退部届け
一日の終わりを告げるチャイムが鳴った。
賢悟はスポーツバッグを肩に引っ掛けて背中に回すと、ポケットに手を入れてそれをロックした。
申しわけ程度の鞄は小脇に挟み、放課後のざわつく教室を抜けていつもの足取りで今日も部室に向かう。
教室を出るときにちらりと温彩の方を見たが、机の周りに集まったクラスメイトの陰になり良く見えなかった。
(つか、やっぱ「待ってる」じゃまずかったな……「一緒に帰ろう」だよな? 危ねー身なわけだし)
考え事をしながら校舎を下りることもめったにないので、一番下の階段で足を取られそうになった。
「あっ、いた!賢悟せーんぱぁーい!」
頭上に降ってきた声で、再び足を取られそうになった。
(で、出たな……)
少し肩をすくめながら顔半分で振り返ると、薄めの絆創膏に張り替えられた頬で笑みを作ったハナが、バタバタと後ろから下りてきた。
ハナの怪我は縫うほどでもなく、無事に瘡蓋ができて回復に向かっていた。
今は、その瘡蓋を隠す程度の張り物がされている。
「見て、先輩っ。いい感じに治ってきましたぁ」
「あー、良かったよ」
怪我が治るまで面倒を見るという約束だったが、それももう終わりに近い。
しかし、どうにもハナの「独占気分」は、この先も続きそうな雰囲気だ。
まだ帰り支度をしていないのかハナは手ぶらだった。そのまま、部室に向かう賢悟にちょこちょこと着いてくる。
「ね、賢悟先輩。また髪の毛セットしましょうよぉ。すっごく似合ってましたよ?」
「いや、いい」
「ええーっ、どうしてですかぁ」
「逆に気になる。恥ずい。モモタロスが入ったみたい」
箇条書きを読み上げるように答え、校舎の出口に向かって歩行を早めた。
「せっかく超ハードなワックス手に入れたのにぃ……それにモモタロスってなんですか?」
「知らね。一年のヤツらに聞いてくれ。悪いけど早めに表ん出てぇからまたな」
賢悟は渡り廊下へひらりと飛び降りた。短い会話をしてサッとかわす。これに限る。
最近随分とコツを得た。
「あーっ、賢悟先輩!ハナの保健室はぁー?」
「後だ後。今日は筒井さんらがミニゲーム見に来るらしいし、そっちも急げよ」
そういい残して賢悟は、ハナを後にして走った。
校舎に長居は無用。今日は引退した三年が顔を出すと言っていた日だ。
グランドはきっと賑やかになるだろう。
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部室までの校舎下の通路は、普段はわりと静かな場所だ。
焼却炉から漂う微かな煙の匂い、木々をすり抜ける斜光の木漏れ日、それらが夕方に差し掛かることを知らせてくれる。
そんな緩やかな時間の流れる場所も、放課後になれば部活動に向かう運動部の生徒達によって、一変して賑わう。
今日は部活生らがグランドに出払った後も、数人の生徒達の声が飛び交っていた。
「おーう、瑞樹ちゃん!今からかぁ?もうみんな表にでてるぞぉ!」
サッカー部というよりは、どちらかというと空手か柔道向きの体格の男子生徒が瑞樹に声をかけた。
グランドを背にし、節くれだった手を振りながら走って来る。
「あ、筒井くんお疲れ様。ちょっと遅くなっちゃった。あれ?筒井くんは今から反対に向いてどこにいくの?」
「俺は小林を呼びに行くとこ。ったくアイツいっつも誰かに捉ってて世話が焼けるのよ」
「クス……じゃぁ先に行ってるね。それと、侑は用があって帰ったの。筒井くんによろしくって言ってた」
「えっそうなの?ちぇ、分かった。んじゃ瑞樹ちゃん、また後で」
筒井は瑞樹と別れると、再びひょいひょいと走り始めた。
