8話
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「【血】を、使う?」
「そう。そうめん食べちゃうからちょっと待ってて」
よく考えると、こいつは何故人の家のものを勝手に食べているのだろう。容器に残っているそうめんを見る限り、余っていた全部を使われている。けれど、更によくよく考えてみれば、別にもう食料品なんて必要ないのか。
黙って立ちぼうけしてテン・シナリスがそうめんを食べ終えるのを待った。こいつが食事をしているダイニングに座りたいとは思えなかったからだ。
「ふぅ、ご馳走さま。次はワサビも用意しといてね」
「あなたに食事を用意する義理はない」
「そんなこと言っちゃって良いの? 殺しちゃうよ?」
心拍が止まった。デコピンするぞくらいの軽さで言われた。こいつらにとって俺の命なんてヘリウムガスより軽いのだ。決して逆らうなと言う強烈な脅しだった。そうめんのかやく程度で俺の生死が左右される世界に引きずり込まれてしまった。
「それはまぁ冗談として、ほらこっちお上がりよ。家主は君だろ」
行かないと殺される。
ちゃぶ台を挟んで座った。いつでも動き出せるように片膝を立てておく。そんな警戒も、小動物を見る瞳でテン・シナリスは笑う。
「早速僕の【血】を説明しよう」
テン・シナリスは手のひらを見せてくる。親指の腹に丸い内出血の跡を見つけた。すると、その大きさからはあり得ないほど大量の血が流れ始めた。
「ちゃんと自分の【血】を操れるようになったら、こう言うことも出来るよ」
ちゃぶ台に落ちた血液は、ぷにぷにとしたゼリーのように柔らかい塊りになった。
「で、これをこのペンに入れまーす」
そしてどこから取り出したのか、使い込んだ赤い万年筆に血を流し込んでいく。
「お次は、君の血を入れまーす」
「え、はぁ?」
「君の血がないとダメなの。ほらさっさと血を出して。十ミリリットルくらいで良いから」
痛みを感じた。不審に思って手首に視線をやると、ぼとぼとと血が溢れていた。
「え、あ、お、おい!」
「反応鈍いなぁ」
速すぎて何も見えなかった。負傷を自覚した後もどんな凶器で傷をつけられたかすらわからない。
「じゃ、混ぜるからねー」
「……好きにしてくれ」
抵抗とか警戒とかが無意味だと思い知らされた。【血】が発動している時ならまだしも、平時で爵位級に対抗できる力など俺にはないらしい。わかってはいたことだったけれど。
「最後に君の名前を書きまーす。机に書いちゃうからね」
俺とテン・シナリスの血が混ざった血のインクがペン先から出てくる。何となく嫌な気分だった。
明らかに外国人の見た目をしているのに、テン・シナリスは達筆だった。月野ハツカ。最後の「カ」が跳ねられた瞬間、
「っ!?」
身体がピクリとも動かなくなった。幽体離脱して自分の背中を見ているかのような感覚。突然自らの操作権を失った。
「ダメだなー。〈境界〉を引いてない血を他人に晒しちゃ」
動けない!
「僕みたいに相手の血を得ることで【血】を発動する吸血鬼もいるんだよ」
本当に、動けない。呼吸と瞬き以外の行動が俺の意思を拒絶する。
「【絶対服従文字】。対象と僕の血を混ぜたインクで名前を書くと、対象を支配できるの。こんな風にね」
俯いていた顔が勝手に上がった。ニマニマするテン・シナリスがいる。
「じゃあ、三回回ってワンって言って」
俺は立ち上がり右回りに三回回った。
「ワン」
そしてワンと言ってしまった。屈辱よりも恐怖が優った。
「そうだ。〈境界〉については知ってるかな? 答えて」
「知りません」
「ごめんなさいは?」
「浅学無知で申し訳ありません。ゴミ屑以下の私めにどうかご教授を」
全て言わされている。考えてもいないことなのに、口からスラスラ出てきた。ついでに頭も下げさせられる。
「よしよし良い子だ。〈境界〉ってのはね。自分の血を自分のものだと自覚すること。当たり前に思うかもしれないけど、人って血を流しちゃうと、それはもう自分とは別の物だと思っちゃうんだよね。僕みたいな吸血鬼に良いようにされないように、〈境界〉は必須の能力だよ」
そんなものがあることは知らなかった。闘いに身を置く吸血鬼の中では常識なのだろうけれど、平和に暮らしていた俺が知るわけもない。
「この〈境界〉に関しては意識さえ出来ればそれで済むから、これから気をつけてね。これからがあればの話だけど!」
油断していた。想像できない角度から攻められたから、それは仕方ない。けれど、想像外から攻められる可能性を考えておくことはできたはずだ。吸血鬼の世界の狡猾さと理不尽さを痛感した。奥歯を噛みたいけれど、力が入らない。
「それじゃあ尋問開始。君の身体のことなら、自覚してないことでも絶対に答えられるよ」
俺の生殺与奪がこいつに握られた。質問に答えなくて殺される、というパターンはなくなったけれど、欲しい情報を引き出したあと俺は用済みになる。
「まずは君の【血】だ。どんなものかな?」
「俺は、血を失うことで身体能力を向上させます。百ミリリットルにつき三倍です」
「ふむ。強化型か。【零からの逆襲】ってとこだね。あ、倍率の上限は?」
