目撃と結末
暗い林の中。体を動かした後の汗じゃなく、違うものが背中を伝う。
身も心も浜の2人に張り付けにされたようになった。
眼前の理解不能な光景に囚われ、身動きの出来ない賢悟。こんな状態を経験するのは初めてだ。
こういうのを、「放心状態」と言うのだろうか。
薄暗さや浜辺までの距離のせいにして、直視できない現実を否定しようとした。
しかし、逆立ちしようが夜目であろうが、眼に捉えた姿は温彩に間違いなかった。
温彩の姿ならば、土手下からだってグランドの隅からだって見間違えることはない。
(何……、やってんだ?アイツ……)
こんな場所で、こんな時間に、どうして温彩が、‘沖’と抱き合っているのか。
何故―――
そのうち見ている方向は変わらないままに、頭のピントだけがずれてきた。
そして根拠のない怒りのようなものが沸いてきた。
怒り?いや、痛み?だろうか。――これは一体何なのか。
賢悟自身、今自分がどういう状態なのか分からなった。
胸中を突き上げる衝撃の位置づけ、今にも爆ぜて吹き飛びそうな理性、その根源。
惨めな気持ち、思い上がっていた自分への羞恥、おそらくはそんなところだろうか?それが烈火のごとく体内を焦がす。
立ち並ぶ林の木々を、一本残らずへし折ってしまいたい気持ちだった。
賢悟はその場に背を向けた。そして林を後にした。足早に現実から離れた。
さもないと、自分がどうなるか分からなかった。
「……」
さすがのハナも、その凄まじいまでの賢悟の情形に声をかけられず、抱き合う温彩と沖をちらりと見ると、そのまま黙って賢悟を追った。
一方浜の2人は―――
「先輩……離してもらえますか」
ポツリと温彩が言った。
「先輩、私の話しも、聞いて」
「ああ。ごめん」
温彩の背中から腕を解くと沖は、向い合ったまま半歩程隙間を空けたが、それでもまだ温彩は淡い霧の中にいるような、甘い空気の範疇にあった。
静寂でいて温かく、優しい光を含むオーラ。そして風を纏い辺りを包み込む。
でも……
すべてそれを引いてゆく波に、そっと押し流した。
ゆっくりと、話し始める。
「先輩……瑞樹先輩を大切にして下さい。私にはその、あまりかまわないで」
そう言って静かに横を向くと、黒い水平線の上に浮かぶさそり座があった。
大丈夫。周りの風景も、はっきりと見えている。
「瑞樹先輩と別れたりしないで。沖先輩は優しいから、だから私の事は勘違いなんだと思います。色々と心配かけたし……それで好きな気持ちとかを、きっと勘違いしてるだけだと思うんです」
そう言って沖のほうを向くと、肩の絆創膏をサッと剥いだ。
「こんな傷は治ります。すぐに。でも理不尽に負った心の傷は治らない。だから先輩もちゃんと瑞樹先輩を見てください。瑞樹先輩を傷つけないで……」
静聴していた沖が静かに口を開いた。
「そうだね。菅波の言うとおりかもしれない。でも……」
沖は温彩の肩に目をやった。
合計4つ、張ってあった絆創膏。その下に赤く窪んだ点が4つ。
「指の痕じゃない?これ」
沖は温彩の左腕を優しく持つと、その肩の傷を確かめた。
傷はもうふさがっている。
「例の……だろ?」
温彩は静かに俯いた。
そして、傷跡に触れる沖にあえて抵抗はしなかったが、でも凛として、再び沖の顔を見上げた。
「でも平気です。大丈夫ですから。先輩また方向間違えてる、今は瑞樹先輩の話し……」
温彩は肩を引くと、沖の手からそっと離れた。
「だね。ゴメン」
「先輩。さっきから謝ってばっかり……」
「だな」
「クス……やっぱり先輩、優しすぎです」
温彩は沖を見て笑った。ちゃんと笑えた。
沖も微笑を返すと、小さく溜息をついた。
「じゃあ優しさついでに言わせてもらうけど……」
そう言いながら、切なげな瞳で温彩の正面に立った。
「菅波は一人で物事を抱え込みすぎだ。我慢も度合いを越えると、解決どころか色んな事態が悪化することになりかねないだろ。本気で叔母さんには相談したの?」
温彩の叔母のお店。
その中の常連客に、いけ好かない中年実業家の男がいる。
町はずれの小料理屋に通うような類の男ではないはずなのだが、どうやら叔母を見初めているらしく、温彩が叔母のうちにやっかいになる以前からの客らしい。
現在叔母は、その男に金銭的援助をしてもらっている。
そしてその男には、大学生の一人息子がいた。
「……ええ。相談もしましたし、叔母もちゃんと考えてくれてますから大丈夫です」
その一人息子。
親の膝下で自由奔放にぶらついている形ばかりの大学生で、最近では温彩が帰る頃に店に立ち寄っては執拗に絡んできたりと、少々たちが悪かった。
親も親だった。息子が女将の姪にちょっかいを出しているのを酒の肴にし、袖手傍観を決め込んでいる。
沖と瑞樹は過去に何度か、そんな現場に遭遇したことがあったのだ。
心配そうに温彩の傷跡を見る沖。
温彩は、また肩に触れてきそうな沖からさりげなく離れた。
「‘大丈夫’って、癖で言ってるんじゃありませんよ?それにこれくらい問題じゃありません。あたし、学校や部活の事の方がずっと大事ですし……」
そう言って笑うと姿勢を正し、沖に向き直った。
「話し、戻しますね。先輩の目に映ってるのはあたしじゃなくて瑞樹先輩。あたしの事情に惑わされないで、先輩たちはちゃんと向き合うって、約束してください」
「まいったな……」
黒い水面のところどころがチラチラと繰り返し光り、2人の結末を見守る。
「振られちゃった?俺」
「だから、もともと違うんですって沖先輩」
迷いのない顔で微笑む温彩。
そんな温彩の表情を見た沖は、観念したかのように微笑み、僅かに顔を傾けた。
「わかったよ……菅波には負けちゃうな」
「ええ。部で随分鍛えられましたから」
そんな温彩の台詞に、2人は笑い合った。
「でもただ事じゃない時は必ず言って。できることはさせてくれよ。‘俺と瑞樹’に、ね?」
これでいいかい?というように、また顔を傾け、微笑んた。
「はい、ありがとうございます。お2人を、頼りにしてます」
海風に髪を揺らしながら温彩を見る沖はやっぱり甘くて、そしてきれいだった。
「先輩あたし、帰りますね。明日の試合頑張って下さい」
「うん、ありがとう。おやすみ菅波……」
「おやすみなさい、先輩」
天頂に横たわる天の川の下をくぐり、温彩は浜を出た。
その対岸から見送る沖に軽く会釈をし、温彩は部屋へ戻った。
「呼ばせてもらえなかったな、名前」
沖は夜の白浜から、揺らめく波間を見た。
そして温彩の言葉を思い返しながら、しばらく静かに風の音を聞いていた。