天秤を揺らす
「誰、ですか?」
「ふむ。そう問われるのは久しいな。そうさな、私は……影かな」
彼女は答えた。自分は影。それこそさっき先生から出てきた赤い眼光のようだ。
しかし、先生は至って涼しい顔で異を唱えていた。
「こいつは万代利果。社会的にはニートに属する部類だ。関わらない方が身のためだぞ」
「言いがかりはよしてくれ。まあ否定はしないが……話は使い魔経由で聞いたぞ。ミーズキッド、お前は彼女に隠しているのか?」
「無論だ。こいつをお前らに関わらせる気はない」
「まさかこれからずっと隠し通せるものとでも思っているのか? わかってない、まるでわかっていない。女というのは、男が思っている以上に鋭い生き物なんだよ。だからこれは時間の問題。むしろこの事件がいい機会になっただろう」
彼女は不敵な笑みを浮かべ、わたしと先生を円で囲うように歩いていた。
2人が何の話をしているかなどわからない。が、彼女はわたしについて語っている。
初対面の人にとやかく言われるのはさておき、そこまで知られていることが恐ろしい。おそらく先生が話したのだろうが……
「ならばこうしよう。私は若干20歳の女性を誘拐。私的趣味によって拉致した。そのとき聞かれた情報云々は聞かれていないものだと想定していた。これならば、秘匿の義務に反すことなく、まあバレた場合は怒られるのが私、というのが難点だがね」
「……だが、俺は楓に普通の生活を送ってほしい。異常なのは俺だけでいいんだ!」
「呆れた。強情もここまでくると面倒以外の何者でもないな。じゃあ本人に聞いてみようじゃないか」
灰色の瞳がわたしを覗き込む。
背中にびりりとなにかが走ったような気がする。
今までに感じたことはない。だがこれは間違いなく殺意に似ている。
なぜ向けられているかはわからない。けれど、どうしても彼女に聞かなければならない。
震える唇を噛んで、その言葉は漏れ出した。
「わたしが連れ去られれば、先生のためになりますか?」
「無論だ。こんな世話を焼くことは私の人生でもそう多くない、これはチャンスだぞ?」
「やめろ楓。そいつの話を聞けば、元の日常には戻れないぞ」
わたしの中の天秤が揺れる。
先生の手を取り、今まで通りの日常を得るか。
彼女の手を取り、わたしの知らないなにかを知ることで先生の新たな力となるか。
揺れる。揺れる。
もちろん、わたしにも積み上げてきたものがある。
家族や友達はもちろん、知識、経験、それらから得たわたしの人生観がある。
だからきっと、わたしは先生の手を取る。
いつもなら。
「先生はバカですね」
「は?」
「先生と出会ったときから、わたしの常識なんてとっくに壊れてます。それに、何度も言いましたがわたしは今回の事件に最後まで関わると決めました。先生の力になれないのは、今のわたしにとって1番悔しいことですから」
先生に背を向け、今日会ったばかりの女性。万代さんの隣に立つ。
何を隠していたかなんて想像もつかない。けれど、これから知ればいい。
先生が教えてくれないのなら他の人から聞けばいい。
先生の秘密を知っていて、良くも悪くも先生を裏切れる、そんな人物がいるのなら尚更だ。
「ほぉ。もっと気の弱い娘だと思っていたんだが、ミーズキッドにも負けない頑固者じゃないか」
「……ひとつ、条件がある」
反論する気を失ったのか、先生は諦めたといわんばかりの大きな溜め息を吐いた後、わたしへ条件を提示した。
「こいつ以外で『連合』を名乗る奴には近づくな。話も聞くな。言いたくはないが、そいつは信用に値する人物だ。だから特別に許す」
「先生……」
頭を抱える先生。そして隣でニマニマとやや気持ち悪い笑みを浮かべている万代さん。
選んでおいてなんだけど、本当にこの人についていって大丈夫だろうか?
