがみ込み、ニコニコしながらわたしはその横顔を覗きこんだ。

 りっくんは相変わらずぶすっとした表情で靴紐とにらめっこしている。その姿がどうしようもないほど愛おしい。


「ふふっ、ほっぺにまで泥んこつけちゃって。まったく頑張り屋さんなんだからりっくんは」


 ほっぺたについている泥汚れに気づき、わたしはそっと手を伸ばした。りっくんの頬に指が触れそうになったそのとき、りっくんの小さな口から小さな呟きをわたしは聞いた。


「ただいま」


 ぴたり。わたしは伸ばした手を止めていた。

 りっくんは立ち上がり、固まるわたしの横を通り過ぎていく。


「……うん。おかえり、律樹。――ってこらぁ!? そのまま部屋に入っちゃダメでしょパパに怒られちゃうぞ? さっさと着替えて、ついでに手洗いうがいも済ませちゃいなさいー」


「………」


 そのまま真っ直ぐ茶の間(リビング)に入ろうとしていたりっくんは、その場でピタッと立ち止まる。

 それからおずおずと着ている練習着を見下ろし、しばしの懊悩(おうのう)の後、黙って脱衣所へと向かっていった。


「えらいえらい。さすがわたしの自慢のりっくんだ。ちゃんとできるじゃない」


 服を着替える衣擦れの音、それからうがい手洗いする水音が脱衣所の扉越しに聞こえてくる。

 自然と、頬が緩んでしまうわたしがいる。

 あんなに小っちゃくて泣き虫だった我が子が、すくすくと成長している姿に、母親として嬉しいというか寂しいというか。色々込み上げてくるものがある。

 この子には少しだけ辛い思いをさせてしまったから。


 しばらく経って、顔の濡れたりっくんが脱衣所から着替えて出てきた。

 頬の汚れはきれいさっぱり落ちている。目が少しだけ赤いのは、顔を洗うときに汚れが目の中に入ってしまったせいだろう。そう、きっとそうに違いない。

 りっくんは脱衣所からリビングに入ると、畳の上に敷いてある座布団にドサッと身を投げだした。

 すかさずテーブルの上に置いてあったゲーム機に手が伸びる。


「こら、ゲームの前に宿題でしょりっくん?」


「…………わかってるよ、ママ」


 そう言うと、りっくんはゲーム機をテーブルに戻し、ランドセルの中からノートを取り出し宿題を始めた。


「えらいね、さすがはママの自慢のりっくんだ」


 わたしはりっくんの隣に座り、りっくんの髪をそっと撫でた。

 りっくんはなぜか泣いていた。

 その理由(わけ)を、わたしはよく知っている。

 だからわたしは、りっくんの頭を優しく撫で続けた。



 


