我が家に来たる珍客
僕の姉さんは変だ。決して悪人とは言わないが、それでも世間一般で言うところの善人というやつでもない気がする。
「真人、コーヒー淹れてくれよ」
「はいはい、ただいま」
朝から偉そうに命令してくるのが、僕が二十年も連れ添っている愛子姉さんだ。
朝起きればめんどくさそうに新聞を広げ、僕にコーヒーを淹れさせる。どうせインスタントなのに、姉さんは僕が淹れたものしか飲まない。不思議な事だが、味によって誰が淹れたものか区別がつくのだ。
学生時代、どうせ分からないだろうと思ってイタズラしてやったら、「くだらない事は辞めろ」と怒られてしまった。いくつか用意したコップの中から正確に僕の淹れた物を選び取った時、やはり姉さんはおかしいのだと再認識したのだった。
「見ろ、新元号が制定されたぞ。いきなり言われてもいまいちピンと来ないね」
姉さんが新聞の一面を手の甲で叩いて示す。今日は五月一日。一つの時代が、昨日終わりを告げた。
「そうかい? 僕はなかなかだと思うな。発表から一ヶ月も経ったわけだし」
初めはどうなるのかと不安だったが、実際に変わってみると違和感はない。
どうやら僕がそう答えた事が気に食わないらしく、姉さんの口調が強くなった。
「順応性が高いのはいい事だがね? それが、長いものには巻かれていればいいって感覚に起因するものなら、私は君に警告しなくてはならない」
僕の姉さんは変だ。決して悪人とは言わないが、どうにも捻くれた考え方をする。
こういう時は、反論なんてしない方がいい。「捻くれてるよ」なんて言おうものなら、三十分は説教が続けられてしまう。休日の朝からそれはごめんだ。
「じゃあ、僕が巻かれそうになったら、姉さんが注意しておくれよ」
「そうしよう」
姉さんは飲み終えたコップも片付けないので、僕が確認して気を回す。必ず「おかわりは?」と聞いてからでないと「勝手に片付けるなよ」と怒られるので、一言かけるのを忘れてはいけない。
僕の姉さんは変だ。僕はいつも、理不尽が極まっていると表現している。もちろんそんな事を言えば烈火のごとく面倒な事をまくし立てるのは明白なので、言葉にした事は一度もない。
そんな、いつもの朝。休日の始まり。
姉さんは朝食を食べない。いつも一杯か二杯のコーヒーだけだ。空きっ腹に入るコーヒーは胃に悪そうだと思うのだが、姉さんはどうにも小食で、朝は食べ物を胃が受け付けないのだという。「だったらコーヒーもやめておいた方がいい」と言ったら、「いや、せめてコーヒーくらい飲ませてくれ」と返された。僕が高校生の頃の話だが、今でも納得していない。
「真人、窓を閉めてくれよ。朝は寒くてかなわない」
「あぁ、はいはい。窓ね、窓」
姉さんはきっと、僕の事を召使いか何かと勘違いしている。新聞から目を離さずに、僕がやって当然と言わんばかりの態度で踏ん反り返っている。
ほんの十㎝ばかり空いている窓からは、確かに朝特有の肌寒い空気が流れ込んでくる。天気は快晴だというのに、暖かさはまだ沁みてこない。昼間はだいぶ暖かくなってきたが、まだまだ朝と夜はずいぶん冷え込んでしまうので、まだ少しの間は暖房のお世話になりそうだ。
窓辺に飾ってある小さな観葉植物が風を受けて揺らめいた。先端が僅かに欠けている葉っぱの影が、身震いするように室内に落っこちている。
「なんだって窓が空いているんだ」
姉さんが不満げに呟いた。
「え、僕じゃないけど」
その言葉に、姉さんが僕を見る。
姉さんが新聞から目を離すのは読み終わった時か、それ以外に興味のある事を見つけた時だけだ。見れば、新聞にはまだ半分ほどほページが残っているようなので、今回は後者という事になる。
「誰が開けたんだ?」
そう言えば、昨日窓の鍵を閉めた覚えがない。いつもならまず間違いなく鍵が閉まっているのかを確認してから眠りにつくのだが、昨日は残業続きでずいぶん疲れていた。いつもの習慣を忘れてしまう事は充分に考えられる。世間がゴールデンウイークに浮かれている中に行う残業は、それだけ精神にくるものがあった。
