プロローグ:-A's side- 困惑
ある日の部活帰り、菅波温彩は町外れの河原に立ち寄った。
普段は友達と賑やかな下校タイムを過ごすのだが、この日は少し一人になりたくて、いつもなら通り過ぎるこの河原に下り、階段横の土手に腰を下ろした。
少し風にあたってから帰ろうと思った。
この河川敷には公園やゲートボール場などがあり、休日にはお弁当を広げる家族やカップルもいる。犬を散歩させる人もいる。
側らには小さな幾つかグランドもあり、少年野球などの練習が行われているのを見かけることもしばしば。
(そう言えば、今日はいないのかな?)
部活が終わった後も、毎日ここでボールを追いかけている学校一のサッカーバカがいる。
常にサッカーのことしか頭にない、同じ部の上代賢悟。同級生にして、ちょっと変人。
そうやってしばらく温彩は、なんでもないことを、考えるともなく考えた。
そして、暮れかかる空を見上げると、一つ溜息をついた。
実は今日、半ば逃げるようにして部活から帰路に着いたのだ。
雑用もたくさん残っていた。年度変わりでマネージャー業務も山ほどあったのだが、それでも温彩は足早に部室を立ち去った。
いつもなら一番最後まで居残り、その日の仕事は全て片付けてから帰る。
でも、今日は……
「一年部員くんたち、まだ残って片付けやってんだろうな。悪いことしちゃったな。明日謝んなきゃね」
一人ごち、少し笑って唇を噛んだ。そして膝の上にコツンと額を預けた。
夕風が吹き抜ける。
部活用にポニーテールに結わえた髪の裾がパタパタと左右に転がる。
温彩は髪もほどかずにここまで来たことに思い至った。夕刻にはまだまだ肌寒さの残る時期だ。首周りが少し寒い。
でも今は、冷たいくらいの風にあたって丁度いい。
温彩は今日あった‘衝撃の出来事’に思いを馳せた。
「なにがどうなって、こんなことになっちゃうんだろう……」
今度は深く溜息をついた。
「困るよ、沖先輩――」
『沖』とは、温彩の所属するサッカー部の三年生だ。
激しいスポーツをするにしては優美な雰囲気と、知的で艶のある面持ちをしている。
グランドでは藍色の髪を風になびかせて走り、人の目を惹き付けてやまない。
そんな女性も羨む相貌を持つ沖だったが、嫌みのない人柄で、いつも皆を温かく包みこむ。部でも無二の癒しの存在だ。
チームでは、エースストライカーとしての信用もあった。
容姿からは想像もつかないような鋭いプレーを見せる姿には、誰しもが見入ってしまうものがあった。
サッカー部の練習が始まると、沖ファンの女子生徒達が、いつも校舎の窓に張り付いているほどだ。
そう。温彩はそんな沖に今日「好きだ」と言われたのだ。
その瞬間、温彩は完全に、金縛りにかかってしまった。
もしも温彩の体が硝子でできていたとしたなら、その瞬間細部にまでひびが入った。
少しでも動くと壊れる――そうやって動けずにいると、沖は俯いたままの温彩にそっと近づき、ゆっくりと顔を覗き込んだ。
校舎の影。目の前にある沖の顔。安らぎをもたらす陽和な瞳。
心も体も、音を立てて砕けそうになった。
後ずさり、金縛りの体を引きずるようにしてその場から離れようとした時、沖に腕を掴まれた。
その腕から、体中に電流が流れた。
強い電撃に反応し、温彩は反射的に振り返った。
振り返ると、そこには悲しげな沖の顔があった。陽だまりの微笑みは消え、哀感の表情がそこにあった。
その時温彩は、小さく壊れた。
部活始めだったこともあり、誰かの呼ぶ声でその場は切り抜けたが、その後もしばらく、眩暈がするほど色々な思いに翻弄された。
一体何故なのか? どうしてなのか? どうすればいいのか? どうしたらいいのか?
もう、何がなんだか分からない。
なぜならば、たとえ沖の気持ちが真実だとしても、温彩はそれに答えることはできないのだから――
同じサッカー部の三年生の先輩マネージャー、藤沢瑞樹。清楚で色白で、校内では名高い美人。
マネージャー業務にもそつがなく、何よりも優しい。温彩はそんな瑞樹を、本当の姉のように慕っている。
兄弟のいない温彩にとって、瑞樹は本当に大切な存在だった。
そして沖は、その瑞樹の『恋人』 なのだ。
2人の仲のよさは周知のことだ。学校中の誰もが知っている。特に温彩は、それを近くで見てきた。そんな温彩のことを、瑞樹と沖は部活の後輩として以上に気にかけ、よくしてくれていた。
姉と兄がいっぺんにできたようで、温彩はそれを、心から嬉しく思っていた。
だからこの一年間、温彩は妹の位置から2人を見てきたのだ。だからこれはきっと、何かの間違い。
悪い冗談か、夢。
でも、あの時自分の腕を掴んだ沖の手――
沖から掴まれた時、そして振り返り悲しげな表情を見てしまった時、温彩は感じた。沖の気持ちは「嘘」ではない。
そしてその時の自分の揺らめきも、衝撃やショックなどではなく――
(どうして? どうして? どうして?)
沖のことを胸中に廻らせると、その中心を締め付けるような「何か」が騒ぐ。
「好きだ」と言われた瞬間から、ずっと騒いでいる。
温彩は頭を振った。それから瑞樹の顔を思い浮かべた。
それでも、否応なく襲ってくる得体の知れない「何か」は消えない。
温彩は苛んだ。困惑し、ざわめき、困惑し、またざわめく。
何度も、何度も。あの瞬間から、ずっと――
初春の河原にゆっくりと陽が落ちてゆく。川面に映りこんだほのかな夕映えの色が水音とともに揺れている。
温彩は膝を抱いたまま川面の反射光に目をやった。
そして一人、静かに当惑の涙をこぼした。