 時計の針が19時を回った頃、再びアパートの扉が重たい音をたてた。


「ただいま〜」


 扉から中に入ってきたのは、蒼いスーツに身を包んだ若年のサラリーマン。何を隠そう我が家の自慢のパパさんである。

 わたしは急いで玄関に向かい、お仕事帰りのパパさんを出迎えた。


「おかえりなさいあなた。ご飯にする? お風呂にする? それともわたしかな?」


「うーん。そうだなぁ、今日はお風呂にしようかな」


「はーい」


 パパさんは廊下を抜け、りっくんのいるリビングに向かう。


「りつー! パパとお風呂入るぞー! ――って、えらいな、お勉強してんのか?」


「うん。ママがゲームの前にお勉強しなさいって言ってたから」


 りっくんは宿題から目をそらさず、そう言った。


「………そっ、か」


 返す言葉に少し迷ったパパは、りっくんの頭を撫でながら優しく曖昧に微笑む。


「んじゃ、りつのお勉強が一段落したら一緒にお風呂入ろうな!」


「うん」


 二人の微笑ましいやり取りを、わたしはリビングの入り口で静かに眺めていた。


「ふふっ、パパと律樹は仲いいんだもん。ママ妬いちゃうなぁ」


 壁に背をつけ床にお尻を降ろし、わたしは1人そう呟いた。






「それじゃ――」


「「「いただきまーすっ」」」


 パパさんの掛け声に合わせ、3人仲良く『いただきます』をする。これは先祖代々受け継がれてきた由緒正しき我が家の風習である。

 食卓には3人分のご飯が仲良く並んでいる。

 今日のオカズはりっくんの大好きなイベリコ豚。

 いただきますの挨拶をしてすぐ、りっくんがイベリコ豚にかぶりついた。

 ぺろりと自分の分のお皿を平らげると、


「ママのぶんのお肉、食べてもいい?」と訪ねてくる。


「いいよいいよ全然、気にしなくて! 食べたかったら食べな?」


「いいってさ。良かったなりつ」


「うん」


 パパさんがわたしの方を見てからりっくんに微笑みかける。

 りっくんはわたしの皿に盛り付けられたお肉を取ると、再びぺろりと平らげた。この小さな身体のどこにご飯が入る隙間があるんだか。


「ふふっ、いっぱい食べてパパみたいに大きくなるんだぞ〜?」


 りっくんの大きくなった姿を想像してしまう。きっとパパに似てかっこいい男の人になるのだろう。

 お肉にかぶりつくりっくんを見ながら、わたしはそう思った。





「りつは寝たか」


「うん。すやすや寝てるよ」


 夕飯を片付け、今はもう夜の22時過ぎ。

 テレビの音は消え、夜だということもあり、室内はシンと静まりかえっている。

 ジジッ、ジジジッと。時折り寿命の近い白熱電球だけが(かす)れた音を発していた。


「ふふっ、サッカーの練習で疲れちゃったみたい。あの子最近頑張ってるみたいだから」


「あんなに小さかった子が、もう小学5年生だもんなぁ。大きくなったもんだよ」


「そうだね。そろそろわたしの身長(こと)も乗っこすんじゃないかなぁ」


「怖がりで寂しがりで。1人じゃ寝られなかった子が、今はもう一人で寝られるようになったんだぜ?」


「ほんとびっくりだよね。いつになったら子離れできるか、わたしけっこう心配して……」


「それにりつは、前みたいに泣かなくなった」


「………うん、そうだね」


 短い沈黙の後、パパさんはガラスのコップに注がれた日本酒を一気に(あお)った。


「こらこら。飲みすぎじゃない? 明日も早いんだから、そのくらいにしておいたほうがいいよ?」


 昔はあまりお酒を飲まない人だったのに、あの日を境にパパさんは毎日お酒を飲むようになってしまった。

 仕事のストレスもあるのだろうけど、たぶんそれだけじゃない。

 それはきっと、わたしのせいだ。


「あれからもう、3年か」


 ぽつりと、パパさんはそう呟いた。


「そっか。もう、そんなに経つんだね」


 時が経つのは早い。

 大人になってそう実感した。いいや、実感できるからこそ大人なのかもしれない。

 曖昧にして不明瞭、不明確な大人と子どもとの境界線。

 そしてまた、歳を重ねるごとに時間の経過は加速する。

 子どもの成長など尚更だ。

 一昨日までおっぱいを吸っていたチビ助が、昨日には一人で歩けるようになっている……いやそれは少し言いすぎか。でも、感覚的にはそんな感じ。

 あの幸せな日々が、とても懐かしい。


「前に話してた、山﨑さんのことなんだけど」


 パパさんは静かに切り出した。


「今度うちに来たいって言ってくれてるんだ。そのときに律樹と、お前のことも紹介したいと思ってる」


