-A's side- 道と、先輩の途中
朝の道
先輩の後を付いて歩いた
まるでスローモーションみたい……
目を伏せてたはずだったけどいつの間にか
ぼんやりと先輩の後ろ姿を見ていた
先輩の腕を見た
夏服に衣替えされカッターシャツ一枚になった袖からは
あの日私を掴んだ右手が覗く
そう
先輩の思いが伝道してきた しなやかで大きくて 力強い手……
ゆっくり歩道を進みながら
このままどこか知らないところに辿り着きそうな
そんな遠い気持ち
また香った 先輩の淡い匂い
あの時の香り
倒れそうなほどドキドキして 頭が真っ白になって
だから余計に 匂いの記憶が鮮明で……
ううん
何もかも
忘れられない記憶―――
温彩はあの時の、沖の表情を思い出した。
沖があんなに感情をあらわにしている顔を初めて見た。
瑞樹は沖のこんな顔を知っているだろうか……やはりたくさんの沖を知っているのだろうか。
色んな色んな、沖先輩を……
温彩は宙に浮いたような足取りで、ただ沖の後を進んでいた。
「―――なみ?」
声が聞こえたような気がした。
少し前を歩いていたはずの沖が、いつの間にか温彩に歩調を合わせ、傍から声をかけてきた。
「大丈夫? 菅波?」
温彩はハッとした。
ハッとし、心あらずにぼんやりしていたことに、思わず赤面しそうになった。
そしてブンブンと心のまやかしを振り払い、現実に前にいる沖に気を戻した。
「はっ、はい。大丈夫です!」
笑顔で答えて見せた。
「久しぶりだね、話すの」
温彩の右に位置を取り、横に並んだ沖が話しかける。
「はい……」
何かを語りかける時、僅かに顔を傾けるのは沖の癖だ。
その傾けられた顔と、光を注ぐような眼差しで微笑みかける目が、揺れる藍色の前髪と影とのコントラストで幻想的に映る。
沖は見てる者をたちまち魔法にかけてしまう。
沖の持つ空気は人の心を心を惑わせる。
温彩はなるべく沖を見ないようにした。
「最近家の方は平気?無理はしてない?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そう、良かった。瑞樹も心配してたから」
温彩は沖から瑞樹の名前が出たのに少し安堵した。
(良かった、先輩たちはうまくやってるんだ)
先輩マネージャーの瑞樹は、いつも温彩を心配してくれている。
遊びがてら小料理屋の温彩の家までやってきては、家での温彩の様子を伺って帰ったりする。
沖もそのことを知っていた。帰りの遅くなった日には、瑞樹を迎えに幾度か温彩の家まできたこともあった。
その時、店のトラブルでちょっとしたことがあり、それ以来2人はより一層温彩のことを気にかけるようになった。
「頑張りすぎないように。‘大丈夫’って、菅波の口癖だから」
瑞樹と同じことを言う沖。
少し気分の軽くなった温彩は、「はい、気をつけます」と、普段の様に元気に明るく笑って見せた。
沖も笑って言った。
「何かあったらさ、いつでも相談して」
(良かった。やっぱり思い違いだ)
温彩は安堵の息を漏らす。
瑞樹と同じく、自分のことを妹の様に思い心配してくれてる。そういう風に「好いて」くれてるのだ。
しかし、終わったかと思っていた沖の言葉は続いた。
いつでも相談して――そこで終わりだと思っていたが、違っていた。
「瑞樹にでも……」
そういうと沖は少し前に出て、急に温彩に向きなおり立ち止まった。
「いや。俺に、かな………菅波」
沖は温彩の正面に立ち、小さく広げた手の平を温彩に差し出してきたのだ。
「ねえ、菅波」
ス、ガ、ナ、ミ………
先輩の 香りがする……
そして 少し顔を傾けた…… いつもの優しい……
いや
切ない 眼差し―――
先輩の前髪が揺れてる
何かを語りかけてくる
目で
そして 手を差し伸べて………
『コノテヲ、トッテ』
(ダメ……!!!!!)
温彩はとっさに翻り、沖の手をかわした。
(やだ……ダメだ先輩……!)
そう思い、すぐさま跳ねのいた。
「先ぱい……!あ、あたし……!」
温彩が沖に向かって口を開きかけた時、その肩越しに大きく手を振る影が見えた。
「お~い!沖ぃ~、菅波ぃー!待ってたぞぉぉぉ」
小林だ。
そしてその後ろで、瑞樹も手を振っている。
沖は慌てることもなく、それに手を上げて答えた。
温彩もそれに従い、駅前の2人に向かって手を振り返した。
気付けば随分、陽が高くなっていた。
温彩の周りでは、爽やかな初夏の午前中が始まろうとしている。
しかし……
道と、先輩の途中―――
夏の初め、季節の狭間に、この心をおきざりにできればいいのに。