相変わらず元気な筒井を見送り、瑞樹は通路を抜けて砂地に足を踏み入れた。
グランドでは着替えを済ませた部員たちがアップをしている。
その中に引退した三年生たちが何人か制服のままで混じっている。現役部員たちがパス練習を始めると、その相手を始める者までいた。
瑞樹はベンチに近寄って、ゼッケンを整理しているハナに声をかけた。
「ハナちゃんお久し振り」
「あ!藤沢先輩っ、お久し振りでぇす!」
「ふふ。あれ、今日温彩は?学校には来てたみたいだけど」
「まだですぅ。いつもはハナより先なんですけど、まだ本調子じゃないのかも」
「じゃ、温彩が来るまでお手伝いしようかな」
「本当ですかぁ?わぁい、嬉しいなぁ!」
間もなくして、ポロシャツの襟を立てた飯田がグランドに出てきた。
手に持ったバインダーを忙しくめくりながらハナ達の挨拶に答え、ホイッスルを首にかける。
残暑の残る乾いたグランドで、今日も練習の開始だ。
飯田に気付いた太田がグランドの部員達に号令をかけた。散らばっていた面々がぞろぞろとベンチに向って集い始める。
ハナと瑞樹は、雑談を交わしながらそれを待っていた。
「ね。そのホッペどうしたの?ハナちゃん」
「あっ、これはちょっと……ねっ?賢悟先輩っ」
迎と大山と組んでパス練をしていた賢悟がベンチ横に戻ったところだった。
ハナから意味深に話しを振られてぶすくれた様子の賢悟だったが、瑞樹に小さく会釈をすると、下顎を出したままそっぽを向いた。
その様子を見ていた大山もまた、なんとなしにぶすくれている。
「よーし、お疲れさん。今日は予定通り、ゲーム中心のメニューで行くぞぉ」
飯田がいつものように練習内容の確認を始めた。
「……と、その前に。ちょっとみんなに連絡事項があるんだが……」
そう言って、リストをめくっていた手を止めると輪の中心から皆の顔を一巡した。
「実はマネージャーの菅波が部を辞めることになった。正式に退部届けが出されたから、さっきそれを受理したとこだ」
「ええっ?!」
当然、全員が一驚した。 一驚し、どよめきが起こった。
誰も予想していなかったし、何の前触れもなしに急な話だ。
一人取り残された気分になったハナが、窮して声を上げた。
「うっ、嘘でしょう!?ハナ何も聞いてないですよぉぉー!」
瑞樹の顔色も曇る。
「先生。退部届けって、いつの話しです?」
「うむ。届けをもらったのは今日だが。なんでも家庭の事情らしくてな。皆に迷惑掛けてすまないって。落ち着いたらきちんと挨拶しに来るとは言ってたが、今日も家の用があるとかで急いで帰って行ったよ」
当然、賢悟も唖然だ。
(……なんだよ、それ………)
頭中では金属音が、胸中では濁音が響く。何かに打ち抜かれた様になって立ち尽くした。
しばらくは愕然として動けずにいたが、すぐに小刻みに体が揺れ始めるのが分かった。
(つか、いっつもこんなんばっかじゃねぇかよ……!ったくアイツはどうなってんだよ……!)
温彩には、心を引っ掻き回され通しだ。
瑞樹はそっと賢悟に近づき、そばまで寄ると小声で耳打ちをした。
「ねえ。このこときっと、侑も知らないと思うの。上代くんも聞いてなかったのね?」
「はい」
「そう……。私、ちょっと侑と連絡とってみる。何か分かったら知らせるわ」
瑞樹は携帯を取り出そうと思い、鞄を置いた場所に向かって円陣から外れた。
そして輪から外れたその時、小林と落ち合った筒井がちょうどグランドに戻ってきた。
「おう瑞樹ちゃん。さっき校門であっちゃん見かけたんだけどさ、部活出ずに帰ってくし、それに一緒だった『兄貴』とか名乗ってたヤツがどうにもおかしな感じでさ。なんか妙に気になっちゃって……」
瑞樹の顔色に暗雲が立ち込めた。