走れ賢悟!
「俺さ、部活は?って声かけたんだ。そしたらさぁ、その兄貴だっていう男がさっさと連れて帰っちゃったんだ……」
「やだ……それ本当?」
瑞樹は不安気持ちを抑えるように、胸の前でキュッと左手を握った。
「妹がお世話になります」その男は筒井に対してそう言ったらしい。
無論、挨拶といえるような態度ではなかった。見てくれだって「普通」とは到底言えない。
それに、妹に対してあんなにべったりとまとわりつわりつくだろうか……
「ねぇ瑞樹ちゃん、あっちゃんに兄さんなんていたのか?」
「………」
きっと、あの男だ。瑞樹の全身に鳥肌が立った。
とうとう学校にまで姿を現したのかと思うと、その薄気味悪さと嫌悪でやり場がなくなる。
瑞樹は手に持っていた携帯を握り締めた。それから賢悟の方を見た。すぐに目が合った。
不穏な空気を読み取り、賢悟は会話する2人を目で追っていた。
賢悟は筒井に近づいた。
「そいつって鼻に輪っかぶら下げたヤツじゃないスか」
「おー、それそれ。柄悪いって言うかなんていうか……他にも同じような輩がいたぞ?」
(マジかよ……)
背筋から冷たいものがせりあがる。
「おい。何か、やばいことになってんのか?」
さすがの筒井も不穏なものを察した。
「上代くん……! 温彩、追いかけてくれるかな」
瑞樹が言った。しかし、返答は聞くまでもなかった。すでに賢悟は‘心ここにあらず’だ。
筒井は、賢悟の腕を掴み自分に向けさせた。
「よし。じゃぁさ、適当な話し付けて俺が監督ごまかしとくから、取り合えずお前があっちゃん追え」
「すんません」
「おう、何かよく分からんが急を要するんだろ?急げ」
兄だと偽る男に連れ立たれ、温彩はいつもの下校道を行ったらしい。
「上代くん……!」
身を竦めて立っていた瑞樹も、追い立てるように目を合わせてきた。
賢悟はくるりとグランドに背を向ける。あれこれと考えている暇はない。
賢悟は、さっきからずっとこちらの様子を伺っているハナに目をやった。
そして、手に持っていたボールをハナの手元に放った。
「わわっ……」
突然飛んできたボールに驚いたが、ハナはうまくキャッチした。ボールと手の平の間から微かに砂埃が舞う。
ハナがそれに気を取られていた僅かな隙に、賢悟はその後ろに回っていた。
「おい、大山!パスだ」
そう言うと、ボールを持ったハナの背中を大山に向かってトンと押し出した。
「おわ……!」
手元に滑り込んできたスルーパスを大山はキャッチした。
「顔の怪我も修理完了だ。ゴールはキッチリ決めろよ大山。いつまでも勘違いしてんな」
賢悟は言い終わる前にはもう、2人に背中を見せていた。
ハナは勿論のこと、大山も突然のことに呆気に取られる……
その時、筒井が賢悟に発破をかけた。
「走れ!賢悟……!」
グランドの砂を蹴って、賢悟は走り出した。
背後で誰かが何か言ったようだったが、もう振り向かなかった。
走る。
走る、走る、走る、今は―――。
何の確約もない。何の意思疎通も、約束も交わしていない。
2人のキックオフは、まだこれからだなのだ。
始まる前から棄権する試合なんて、ありえない――――