シスコン王子は救えない!
私の婚約者である、キルシー国第五王子カルセドニー殿下は、第四王女であるローズ殿下が大好きだ。
虐げられても、突っぱねられても、無視されても、大好きだ。
ローズ王女に死ねと言われたら、あっさり死ぬんじゃないかと思うくらいに大好きだ。
あんまり大好きだと表現するものだから。
もしかしなくても、婚約者の私、アメジストよりも大好きなんだろう、と思う。
◇
「ごきげんよう、カルセドニー殿下」
私がドレスの裾を少し持ち上げてそう言うと、カルセドニーはにっこりと微笑んだ。
「アメジスト、よく来たね」
そう言って私に近寄ると、私の前髪に触れ、掻き上げるとしばらく私の額を見つめる。
そして、額の隅にある傷痕に、口づけた。
これはもう、十年以上も続いている、私たちの儀式。
その小さな傷痕が、私たちを婚約者たらしめているのだ。
「良い茶葉が手に入りましたの。ぜひ殿下とご一緒させていただきたくて」
「そう、それは嬉しいな。すぐにでもいただこう。天気もいいし、よければ外で」
「ええ」
私たちは花壇のある中庭に向かい、そこにあるテーブルと椅子に向かい合わせに腰掛ける。
侍女がお湯やポットや茶器を用意してくれて、私はお茶を淹れる。
お茶の入った茶器を王子の前に差し出すと、彼は茶器を手に取り、顔を近付けた。
「ああ、これはいい香りだ」
「でしょう?」
そして私たちは微笑み合う。
暖かな日差しの中。花壇の花々が揺れている。
ああ、なんて穏やかな時間なんだろう。
やっぱり私、この人と婚約できて良かったのだわ。
なんてことを考えていたら。
「あっ、ローズ!」
廊下をしずしずと歩く王女の姿を視界に入れたとたん、カルセドニーはさっと椅子から立ち上がり、ぱたぱたと彼女の傍に駆け寄っていった。
私はがっくりと肩を落とす。
ですよねー。
「……お兄さま」
こちらに振り向いた王女は、その形の良い眉を寄せた。
「今日も綺麗だね、ローズ」
にこにこと笑いながら、カルセドニーは王女に言った。
ええと、言われたローズ殿下は、潰した虫を見る目をしてますけど?
「お兄さま? わたくしはこれからお茶会ですの。では失礼」
彼の褒め言葉に反応することなく、王女は会話を打ち切ってきた。
「僕たちもお茶を飲んでいるんだよ。こちらにどう?」
カルセドニーは、めげていない。いや、めげようよ、そこは。
ローズ王女はこちらにちらりと視線を寄越すと、ため息をついた。
「アメジストさまがお待ちではないですか。わたくしはわたくしで友人と楽しみますわ」
「でも、いい茶葉なんだよ、アメジストが持って来てくれたんだ」
「それはまた次の機会に」
「そんなこと言わずに」
ローズ王女は、長く深いため息をついたあと。
「しつっこい!」
そう一喝すると、くるりと背を向けて行ってしまった。
まあ、当たり前でしょうね、怒るのは。
しかし王子は、ますます締まりのない表情になった。
「もうー、ローズは怒った顔が一番綺麗だなあ」
私は心の中で、頭を抱える。
この変態!
◇
二人でのお茶会が終わったあと。
私はとぼとぼと城門に向かって城内を歩いていた。
すると、前からローズ王女が侍女を侍らせてやってくる。友人とのお茶会は終わったらしい。
「ごきげんよう、ローズ殿下」
私が挨拶すると、王女はこちらに向かって、にっこりと微笑んだ。
ゆるく波打つ金の髪。白い陶器のような肌。桃色の唇。たおやかな身体。まるで人形のような、整った顔立ち。
王女っていうものは、こういうものですよ、という見本のような少女だ。
正直、カルセドニーが夢中になるのもわからないでもない。
だって可愛いもの!
「先ほどは失礼いたしました。急いでおりましたもので」
「とんでもない。ご友人とのお茶会は、楽しまれまして?」
「ええ、とても楽しゅうございましたわ。けれどアメジストさまが持ってこられたという茶葉も味わいとうございました」
「では今度、ぜひ」
「嬉しいですわ」
ほほほ、うふふ、とのんびりと会話を楽しんでいると。
「アメジストー! ローズー!」
背後から、ばたばたと足音が聞こえる。
私の目の前の王女は、ちっ、と舌打ちした。
……え? 舌打ち?