エンカウントだと意味が違ってこないか。あと人の【血】を勝手に名付けるな。
けれど、次に俺が述べた倍率に薄ら寒さを感じてしまった。
「二千ミリリットル。六百三十倍です」
テン・シナリスが目を見開く。
「……嘘だぁ。君、〈殲血の女王〉の眷属でしょ? そんなショボい【血】の訳な……あ、いや、僕の質問に嘘つける訳ないか」
変なところで共感しあえた。上限が六百三十倍って点を聞いて確信する。俺の【血】、弱い。
「う、うーん。めちゃくちゃ弱いわけじゃないんだけど……。でもレジェンド確定ガチャ引いて、レアが出てきたくらいのガッカリ感だよ。軽く訴訟案件だ……」
何を言ってるのかはわからなかったけれど、とりあえずバカにされてることはわかった。
「じゃ、じゃあその他の能力は? まとめて教えて」
「〈鬼眼〉、一メートル以内にいる相手と二秒以上目を合わせると眠らせることができます
「〈鬼聲〉なし
「弱点なし。変身、飛行、不死、どれも所有してません」
テン・シナリスが唖然としている。俺も初めて聞く内容だったけれど、似たような気持ちだった。
「……弱くはないよ。元気出しなって」
励まされてしまった。
「弱点がないってのは高評価だし……」
吸血鬼が持つ弱点。これは酷いものだと即死するほどのものになり得る。
日光、炎、ニンニク、十字架、流水、鏡に映らない、初めての家には招かれないと入れない、特定の月齢や曜日に活動できない。
これら八つの弱点は、個体によって持つ数や影響が変わる。
例えば妹の場合、日光と十字架がダメだ。日光は肌が弱い程度の症状で、学校の体育は参加していない。けれど、十字架はかなり酷く、見るだけで吐き気を催し、体に触れようものなら肉が壊死してしまう。
そういう弱点を持たないことは確かに優秀だ。戦闘時、特に鬼狩りと闘う時は、弱点のあるなしで結果が大きく変わってくる。
「でも、〈鬼眼〉以外能力ゼロってのは……」
更には能力。【血】は全ての吸血鬼が一つずつ持つ。けれど、〈鬼眼〉や〈鬼聲〉は所持者が少ない。この二つが上位吸血鬼に当てはまる能力だからだ。だいたいが魅了や催眠など、精神に干渉する強力な能力であることが多い。〈殲血の女王〉はその辺り関係ないようだったけれど。
また、〈不死〉、〈変身〉、〈飛行〉は弱点と同じで、持つ者と持たない者がいる。上述の能力ほど強力で、〈不死〉の能力を持つ吸血鬼は世界に十人程度だと言われている。
「ちょっと頭痛くなってきたな……。君の戦力もある程度期待してたんだけど、こりゃ望み薄だ。ねぇ、もう一回聞くよ? 君本当に〈殲血の女王〉の眷属?」
「はい。間違いありません」
「最強の吸血鬼の眷属のはずなのになぁ。おかしいなぁ。チュートリアルのどこで間違えたんだろうね……」
本来、眷属は主人の存在に帰属する。主人が強ければそれだけ強い眷属が生まれるのだ。そのはずなのに、俺は全然強くなかった。甘めに採点して中の上くらいの評価だと言える。
「上限が二千ミリリットルか。君の体格だと血液量は四千ミリリットルくらいだろうから、妥当と言えば妥当だな。君が普通の人間なら半分も失血すれば心停止するし」
随分と具体的な数字がすらすら出てくる。ヘラヘラした見た目とは違い中身はかなりの博識らしい。けれど、心停止の危険を払ってまで出した強化倍率が六百倍ってのはリターンがショボい。
「ま、君は吸血鬼だから回復力も人間より遥かに高い。失血しながらも体内で血を作り出せるだろうから、死ぬことはないでしょ。負担になるのは避けられないけどね」
つまり、体内の血液量ではなく、出血量によって強化される。負傷すればするほど優位に立てるカウンター型の能力だ。
テン・シナリスのおかげと言うべきか、早い段階で現在の俺の実力が判明した。【血】自体の弱さには落胆したけれど、今後戦闘中に手探りする必要がないことは喜ぶべきだ。
けれど、
「うーん。つまんないなぁ。僕のワクワクを返して欲しいよ。肉体強化って小回りが利くから、立ち回りが上手くなればそこそこ闘えるし……。でもそれじゃやっぱり面白味がないよねぇ」
俺の身体の自由が奪われたままだった。こいつの気分のさじ加減で何をさせられるかわからない。しかも俺の【血】のショボさを知ってちょっと不機嫌になっている。
〈命と嘘の舞踏会〉の鬼畜さは世界中に轟いている。
〈命と嘘の舞踏会〉は、かつてアメリカのエレメンタリースクールの生徒七百人を人質に取ったことがある。捕らえた少年少女たちに、五人だけ助けると嘯いて殺し合いをさせ、それを肴に酒盛りをした。そして、生き残った五人は生きたまま手脚を引きちぎって惨殺。最終的に、殺し合って死んだ子供の頭部でpeaceと文字を作り、霧のように消えたという。
〈命と嘘の舞踏会〉の所業の一つだけれど、細かい犯罪は数え切れない。しかもこれよりはるかに残酷な殺人はいくつもある。
俺もそんな被害者の列に名を連ねるのか。殺されるだけではなく、こいつの気の済むまで玩具にされ、心身をボロ雑巾にされるだろう。
「さて、と」
テン・シナリスが無邪気な笑顔を向けてきた。それなのに、俺の心臓が悪寒で縮み上がった。
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