「…………」
いつもは必ず隅々まで読む新聞をテーブルの脇に置き、姉さんはいつになく真面目な面持ちを見せる。その調子をもっといつも発揮してほしいと思うが、それを口にすればたちまち機嫌が悪くなってしまうのは明白なので黙っている事にしよう。それに、これは姉さんが真面目になってしまうのも分かるような一大事だ。
「家の中、荒らされてやしないかい?」
「すぐに探すよ」
言うが早いか、僕はすぐに駆け出した。何せおそらく僕の失態だ。これで何かあったなら、責任感で押しつぶされてしまう。
まずは、とりあえず自室だろう。小さめのベッド、中身があまり入れられていない衣装タンス。そして、部屋の隅には仕事カバンが置かれている。この部屋にある物なんて、それが大体全部だ。あまり広いと言えない部屋だが、それでも広さを持て余す。姉さんは見窄らしいと言うが、個人的には片付いていると表現してもらいたいものだ。
自分の部屋を見ても、何も盗まれている様子はない。そもそも先ほどまで僕が眠っていたのだからこの部屋に入られるとは思えないが、それでも一番盗みに入るメリットが大きいのはこの場所だ。財布もヘソクリも通帳も印鑑もある。それらの無事は確認できた。ひとまず取り返しのつかない事態ではないと安心する。
そしてその間、姉さんはリビングから動いていないようだった。
「姉さんの部屋は?」
「何が?」
姉さんは首をかしげる。信じられない事ではあるが、ふざけているわけでなく、本当に分からないらしい。
僕の姉さんは変だ。時折、会話すらままならなくなる。
「……姉さんの部屋は何も盗まれてない?」
分かりやすく、噛み砕き、僕は説明する。姉さんの言動にいちいち腹を立てたりしない。なにせ、僕達は産まれてから二十年もの付き合いなのだから。
「あー、多分大丈夫だろう」
「僕が探すよ」
即答した。なんとなく、その様な返答があるのではないかも思っていた。
姉さんの無精には困ったものだ。面倒臭がっている場合ではないだろうに、椅子から立ち上がってすらいないのだ。ならば、僕が代わりに確認するしかないだろう。
「待て真人! 待つんだ!」
「何さ」
姉さんがようやく立ち上がって、僕の腕を掴んだ。あんまり弱い力なので振りほどくのは簡単だが、表情はずいぶんと必死なものだった。
「れ、レディの部屋に勝手に入るなんて失礼だぞ! デリカシーってものを覚えろよ!」
「下着の洗濯までさせて今更デリカシーもないだろ」
僕の姉さんは変だ。物事の優先順位というものが、僕とことごとく違っている。
「私が見る! 文句ないだろ、私がちゃんと確認する!」
「初めからそうして」
不機嫌だと隠しもせずに大きな足音を立てて走っていく姉さんの背中に、僕の声は届いただろうか。イマイチ届いた気がしない。次に同じような事があれば、また同じようなやり取りをするだろうという予感がある。確信と言ってもいい。
「まったく……」
ため息ひとつ。見送った姉さんの背中は、どうにも頼りなかった。
姉さんが自分の部屋を見ている間、僕は家の中を見て回ろう。隅々までとはいかないだろうが、少なくとも取られて困るような物の無事を確認しなくては落ち着かない。
差し当たって、台所に飾ってあるキャラクター物の皿は無事だった。いつも窓辺に飾ってあり、愛らしいネズミのキャラクターがいつも僕の方を見つめてくる。
学生時代に、修学旅行でお土産に買ってきた物だ。大人気のテーマパークなので姉さんも喜ぶだろうと思っていたのだが、「ネズミを見て喜ぶ女がいるか」と一蹴された。
にべもしゃりしゃりもない。
もう何年も前の話だ。あのテーマパークは次から次に新しいグッズを販売するので、逆に昔の物は高値がつくかもしれないと思ったのだが、どうやら見向きもされなかったようだ。
いや、まだ入られたと決まったわけではないけれど。