声の主、カルセドニーは、息せき切って私の横に立った。
「何を話していたの?」
その質問を完全に無視して、ローズ王女はにっこりと微笑むと、私に向かって言う。
「アメジストさま、今度ぜひご一緒しましょう」
「ええ、ぜひ。楽しみにしておりますわ」
私はそう答える。
無視されたことに気付いているのかいないのか、カルセドニーははしゃいだ声で割り込んだ。
「あ、お茶会? じゃあ、いつにする? 僕は明日にでも!」
「お兄さまは来なくてよろしい!」
「ええー」
「ではアメジストさま、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
そうして王女はゆるゆると私の横をすり抜けて立ち去って行く。
「もうー、ローズはつれないなあ。そこもまた可愛いんだけど」
のんびりと言うその言葉に、私はこっそりとため息をついた。
幼い頃は、ここまで何かに執着するような兆しはなかったと思う。
こんなに王女大好き王子に育つとは、誰も思わなかったのではないか。
◇
私がカルセドニー王子と婚約したのは、今から十四年前、私が四歳のときだった。
公爵家の一人娘である私と第五王子の婚約は、順当すぎて誰も疑問に思わなかった。大人の都合以外の何ものでもないと思われていたようだった。
抱く感想は、まあそうでしょうね、くらいのものだ。
だが実は違う。
彼は自分で望んで私と婚約したのだ。
彼は自分の行動とその結果に、責任をとったのだ。
◇
公爵である私の父は、祖父にキルシー国先王を持つ。
そんなわけで、私は割と気軽に王城に出入りしていたし、王城もそれを許していた。
父と母からすれば、これほど安全な遊び場はない、くらいの気持ちだったらしい。
当時でも五人の王子と四人の王女がいたので、遊び相手には事欠かなかった。
カルセドニー王子が五歳、私が四歳、ちなみにローズ王女はまだ乳飲み子であった頃。
ほとんど性差というものがなかったので、私たちはよく一緒に遊んだ。
ある日のことだ。
「アメジスト、裏山に行こうよ」
王子はそんなことを言い出した。
「裏山?」
王城の裏手には、小さな山があった。丘と言っても差し支えないほどの山だった。
「大丈夫かなあ」
私は不安を口にした。黙って王城を抜けだしたら、裏山といえど、怒られてしまうのではないか。
「大丈夫だよ、この前、兄さまたちと行ってきたんだ」
「怒られないかな」
「すぐ帰ってくれば大丈夫。抜け道があるんだよ」
「行く!」
本当に、軽い気持ちだった。
カルセドニーについていくと、植木に隠れて城壁が少し崩れているところがあった。子どもならばなんとかくぐり抜けられるような小さな穴が開いていて、私たちはそこを四つん這いになって抜けた。
その穴を抜けたらすぐに裏山に入れるようになっていて、私たちは手を繋いで獣道を上がって行く。
「こっち。とても見晴らしがいいんだよ」
手を引かれて、大きな岩をよじ登る。その岩の上にようやく立つと。
「うわあ……!」
見下ろせば、王城が眼下に見えた。その向こうには、遠目だけれど海も見えた。
「きれいね」
「うん」
そうしてしばらくその景色を堪能したあと、私たちは大岩を降りることにする。
木の枝がこちらに伸びてきていて、カルセドニーはそれを掴んで器用に岩から飛び降りた。
カルセドニーは何でもないことのように、その一連の動きを見せてくれたが、私の足はすくんだ。
彼は少し先まで行って、木に登ってみたり飛び降りたりしながら、私を待っている。難しいこととは思っていないようだった。
怖いけれど、やらなくちゃ。
なんとか手を伸ばすと、枝を掴む。それでしなる枝を利用して飛び降りなければ。
えいっ、と思い切って飛ぼうとする。だが体勢を崩してしまって、足を滑らせた。
「きゃっ……!」
何がどうなったのかはわからなかった。
けれど私は気が付いたら、地面に手をついてしゃがみ込んでしまっていた。
恥ずかしい。失敗してしまうだなんて。
「痛い……」
私はずきずきと痛む左足首を押さえようと手を伸ばした。
