校舎の隙間
ボールキャリアーを体育倉庫に戻した温彩は、きっちりと鍵を閉めた。再度の確認も行った。
「よし、っと」
そろそろランニングに出た筒井も戻る頃だ。早くグランドへ戻らないと、ハナが1人でてんてこ舞いをするはめになる。
すぐに戻るつもりだったが、ふと教官室にリストを取りに行った瑞樹の戻りが遅いことに気付いた。
「そうだ。瑞樹先輩行ったっきりだし、ついでに寄ってみようかな」
そう思い立ち、中央のフェニックスの木へと振り返った。
渡り廊下を付き抜け、対面の校舎の方へと足を向ける。
普段、運動部の生徒達は中庭は通らないのだが、倉庫から教官室に向かう時だけはここを通り抜けるのが近道だった。
中庭を囲むように、コの字を描いて建つ校舎。そしてその真ん中にフェニックスの木はある。
その脇には四方に枝を伸ばした梅の木があった。すっかり葉をつけた梅と大きなフェニックスはそれぞれの緑をざわめかせ、競うようにして風を知らせる。
温彩はそんな中庭が好きだった。
木々だけではない。手入れの行き渡った花壇には、季節ごとの花や実でいつも彩られているし、その後ろの池には鯉などの魚たちが放たれ、悠々と泳いでいる。
この時間帯は生物の教師が熱心に魚にエサを与えているのを見かけるのだが、今日は職員会議が入っているせいだろう、中庭は静けさに包まれ、ただ風にざわめく葉の音がこだましている。
温彩はその音を聞きながら中庭を進んだ。
するとどこからか、微かに人の声のようなものが聞こえた気がして足を止めた。
女性の声のようだった。
(どこから聞こえてくるんだろ……ひょっとして瑞樹先輩かな?)
そう思った時、梅の木の向こう側に人の気配を感じた。
木をくぐり抜けたところで交差する校舎の隙間から、人影らしきものが延びている。
(教官室への入り口の方だ。やっぱり瑞樹先輩かも)
温彩は再び歩むと、そちらの方へ足を早めた。
梅の下をくぐり、延びる影に向かって校舎を曲がった。
曲がった先の柱の奥。きれいな黒髪のロングヘアーが、コンクリートの狭間でさらりとなびいた。
思ったとおりだった。自分と揃いのウインドブレーカーを羽織った瑞樹の後ろ姿だ。
「瑞樹せんぱ……」
声をかけようとした時、温彩はハッとして足を止めた。そしてそのまま硬直した。
瑞樹の向こうにもう一つ、人影が見えたのだ。
思わず息を呑んだ。
瑞樹は、沖の胸に顔を埋めていた。
木々のざわめきが周囲の音を遮ったことと、温彩の来た方向に背中を向けていたことで、瑞樹が闖入者に気付くことはなかった。
しかしその先の沖と温彩とでは、真正面から向かい合う形になってしまった。
練習が始まっている時間帯だったが、沖はまだ制服のままだった。
グレーのブレザーがよく映える長身で、向かい合う瑞樹の頭よりもはるか上に顔が位置している。
その瑞樹の頭越しに、温彩は沖と目が合ってしまった。
慌てる事もなく、たじろぐこともなく、自分の胸に顔を埋める瑞樹の後ろ頭に片手を添え、校舎の壁に半身を預けてゆったりと佇む沖。
温彩は慌てて身を翻した。そして元来た校舎影の外側に体を戻した。
しかし、今見た光景が頭に焼きついて離れない――
焼きついた光景。それは重なった2人の姿ではなく、その瞬間……
その時沖は、それまでの虚ろな目を温彩に照準し直したのだった。そして静かに人差し指を口元に当てた。
それから柔らかな微笑みで温彩を見て、何かを語りかけるように小さく顔を傾けた。
校舎の隙間に照り込む斜陽を受け、逆光と重なった沖はとてもきれいだった。
温彩に向けた表情。微笑みの奥の、深くて静かな湖のような瞳。それがどこか悲しげに見えた。
あの日の、振り返った時に見たのと同じ、訴えかけるような目。
それが一枚の絵となって、温彩の脳裏に焼きついた。
温彩の体に、またしても電流が走った。
時間が止まった。
この間みたいに触れられたわけではない。なのに、一瞬にしてどこかにさらわれてしまった。
自分の両腕を抱える……
これから先も、幾たびもこんな風にされてしまうんだろうか――?
熱くなった頬を下に向けたまま、温彩はしばらく動けないでいた。