「片岡晃」の存在
始業式の日、学校は午前中で終わる上に、部活も休み。
その帰り。温彩はいつもの通学路を、とぼとぼと一人で歩いた。
河川敷に差し掛かると、土手の下から風が吹き上げてきた。そして通り過ぎる温彩を追い越してゆく。
どんなに風が気持ちよくても、川の水音が清々しくても、温彩の気持ちは冴えわたらない。
ふと下に目をやった。いつもの場所に、賢悟の姿はない。
授業もない、部活もない。本当ならばこんな日は、必ずいるはずなのに。
(もしかして、ハナちゃんと帰ったのかな……)
賢悟のいない河原は、妙に殺風景に見えた。
重い気持ちから溜息が漏れる。そして思わず呟いた。
「なんだかここのところ、いいことないよなぁ」
しかし、自宅玄関へと続く角を曲がった途端、すぐに呟いた言葉を後悔した。
『愚痴をこぼすと悪い事柄は続く』……死んだ父が、昔そう言っていた。
それは本当だと思ったからだ。
玄関の前で、‘嫌な顔’がこちらを見てニヤついている………
「あーつーさぁ、おぉーかえりー」
軽薄そうな喋りの男が呼んだ。
始業式で帰り時間が早いのを知ってのことだろう、どうやら待ち伏せをされたらしい。
「サト子さんがさぁ、もう帰る頃だって言うから待ってたよん。たまにはお日様の下でデートしようよーん」
相変わらずヘラヘラとしている。
ニヤニヤしながら近づいて来ると、気安く肩を回してきた。
「が、学校じゃ……ないんですか?」
「うん。俺らはまだ、なっつやっすみー」
彼の名は片岡晃。現在大学二年の、二十歳。
「K・コーポレーション」という、県内では大手の企業を経営している社長の一人息子だ。
そんな彼の父親・片岡社長は、温彩の店の大事な常連客……いや、叔母のサト子の、‘個人的なスポンサー’だった。
「うぅぅん、制服のあつさもグーねーん」
そんなことを言っては一人でヒャヒャヒャと笑っている。勝手に人を呼び捨てにしているが、断じて特別な仲ではない。
ただ、執拗にちょっかいをかけられているのは事実で、沖と瑞樹の心配の種というのが、他でもないこの男の存在だった。
片岡晃の手やら首には、いつも銀色の色んなものがジャラジャラとぶら下がっている。
それに、まだ汗ばむ季節だというのにニットの帽子を深々と被っている。
瞼にまでかかった帽子の下から覗く独特な目つきに、いつも嫌悪感を覚えた。
「ねー、車出すからさぁ、これからどっか遊びに行こうよぉーん」
細面の顔が温彩を覗き込む。晃の鼻にはピアスが光っている。
(やだな、どうしよ……)
初めて彼を見たのは、店に来ている父親にこずかいをせびりに来た時だった。
その時、店の手伝いをしていた自分に目をつけたらしいのだが、温彩はどうしてもこの男が好きになれないでいた。
「あの、あたしこの後学校に戻らなきゃいけないんで……ごめんなさい」
そう言うと、さりげなく晃の手をすり抜けた。
「まーだ玉蹴り部のマネージャーなんてやってんのぉ、あつさ?早く辞めちゃいなってぇ」
晃は温彩の前に一歩出ると、甘ったるい口調で再び近寄ってきた。
「ごめんなさい、ほんとに急いでるの……」
「あ?なに澄ましちゃってんの?」
晃の声色が変わった。
肩に回してきた手から逃げたのが気に入らなかったのだろうか……
この男はいつも急にキレる。
前回も些細なことで逆鱗に触れ、皮がむけるほど激しく肩を掴まれ、それがアザになったのだった。
タイミングも分からず突然豹変する態度に、毎度ゾッとする。
その時、家の中から玄関戸が開けられた。叔母のサト子が出てきた。
いつもこの時間には、不足品の買い出しをしに近隣の商店街まで出かけるのだ。
「あら温彩おかえり。あらま晃ちゃんっ、あなたそんなとこで待ってたの?だったら上がっていれば良かったのに」
「やだなあサト子さん。俺そぉーんな厚かましくないもーん」
「やぁねぇ遠慮しちゃってこの子は!なあに?これから2人でデートにでも行くのぉ?」
そう言って叔母と晃は笑い合っている。
サト子と晃とは、サト子が温彩を引き取る前からの付き合いだった。
晃が中学生時分の頃には、すでに父親からのバックアップを受けていたらしい。
しかし助かった。
温彩はこのタイミングを利用しうまく逃げようと思った。
「ただいま、サト叔母ちゃん。あたしこれから学校に戻らなくちゃいけなくて」
「あら、今日も部活?たまにはお店も早めに手伝ってねえ温彩」
「うん分かった、今日は早く帰るから。じゃ、行って来ますっ」
急いで玄関にカバンだけを置くと、そのまま学校へ戻るふりをした。
「いってらっしゃぁーい、あーつさっ」
叔母の横で、ヒラヒラと手を振る晃。ニヤついた顔でもう笑っている。
彼の喜怒哀楽のスイッチはどこで切り替わるんだろうか。
振り返りもせずに行ってしまった温彩をにこやかに見送った晃は、サト子に振り返ると上機嫌に振舞いながら自分の携帯を取り出した。
「ねぇサト子さんっ、あつさの携帯番号分かるぅ?」
「あら聞いてないの?ええ分かるわよ、教えておきましょうか?」
「うんヨロシクぅ、何番?」
カチッと言う画面の開く音と共にディスプレイに明りが点る……
番号の登録を終えると、晃はサト子と別れた。
(今までの様にシカトさせないからねん、あつさちゃん)
晃はにこやかながらもその表情の端で、ギリッと奥歯を軋ませていた。