そのとき、ぱたっとドレスに何かが落ちた。赤い、液体。
「えっ」
私は慌てて自分の額に手をやり、その手を自分の目の前に持って来る。
木の枝で擦ってしまったのだろうか。
私の指には、やはり赤い液体が付いていて。
それが自分の血だと気付いたときには、ふっと意識が飛びそうになった。
「アメジスト!」
カルセドニーが駆け寄ってくる。
「大丈夫? 痛い? 血が出てる」
彼の手が、私の前髪を掻き上げた。
「こ、こっちはあんまり痛くない……足が痛い……」
「足? 捻ったのかな。立てる? 帰って治療しなきゃ」
その手がなんだか優しくて、なぜだか急に涙がこみ上げてきた。
「痛いよー!」
わんわんと泣き出した私におろおろとしながら、カルセドニーはきょろきょろと辺りを見渡す。
「誰か呼んでくるより、きっと、帰ったほうが早い」
王子はこちらに背中を向けて、しゃがみ込んだ。
「背中、乗れる?」
「う、うん」
私は足をずるずると引きずり近寄ると、両腕を彼の両肩に投げ出し、前で組んだ。
「しっかりつかまってて」
「うん」
「せーの」
少しよろめいたが、彼はなんとか踏ん張って、立ち上がった。
「……重くない?」
「大丈夫」
よろよろと歩き出したとき、彼が鼻をすする音がした。
「……泣いてるの?」
「泣いてないよっ。へいき」
私はその震える返事を聞いて、ぎゅっと彼にしがみついた。
どうしよう。少し遊ぶだけのつもりが、大変なことになってしまった。
「怒られちゃう……」
「大丈夫だよ、僕が無理矢理連れ出したって言うから」
「でも」
「アメジストは心配しないで」
その言葉がなんだかとても頼もしくて、先ほどまでの不安な気持ちが吹き飛ぶ。
私は彼の背中に頬を押し付けた。
◇
私を背負ったまま秘密の抜け道を通るのは難しくて、結局王子は城の裏門に回った。
どうして王子と公爵令嬢がこんなところにいるのかと門番は目を丸くして、そして頭から血を流す私を見て、あたふたと私を抱えた。
それからわらわらと大人たちが集まってきて城内に連れていかれて、私と王子に治療を施した。私は気付いていなかったけれど、王子もたくさん擦り傷を作っていたらしい。
私たちが治療を受ける一室に、私の父と母と、そして王妃がやってきた。
「どうしてこんなことに」
ぽつりと私の母が言うと、王子は頭を下げた。
「僕が、アメジストを無理に連れ出しました。ごめんなさい」
きっぱりと言うその言葉に、両親はあたふたとしていた。
「で、殿下、どうぞ頭を上げてください」
「僕が悪いんです、ごめんなさい」
重ねて謝る王子に、両親はどうしたものかと思案しているようだった。
頭を下げるカルセドニーを見て、このまま黙っていてはいけないのではないかと、私は思い至る。
カルセドニーが一人で怒られてしまう。
確かに誘われはしたけれど、行くと決めたのは私だ。
「違うっ」
私がそう言うと、皆がこちらに振り返った。
「私が、連れて行ってって言ったもの!」
一気に集めた注目が怖くて、私の目にじんわりと涙が浮かぶ。そしてまた、わんわんと泣き出してしまった。
「違う、僕が無理に連れ出したんだよっ」
「違うものー!」
そして私はまた音量を上げて泣いた。
周りがおろおろとし始めるのがわかった。
「まあ、どうやら怪我も大したことはないようですし」
この場を収めようとしたのか、父がそう言い出した。
「でも……女の子の顔に傷なんて」
王妃がぽつりとそう言って、その場がしん、となった。
そんなに大変なことなんだろうか。
額よりも、足のほうが痛いのに。
「もし顔に傷が残ったら」
「結婚できなく……」
母が、言いかけた言葉を呑み込んだ。
大人たちは顔を見合わせている。
「僕が結婚する!」
突如、カルセドニーはそう高らかに宣言した。
その場にいた全員が、王子に振り返った。
「アメジストとは、僕が結婚するよ!」
私はその宣言を、泣くのも忘れて呆然と見つめていた。
正直なところ、そのとき、なんだかカルセドニーが輝いて見えた。
