プロローグ:-K's side- オレの場所
街の中央に流れる川と、そのシンボルである河川敷公園。ここにも再び、春が訪れようとしている。
寒々しかった河原の景色もポツリポツリと色を付け、ぼやけていた季節の輪郭を取り戻し始めていた。
日が暮れかける頃、上代賢悟はいつもここにくる。賢悟とボールとの格闘音が、毎日に響き渡る。
橋げた付近でズバンズバンと繰り返されるその音と、ブレザーとカッターを脱ぎ捨てTシャツになり、サッカーボールをコンクリートに打ち付ける男子学生の姿は、今や河原の夕刻の風景の一つだった。
「おーい、賢悟!」
遊歩道の上から、私立高校の制服を身につけた学生が、賢悟に向かって叫んだ。
「部活の延長か? お前のサッカーバカは筋金入りだねえ!」
黙々とボールを追う賢悟に冷やかしを浴びせる。
黒髪に鋭い眼差しがトレードマークの賢悟。無造作な黒髪が風になびくと、どことなく鬣を震わせる獅子の姿を思わせた。
そんな雰囲気と恵まれた体格のせいか、高校生とは思えない気迫に満ちている。
「ほどほどにしとけよ~賢悟!」
遊歩道からの揶揄ともとれる声援に、賢悟は足の間にボールを戻すと、彼らのほうをチラリと見上げ、渋面を作ることで返答した。賢悟はいつだって‘無愛想’だ。
友人が去ると、再び壁にボールを打ちつけた。
所属するサッカー部の練習が終わると、蹴っても蹴っても蹴り足りない底なしの欲求を満たすため、ここで貪欲にボールに向かう。それが日課だ。
いつものようにくるりと身を翻し、返ってきた球を受けた。そしてテンポよくリフティングへと移る、はずだった。
「っ、くそ」
受けた右足の角度を反れて、ボールは外側へと飛んだ。
実はここ数日、調子が出なかった。
ボールコントロールには定評がある。バランス感覚にも自信はある。普通ならこんな陳腐なミスなんかしないけれど、どういうわけか近頃しっくりこない。
賢悟は草の上に胡坐をかいた。
ざわつく気持ちに憮然とし、上目で空を睨む。そして、ごろりと土手に背中を預けた。
(ったく、なんなんだアイツは)
実は今、消しても消しても頭の中に居座り続ける、ある‘存在’があった。
ついこの間のこと。この河原で、同じサッカー部のマネージャー、菅波温彩が土手に座っているのを見かけた。
温彩とは部活だけでなく、二年に進級した今春も、また同じクラスになった。
男女や学年を問わず皆から慕われている温彩は、マネージャーとしての評判も良く、明朗で誠実で、色んなことによく励む心根のいい子だった。ちまたでは‘運動部マネージャーの天使’などと呼ばれているとかなんとか。
そんな温彩の良評を、賢悟も否とは思わない。天使という歯が浮くようなフレーズはさておき、痒いところに手の届く、よく出来たマネージャーだとは思う。
まあ、どうでもいいことなのだけれど。
賢悟の方はというと、温彩とは正反対だった。あまり人を寄せ付けないその雰囲気に、賢悟を「コワイ」と思う生徒も多くいた。
でも実際、それでよかった。誰かと狎れあう気は特になかった。サッカー以外のことは、賢悟にとってはどうでもいいことだった。
そういうわけで、温彩とも普段、特別親しくするわけでも、話しかけるでもない。
しかし当の温彩ときたら、そのマネージャーの才覚なのか、または生まれつきの天然なのか、頑ななシールドを張り巡らせている賢悟にも臆することなく、「ケンゴ、ケンゴ」と気軽に接してきた。
いくら無視をしても、それを無視するかのように笑いかけてくる。
とにかく温彩は温和で、いつも人に囲まれていた。
だから温彩が、こんなところに一人ぼっちでいるなんて、珍しいなと賢悟は思ったのだ。
初めは土手に座ってる温彩に気付いても気にも留めなかっが、なんとなくいつもと違っている温彩に徐々に違和感を覚え、たまには一言声くらいかけとくかと、賢悟は温彩の座る方へと歩みを向けた。
そうして近づいた時、温彩の落涙を見たのだ。
「!?」
気安く人の名を呼び、笑顔を向けてくる‘天使’が、人目を偲ぶようにして泣いている。
これは賢悟でなくともハッとする。
どうしていいか分からなくなり、賢悟は慌てて河原を立ち去ってしまった。
微笑みの印象しか持っていなかった温彩が、はらりと涙をこぼしたのを見て、酷く狼狽した。
しかし、しばらく帰路を進んだものの、陽が落ちると一気に闇に包まれる土手下が気になり始めた。遊歩道の上には外灯があるが、その下は真っ暗になってしまう。
戸惑いはあったけれど、賢悟はボールを持ったまま遊歩道へと引き返した。そしてガードレールに身を乗り出し、温彩のいた辺りを見渡した。
その時、左手から声がした。
「あれ、ケーンゴ?」
温彩だった。
土手で一人ぼっちに涙していたはずの温彩が、笑いながらこちらに手を振っている。
「どうしたの? 今から練習? でももう、河原真っ暗だよ」
「!!」
賢悟は言葉に詰まってしまった。咄嗟のことに返答することもできず、背中を翻した。そして無言のまま、来た道をずんずんと大股で引き返した。
「あ、あれ?」
不思議顔の温彩。でもそんなのお構いなしだ。賢悟はそのまま遊歩道を後にした。
さっきまで泣いていたと思ったのに、今はもういつもと変わらぬ様子の温彩。こちらの心配をよそに「もう真っ暗だよ?」などと心配で返され、分けがわからず背中を向けてしまった。
帰そうとしたのに折り返したことも、柄にもないことをしたような気がした。心配して損をしたという気持ちとそれが入り混じり、動揺と同時に妙にムシャクシャした。
腹立たしい。実に腹立たしい。なんとなくペースを乱された気がして、腹立たしい!
そして、今に至る。
賢悟は身を起こすと、今日は来てないよな、と、周りを睨みつけるように様子を探った。
温彩の姿がないことを確認し、再び寝転がる。
何故だかどうにも、気持ちが散漫している。
あってはならない集中力の欠落。得意なはずのボール捌きの乱れ。ますますをもって、腹立たしい。
賢悟は舌打ちをすると、茜色に染まった空を仰いだ。
少しは気分が落ち着くかと目を閉じてみたら、泣いている温彩の残像が眼裏をよぎった。
慌てて目を開けた。
いつもの慣れ親しんだ草原が映る。なのに、土手の芝生が、川の水面が、練習場所の風景が、いつもと違う所のように見えた。
(あークソ!)
今度は頭をバリバリと掻いた。ヘの字に結んだ口の端っこを歪ませ、脇腹のサッカーボールに八つ当たりをする。
(ここ、オレの場所だぞ!)
賢悟は勢いをつけて起き上がった。
橋げたに向かってボールを放つと、雑念を振りはらうように走り出た。