「いい話も聞けたし、私は予定通り彼女を誘拐するとしよう。それではな」
「いや、誘拐の必要はないだろ。なんだったらここで話してもいい」
「それは違うぞミーズキッド。私は彼女と話がしたい。女だけの秘密の話さ」
ぎくりと肩が揺れる。はっと万代さんを見れば、それはもう満足そうな笑みでわたしを見ている。
「やっぱり、先生から聞こうか……なっ?!」
最後まで言わせる暇もなく、万代さんの手はわたしの首に添えられ、ぐいっと顔を寄せられる。
近い。彼女の長い髪はわたしの頬に触れていて、吐息が聞こえるほどに。
「交渉は成立した。つまり君の所有権は今私が持っている。誘拐された哀れな少女よ、無駄な抵抗はしない方が身のためだぞ?」
「わたしの意思は?!」
覗き込む灰色の瞳。ちらりと後ろを見れば、彼女の影から赤い瞳に睨まれているようだった。
細い指が、わたしの頬をつつく。再び、初めて見たときと同じ感覚に陥る。
やはりこれは殺意だ。紛れもなく、しかして口調からは一切読み取れない。
だからこそ、この人から発する圧のようなものが、より恐怖を膨らませているのかもしれない。
「じゃあ彼女はいただいていくぞ。お前はせいぜい、魔術の鍛錬にでも励んでいたまえ」
わたしの手を引いて部屋から退出する。先生は振り向くでもなく、しかし確かに口にしてくれた。
「気を付けて行けよ」
「……はい。行ってきます」
かくしてわたしは、先生の友人……かもしれない、万代さんについていくことになった。
今回の事件を解決するために。他ならぬ先生の役に立つために。
☆
「まあ好きにくつろいでくれ。客人をもてなすのは不慣れ故、不躾なことをしてしまったら流してくれ」
「は、はぁ。それにしても……」
なんと陰鬱な工房だろうか。
明かりは天井の蛍光灯と、机らしきものの上に置かれている間接照明のみ。それだけでも十分暗いのに、地下にあるため日の入る窓は1つとしてない。
壁を覆う巨大な棚の中身は、見たことのない言語で綴られた表紙の本、奇妙な色をした水の入ったビーカー、動物らしき骨の標本なんかが飾られている。
部屋の中央にあたるテーブルには赤い布が被せられているが、ところどころに赤茶色のシミがついている。
ここにいれば、あの奇奇怪怪な服装をした万代さんも背景に馴染む。むしろここまでの道のりで浴びた視線がどれだけ痛かったことか。
当の本人は涼しい顔で歩いていたが、わたしは気が気でなかった。
やはり、この人は異常だ。
テーブルを挟んで向かい合うわたしと万代さん。
肘を置き、頬杖をついてこちらを見つめる彼女。一息ついて、彼女は気だるげに話し始めた。
「さて、どこから話そうかな。君は確か、ミーズキッドのいた世界に行ったことがあるのだろう? ならば、魔術について説明する必要はないだろう?」
こくり、とわたしは一度頷く。
「じゃあ問おう。君は、幽霊を信じるかい?」
「えっ、なんですか急に」
「イエスかノーで答えればいいんだよ?」
「の、ノーです」
「その心は?」
「わたしは見たことがないし、そういう特集を見ても、偽装に見えるというか……証明されていないから、ですかね?」
「そう、それだよ」
彼女は核心を見つけたようにキメ顔で、やや声のトーンを下げて遮った。
彼女は立ち上がると、棚の一番上から小さな小瓶を取り出し、わたしの前に置いた。
「じゃあ次の質問だ。この水は何色に見える?」
「透明、ですよね?」
「いや。これは青だよ」
「……どういうことですか?」
間違いない。それは透明の瓶に入った、透明な水だった。
光の反射でもない。どこからどう見ても――
「これが、君の知らない現実というものだ。まだ多くの人はそこにあることすら気がついていない、魔力という概念。そして、同時に透けて見えてくるのが……私やミーズキッドのいる、現実の裏。魔術師と呼ばれる人間たちの世界さ」
わたしは、今日この瞬間から知ることとなる。
異世界なんて目じゃないほどの、常識の崩壊を目の当たりにすることとなるのだろう。