つまり私の初恋だった。
結局、カルセドニーも私も、まったく責められることはなかった。
そこから大人たちがどう話し合いをしたのかはわからない。
けれども、私たちはそのまま婚約することになった。
だからまあ、なんというか、引け目がないわけではないのだ。
多少、妹への愛が過剰でも、それを責めることは私には出来なかった。
いや、多少、ではないかもしれないけれど。
◇
カルセドニーとのお茶会から幾日か経って。本当にローズ王女からお茶会への招待状が届けられた。
社交辞令ではなかったんだな、と思いながら、先日のものと同じ茶葉を用意して、王城へ向かう。
中庭にたどり着くと、ローズ王女は椅子に座って私を待っていた。
「カルセドニーお兄さまは、今は城内におりませんの」
「そうなんですか」
「ええ。でないとゆっくりとお茶も出来ませんでしょう?」
肩をすくめてそんなことを言う。まあ、確かに。
私はローズ王女の前の椅子に腰かけた。
私は持ってきた茶葉を、控えていた侍女に渡す。侍女は、手際よくそれでお茶を淹れてくれた。
王女はお茶菓子を用意してくれていたようで、二人きりとはいえ、素敵なお茶会が始まった。
「お兄さまにも困ったものですわ」
「はあ……そうですね……」
何と返せばいいのかわからなくて、私はそう曖昧に応える。
ローズ王女は小首を傾げて、こちらを見つめる。
ああ、可愛い。
「正直に申し上げまして、アメジストさまがお兄さまを見捨てないのが不思議でなりません」
「ええと、素敵な方ですよ?」
彼はあれでも一応王子なのだし、ローズ王女に同意は出来なかった。
それに。
惚れた弱みというものだ。
子どもの頃のことだけれど、それでも裏山でのことは、私の心を動かすには充分な出来事だった。
それから、カルセドニーは温厚で少々のことでは怒ったりしないし、いつでも私の希望を優先してくれるし、容姿だって人並み以上だし。
彼にだってたくさんの良いところがあるのだ。
私はそれを、ずうっと見てきたのだ。
「先に言っておきますと、わたくしは別にお兄さまが嫌いなわけではないんですのよ? ただ、かーなーりーうっとおしいだけで」
それは嫌いということではないのだろうか。
「長年お兄さまに付き合ってきて思ったのですけれど」
「はい」
「カルセドニーお兄さまがわたくしに固執するのは、妹だからではないと、わたくしは思い至りましたの」
「そう……でしょうか」
「ええ。それが証拠に、他の妹にはさほど執着しませんわ」
確かに。
今ではローズ王女の下に、二人の妹姫がいる。けれどローズ王女に対するような執着は見せていないような気がする。可愛がってはいるようだけれど、執着とは言い切れない。
「妹たちには食指が動かないのはどういうわけかと考えまして」
食指が動かない。ひええ。
そう言われると、変態度合いが増した気がした。
「で、どうしてわたくしなのかというと、お兄さまの周りに、お兄さまを罵倒するのがわたくししかいないのですわ」
「罵倒」
その言葉をおうむ返しにして、私は黙り込んでしまう。
いや、それはそれで問題なのでは。罵倒されて大喜びとか。
「わたくし、思うに」
「はい?」
「お兄さまは、罰を欲しがっているのですわ。意識的か無意識かはわかりませんけれど」
「罰……?」
「できればそれは、アメジストさまが与えるべきではないかと思います」
そう言って、ローズ王女はたおやかな指先を私に伸ばした。そして私の顔を指さす。
「その傷」
私は思わず、手で額を押さえた。
「お兄さまは、その傷に対する罰が欲しいのです」
「え、でもこれは、そんな大した傷では」
今ではもう、ほとんど目立たない。
むしろこんな傷で婚約者にさせられてしまったカルセドニーが可哀想になるくらいだ。
「けれどお兄さまは、その傷をつけた自分が責められなかったことを、いつまでも気に病んでいるように見えますわ」
「そんなこと」
「当時のことは、いろいろと調べさせましたの」
王女は、ちらりと侍る侍女に視線を移す。