ともかく、無事ならそれでよかった。結構気に入っているのだ。ちょっと置き位置が歪んでいるようなので、真っ直ぐにしておいた。
あまり広くない家だ。探すべき場所は、そう多くない。トイレや風呂場まで探しても、どうやら盗まれた物は見当たらなかった。
ならば物置はどうだろうか。目ぼしい物で溢れているとは言えないが、もしかしたら自分達でも忘れているような物があるかもしれない。それが盗まれていたからといってわかるのかは別にして、とりあえず見てみる方がいいだろう。まず間違いなく、この家で一番物が多い場所はそこなのだから。
我が家の物置は、それなりに大きい。一階のトイレの奥にある扉の先には、僕の部屋よりも広い収納スペースが存在している。姉さんの荷物を収めるには、それくらいの空間が必要なのだ。物持ちがいいと言うか捨てる事が苦手な姉さんにかかれば、そんな広々とした空間もテトリスかと思うほど隙間なく埋められてしまう。
扉はいつだって半開きだ。なにせ、部屋の中の物が多すぎてちゃんと閉める事ができない。どうにか体重かけて閉めようとするのだが、いつからか壊れてしまったせいで勝手に開いてきてしまう。
今日も、問題の扉は開きっぱなしだった。
探すのを後回しにしていた理由がこれだ。とてもではないが、時間がかかってしまう。しかし、別に見る必要はなかったかもしれない。事実、足の踏み場もないようなその空間を見れば、誰も中に入っていない事は一目瞭然だ。扉を開けた廊下と部屋の中の境ギリギリの位置に、大きな段ボール箱が積まれていた。中もほとんどそんな感じだ。姉さんの驚くべき(本当にいろんな意味で驚くべき)収納テクニックによって詰め込まれた大荷物は、一度出してしまえば姉さん以外に入れ直す事のできる人間はいない。もしもこの中が物色されていたならば、この段ボールは廊下まではみ出しているはずだ。いや、今でも少しはみ出しているのだが。
「真人! そこに入るんじゃない!」
背後から声がかかる。
「むしろどうやって入るのさ」
どうやら自室の確認を終えたらしい姉さんが、息を切らしながら詰め寄ってきた。随分時間をかけていた様だが、姉さんの部屋は物で溢れているため確認に時間がかかったのだろう。物置に大量の荷物を詰めてなお、姉さんの所持品は片付く様子を見せない。その上まともな片付けをしようとしないのだから始末が悪い。前に「片付けを手伝おうか?」と聞いたら、大慌てで断られてしまった。それから、姉さんの私物には指一本触れていない。姉さんは図太い様でデリケートなので、僕の方が気を回す必要がある。
「私の荷物だぞ!」
「僕の荷物だってあるよ」
「微々たる量だ!」
あまりに理不尽。
僕が必要な物を探そうと思った時、一体どうしたらいいというのか。いちいち姉さんに伺いを立てて、頭を下げてお願いするしかない。現に、今はそうやっている。
決して、僕の荷物が少ないわけではないはずだ。一般的な成人男性として考えたとき、常識的な荷物量だと思っている(もちろん、他人の荷物量など正確に把握しているはずもないが、おそらくはそうだろうと思う)。姉さんが多すぎるのだ。相対的にという意味であれば、確かに僕の荷物など微々たるものなのだろう。
ついついため息が出てしまうが、文句を言ったところで仕方がない。姉さんは僕の言葉なんかに耳を貸さないし、僕は姉さんに言って聞かせるほど熱心じゃない。
「そんな事より……」
「そんな事とはなんだ!」
「ああ、うん。部屋は大丈夫だったの?」
僕の姉さんは変だ。会話の順序より、自分の言いたい事を優先する。
「平和なものさ。何も荒らされちゃいないよ」
姉さんは得意げに肩をすくめる。大丈夫だって言ったろうとでも言いたげなその表情は、なんとも言えず腹立たしかった。別に口に出したりしないけど。
しかしそうなれば、やはり何も盗まれてはいないのだろうか。もちろん見落としの可能性もあるが、少なくともすぐに目につくような物は無事だった。杞憂だったという事も、充分に考えられる。
「で、その中、探してないだろうね?」