「うん」


「山﨑さんたら、りつくんに会いたいりつくんに会いたいって毎日LINEくれてさ」


「うん」


「りつにもそろそろ、ほら。やっぱり俺だけじゃ寂しい思いさせちゃうかもって……だろ?」


「うん。わたしもそう思うよ」


 お酒と一緒に、パパさんの話すペースも段々早くなっていく。

 けれど心なしか声は震え、瞳が揺らいで見える。


「山﨑さんってちょっと抜けてるとこもあるんだけど、何するにも一生懸命で頑張り屋で素直で純粋で、なんつーかお前とは正反対の人だよ」


「そっか。わたしと正反対ってことは、ちゃんといい人なんだね、きっと」


「ああ、いい人なんだ。ちゃんと」


「「………」」


 部屋に、沈黙が降りる。

 ちょっぴり、目頭の奥がジンとした。

 それをわたしは笑顔で隠す。

 パパさんは酒で誤魔化す。

「そう言えばさ」と、パパさんが話題を変えた。

「この前りつの授業参観があったんだ。アイツこういうときだけ背筋伸ばして優等生みたいにしゃんとしてて……まったく誰に似たんだか、はは」


「ふふっ、そういうとこはパパそっくりだもんね?」


「聞いてくれよ。その前の運動会なんて凄かったんだぞ? 走ったら早いのなんのって。さすがは俺達の子さ」


「見てた見てた。応援してるあなたのほうが必死だったじゃない?」


「先月にあった音楽コンクールなんて。りつったらたまに音外しててよぉ、こっちが冷や冷やさせられたよ。音痴なのはお前に似たんだな、きっと」


「なーに言ってるの。あなたのほうがわたしより音痴なくせに」


「ふふっ」

「はははっ」


 わたしとパパさんはお互いにクスクス笑いあった。


「お前にも見せてやりたかったなぁ、ゆい」


「………」


「お前と一緒に、見たかったなぁ……」


 言葉尻が薄れていき「―――なんで」パパさんの肩が僅かに震えた。

 一筋の雫が、彼の頬を伝った。


「なんで、隣にいてくれないんだよ……ゆい」


 張り詰めていた感情が、考えないようにしていた過去が、濁流となり一気に溢れだす。

 ひと粒、またひと粒と。それはダムの防波堤と同じだ。一度崩れてしまえば最後、止まらない。止められない。


「こらこら奏太(かなた)。りっくんだって我慢してるのに、あなたが泣いちゃだめじゃない」


 肩を震わせ嗚咽を漏らすパパさんは、ひどく苦しそうに泣いていた。


「約束したじゃないか……ずっと、ずっと一緒にいようって……ッ! カナダに行ってみたいって、ナイアガラの滝を2人で見ようって……言ったじゃないか……ゆいっ!」


「嬉しいなぁ。そんな昔のこと……覚えててくれたんだ」


 わたしは彼に向かって手を伸ばした、けれど。


「ごめんねぇ、約束守れなくて。ほんとにごめん」


 どんなに遠くに手を伸ばしても。

 わたしの指は、あなたの涙を拭えない。


「律樹だって、本当は辛いはずなんだ……、それなのにあいつ、泣き言ひとつ言わずに……!!」


 どんなに優しく語りかけても。

 わたしの声は、あなたの耳には届かない。


「山﨑さんじゃ、だめなんだ。お前じゃなきゃいやなんだ……っ!」


「そんなことない。大丈夫。きっとすぐに慣れるよ。だから――」


 どんなに願い望み焦がれようと。

 わたしの腕は、あなたの身体を抱きしめてあげられない。


「だから、わたしのことはもう忘れなよ。ね?」


 だってわたしはもう、とっくに死んでいるのだから。


「なぁゆい……俺は、俺は今でもお前のことが……お前のことが……っ、ゆい……」


「まったく。うちの泣き虫はどっちだか」


 もう少しだけ、ここに残りたいと思った。

 ずっとじゃなくていい。

 律樹が大人になるまでじゃなくていい。

 新しい奥さんと結婚するまでじゃなくていい。

 せめて、あなたの雨が止むまでは―――。


「あぁ、ほんとに……泣き虫は誰だかわかんないなぁ」


 いつの間にか、ぎこちなく笑うわたしの頬にも、熱が伝っていた。



――完――

 初の短編小説でしたが、おそらく今の自分が書ける最高の作品だと思っています。

 皆さんの心に少しでも残れる作品になったでしょうか?

 今後の執筆活動のためにも評価や感想など頂けるととても嬉しいです!

 そして最後になりますが、僕の作品を読んでくださり本当にありがとうございました。

 また、雨が止んだ頃にお会いしましょう!

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