侍女は頬を紅潮させて、胸に手を当てて嬉しそうに小さく頭を下げた。
「わたくしはその場の状況を知りませんから、推測ですけれど。でも間違いないと思います。ですから、お兄さまを責めてあげてくださいな」
確かにあのとき、誰も彼を責めなかったけれど。
責めてあげるって……変な話ではないか。けれど王女の顔を見ていると、それが正解なのかなという気がしてきた。
なんだか頭の中がぐるぐるしてくる。
「お願いしますわ、アメジストさま」
そう言って、ローズ王女は頭を下げた。私はその行動に面食らう。
「えっ、あの、お顔をお上げになってください、ローズ殿下」
「いいえ、上げません。アメジストさまが、うんと仰ってくれるまで!」
ふと周りを見渡すと、侍女たちが非難めいた視線で私を見ていた。
ええー……。なんだ、この状況。
「わかりました……」
私が仕方なくため息とともにそう言うと、ぱっとローズ王女は頭を上げた。
そして口の端を上げて、にやりと笑った。
うん……? なんだかいつもの可愛らしい笑みとは違ったような。
「聞きましたわよ。お願いしますわ」
「はあ……」
「アメジストー! ローズー!」
ばたばたと背後から足音がする。
振り返ると、満面の笑みでこちらに駆けてくるカルセドニーがいた。
「えっ、えっ? 城内にはいないんじゃ」
「嗅ぎつけたのでしょう。まったく、一事が万事、この調子で」
はあ、とため息をつきながら、ローズ王女は椅子から立ち上がる。
「では、お願いしますね」
そう言って私をちらりと一瞥して立ち去って行こうとしている。
あ、どうしたんだろう、私。
今の見下した視線、少しどきどきしたわ。普段が可愛らしいだけに、なんて迫力。
カルセドニーは私たちの様子には気付いているのかいないのか、はしゃいだ様子でローズ王女に話し掛けている。
「ローズ、アメジストとお茶会してたんでしょ? やだなあ、言ってくれればいいのに。僕が忙しいからって気を遣わなくても」
ローズ王女はこちらを見て、顎をくい、と動かした。
やれ。
はい、仰せのままに、ローズさま!
「カ、カルっ、カルセドニー、でっ殿下!」
私がしどろもどろになって彼に呼び掛けると、カルセドニーはこちらに振り向いた。
ローズ王女は眉間に皺を寄せてこちらを見つめてくる。
ひい!
ああ、上手く出来なくて申し訳ありません、ローズさま!
「アメジストも、やだなあ、人が悪い。どうして教えてくれなかったの?」
「えっ、えっと、その」
ああ、ローズ王女の視線が痛い。不慣れなもので申し訳ないです。
いや、でも私、頑張ります!
「殿下、あの……い、い……」
「い?」
「いっ、いい加減になさってください!」
私のそのやけくそな怒号に、王子は驚いたように身を引いた。
ローズ王女は小さく笑うと、ゆるゆるとその場を立ち去って行く。
私はそれを目の端で追ったあと、カルセドニーに向き直る。
「いつもいつもいつもいつも!」
「ア……アメジスト?」
「婚約者の私が目の前にいるというのに、ローズローズって!」
一言口に出すと、するすると次の言葉が出て来た。
私、けっこう溜まってたんだ。
身体が震えてきた。あまりに怒ると身体が震えるのだと、私はそのとき初めて知った。
「ちょっとそこに座りなさい!」
私が目の前の椅子をビシッと指さすと、王子は慌てて座った。
膝の上にきちんと両手を置いて、こちらを見上げている。
あれ。どうしたんだろう。
今ちょっと、気持ちいい。
「ここまで妹に執着しているのを見ていると、気持ち悪いんです!」
「え、気持ち悪い?」
「そうですよ! いい加減、妹離れしてください! 情けない!」
「ええー……気持ち悪いって……」
言われた言葉がかなり衝撃的だったのか、呆然とこちらを見上げている。
「気持ち悪いに決まってるでしょ!」
私が腰に手を当てて、覗き込むようにそう言うと、彼はおどおどと返してきた。
「でもローズは、嫌なときは嫌って言うから、いいんじゃないかな?」
「駄目です。ローズ殿下がどうあれ、私が不愉快なんです」