姉さんは物置を指差す。話が戻ってしまった。よっぽど見られたくない物があるらしい。
「こんな中を探すのは大変だし、こんな中に入るのは難しいだろう?」
「つまり探してないんだな。入ってないんだな」
何を言っているのか。入るわけがない。ここに入る必要が、あるようには思えない。
しかし姉さんはこう言うのだ。
「じゃあ私が探そう」
「探すの?」
この中に入れる人間がいるとは思えない。天井との間に僅かな隙間があるだけで、子供だって入れるものか。
——そう、思っていたけれど。
音が聞こえた。明らかに物置の中から、トタトタという軽い音が。あるいは何かが倒れた音なのだろうか。しかし例えそうであったとしても、見てみない事には始まらない。もしかしたら、などと思いながら眠る事ができるはずもない。
不安で、不安で、仕方がなくなってしまった。
「探さないといけなくなったね」
「どうやって……?」
まさか、荷物を全て外に出すとでも言うのだろうか。一体どれだけ時間がかかるかわかったものじゃない。さらに言えば、姉さんは僕が手伝おうとしても断るだろう。たった一人では(特に、姉さんの様に非力な人間では)何日あっても終わらない。しかし、どれだけ時間がかかったとしても、無視するなどという選択肢はない。僕は、全く徒労だったねと、無駄な事だったねと、胸をなでおろしたくて仕方がない。それは骨折り損かもしれないが、骨折り損がしたくてたまらないのだ。やはり、頭を下げてでも手伝うべきだろうか。
そんな僕の心配をよそに、姉さんは口元に笑みをたたえている。
「すぐに終わるさ。簡単だよ」
僕の姉さんは変だ。得意げに、事もなさげに、なぜそんな態度が取れるのだろうか。
「どうやって? 相手は自分から出てきてくれたりはしないよ」
「いいや出てくるよ。簡単だって言ってるだろう」
先んじて言うならば、姉さんの言葉通りこの事態は呆気なく幕を閉じる。拍子抜けと言ってもいい。
「おかしいじゃないか、窓が開いたままなんて。普通だったら閉めるだろう」
「そりゃ、まぁ……」
「それだけじゃない。お前が気がついたかは知らないが、今日の家の中には充分なヒントが確かにあった。植物が欠けていただろう? 皿が動いていただろう? なんでだと思う?」
姉さんは肩をすくめる。僕に問いかけ、不敵に笑う。確かに、言われてみれば不自然だ。もしも忍び込んだのなら、窓を開けたままになどしないだろう。しかもたった十㎝だけともなればなおさら。
「この中にいるのだとしたら、それは自然な事だよ。なにせ、ここは扉が閉められていなかったんだからね。きっと、他の部屋には入れなかったろうと思うよ」
「それはつまり……」
ようやく、僕にもこの事態のあらましが理解できた。
「きっと何も盗まれてはいないだろうね。盗むはず、ないと思うね」
開けっ放しにされて閉じられていない窓、欠けた植物、僅かに位置がずれていた飾り皿、そして閉じる事ができなかった物置の扉と、その内側から聞こえてきた小さな物音。これらを合わせて考えたなら、やはり妥当な答えは一つしかない。
「マタタビを買ってきなさい。事件はそれだけで解決だ」
姉さんは、当たり前のように僕に買いに行くよう言った。
窓が開けられているのは不自然かと思ったが、そんな事はなかった。むしろ閉められていたなら、その方が驚きだろう。植物が欠けていたのは、おそらく齧られたからだ。狭いところに入り込む習性を考えれば、皿の後ろに入り込もうとしてずらしてしまったのだろうと予測できる。そして、物置の隙間に入り込む事もできる生き物といえば、思い当たる節もあろうというものだ。
僕の姉さんは変だ。いつもは頼りないくせして、いざという時だけすごく冴える。
物置の奥からは、愛らしいニャンという鳴き声が聞こえてきた。
「名前を付けないと……」
僕はそう呟いたが、後から考えると我ながら間が抜けた事を言ったものだと感じる。
そんなわけで、我が家に家族が増えたのだった。