「どうして? 人数は多いほうが楽しいでしょ? どうして不愉快?」
小首を傾げて、そんなことを言う。
いや、友人同士ならばそうかもしれないけれど。
でも、私たちは婚約しているのだ。過程はどうあれ、いずれは夫婦になるのだ。
そうしたら、口づけを交わしたり、身体を重ねたりするようになるはずなのだ。
なのに今は、二人きりになることすら、滅多にない。
私は大きく、はあ、とため息をついた。
それにカルセドニーはびくっと身体を震わせた。
「普通、不愉快でしょう」
「え、そう?」
「だって婚約者ですよ?」
やっぱり、この婚約は間違いだったのだ。
傷の責任を取るだなんて、そんなの不毛だ。
私たちは婚約しているけれど、恋人同士にはなれない。
とても悲しいけれど。
「幸い、もう傷も目立ちませんし、責任を感じることはありません」
「え……?」
「婚約解消したっていいんですよ。こんな小さな傷に縛られるなんて、馬鹿馬鹿しいでしょう?」
「婚約解消?」
カルセドニーは目を丸くしてこちらを見上げている。
「そりゃあ解消だなんて大変かもしれませんけれど。でも好きでもない人と、幼い頃の傷の責任をとって結婚なんて」
「僕はアメジストのことは好きだよ?」
小さく首を傾げて、カルセドニーは言った。
「え……」
「だって初恋だし」
「そ、そうなんですか」
「うん、裏山で怪我したとき、ぎゅっと背中にしがみついてきてさ。守らなきゃって思って」
頬を紅潮させて、そんなことを言う。
ということは、あのときにお互いに恋をした、と。
「そうだったんですか」
「うん」
カルセドニーはこくんと頷く。
いやだ、じゃあ私たち、最初から両想いだったんだわ。
なんだか気恥ずかしい。
これは奇跡? それとも運命?
そんなことを考えてもじもじしていると、カルセドニーは、満面の笑みで言った。
「妹みたいで可愛いなって」
……いやこれ、喜んでいいところなんだろうか……?
「アメジストは、僕のことは好きじゃない?」
こちらをじっと見つめて、そう言う。
「えっと……」
「うん?」
「その……」
自分の指先を弄びながら、言葉を探す。
「アメジスト?」
「わっ、私もっ、あのときからお慕いしていますよっ」
もういいや、言ってしまえー! とばかりに言ったその言葉に、カルセドニーは少し驚いたような表情をしてから、にっこりと微笑んだ。
「そうなんだ、よかった。もしかしたらあのとき僕が結婚だなんて言い出したから、断れないのじゃないかと思っていたから」
そして立ち上がって、私の目の前まで来ると、私の前髪を掻き上げた。
な、なんか、照れるなあ。いつもしていることだけれど。
そして彼は、いつものように傷痕に口づけた。
「この傷がアメジストを婚約者にしてくれたんだと思ったら、見ると嬉しくて。もしかしてこういうのも、気持ち悪い?」
首を傾げてそう問うてくる。
そういう儀式だったのか、それは。
顔が熱くなってきた。
「き、気持ち悪くなんてないです……むしろ、嬉しいですから……」
「嬉しい? 本当?」
「本当です」
私がそう言うと、彼は私の両手を、自身の両手で包み込んできた。
私たちはどちらからともなく、微笑み合う。
今から二人は始まるのだ、とそんな風に思った。
◇
なんだかお互い、気恥ずかしくなってしまって、俯いてまた席に着く。
二人して照れてしまって、頭を掻いたり、指先を弄んだりしていた。
しばらくしてカルセドニーはふいに口を開いた。
「アメジストは僕より年下だけれど」
「ええ」
「さっき、なんだかお姉さまって感じがしたよ!」
私は思わず顔を上げて、呆然と彼の顔を見つめた。
にこにこして毒気がない顔をしている。
「あの……それで……」
もじもじする王子。
嫌な予感がする。
彼がこれから何を言い出すか、私にはわかります。ええ、わかりますとも!
「お姉さまって、呼んでいい?」
「駄目に決まってるでしょー!」
カルセドニーの頭の中は、いったいどうなっているんだろう。
この王子はどうにも救えないわ……、と私はこっそりとため息をついた。
了