7話
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西の空が柿色に染まる下、俺は幽鬼の足取りで歩いていた。泣き疲れて眠った後、島から逃げるための荷物をまとめる必要があることに気づいた。妹はまだ眠っていたから、俺だけでも自宅に帰ろうと思ったのだ。
本当なら、隠れながらもっと迅速に帰るべきだった。昨晩の事件から半日以上が経過している。今頃警察や鬼狩りが捜査をしているはずだ。自宅は現場から近い位置にあったから、確実に聴き込みにくる。叩かれずとも埃に塗れた俺は、きっとまたボロを出す。
頭の一部は妙に冷静な部分があって、そういうことはわかっている。それだけは救いだった。けれど、そんな幸運を台無しにしてしまうくらい身体が怠かった。歩いているだけなのに、このまま頭が転げ落ちて蹴ってしまいそうだ。
自宅に到着した。向こうからざわめきが聞こえる。野次馬が集まっているのだ。テレビ局とかも来ているかもしれない。
アパートの外階段を上る。経年劣化の激しいトタンは、ガリガリという不快な音を立てている。部屋のドアは開けっぱなしだった。まぁ、こんなボロアパートに空き巣に入る輩はいない。部屋に入ってドアを閉めた。
「あ、おかえりー」
「え」
「勝手に冷蔵庫漁ったらからねー。まともな食べ物そうめんしかなかったけど」
ダイニングに見知らぬ人間が座っていた。ちゃぶ台にそうめんの入った容器を載せ、右手でお椀を、左手で箸を握っている。ちゅるりとそうめんをすすった。
「え、な、はぁ!?」
「はい。反応はペケ。僕が悪漢だったら君死んでたよ?」
言っていることこそ厳しいものだったけれど、俺の反応を楽しむ笑顔だった。
目が醒めるような金髪を眉にかけ、碧い瞳に悪戯っ子の光をたたえたそいつは、小柄で童顔なせいもあって、男か女かわからない。「魚」と書道体で書かれた白いティーシャツを着ている。
「な、なんだお前!」
「T%ぇ#・シn&り〆ス」
「は?」
初めて聞く発音だった。英語とか中国語とかのレベルではなく、声帯の使い方すら違うようだった。
「知らない? 〈吸血鬼語〉」
〈吸血鬼語〉。耳にしたことはあった。今は失われたけれど、〈殲血の女王〉が生み出した特別な言語。操れる者は、人間や吸血鬼に関わらず百人にも満たないと言われている幻の言語だ。
「そうだな。日本語なら、テン・シナリスってところかな。気軽にテンって呼んでよ」
これから長い仲になるしねと、へらへら笑う。【血】は発動していないけれど、俺の判断は早かった。即座にドアノブに手をかけ、
「いっ!?」
回す前に、箸がドアノブに突き刺さった。ビィンという超振動で箸が震える。
「逃走の判断はマル。でも上級吸血鬼相手だと無意味だね。わかる? そのお箸、君の頸動脈も狙えたんだよ」
口の中に苦い味が広がる。全身の汗腺がじわりと開いた。
まさか、こんなに早く吸血鬼がやってくるなんて。油断してたつもりは一切なかったけれど、そもそもの俺の警戒度が低すぎたらしい。
闘う、しかない。俺の【血】も一応は把握している。都合のいいことに、玄関の右手にキッチンがあり、少し手を伸ばしたところに包丁が置かれている。じり、とつま先に体重をかける。
けれど、テン・シナリスはチッチと舌を鳴らして指を振る。得意げな表情で俺を小馬鹿にしていた。
「その判断は感心しないなぁ。仕方ないから名乗り直そうか」
テン・シナリスが立ち上がった。右手を腹に、左手は広げ、貴族がするような優雅な所作で一礼する。
「〈命と嘘の舞踏会〉〈仮面の間〉所属、テン・シナリス。〈串刺し公〉より男爵の爵位を賜っております」
そう言ってにこりと微笑む。
「君たち兄妹の保護観察に参上しました」
「ほ、ご……?」
驚愕の単語を次々並べ立てられて、その内の一つだけしか拾えなかった。けれど、ゆっくりとテン・シナリスの発言の危険性が身体に染み込んでくる。包丁を目指していた右腕が震え、キッチン台に当たって音を立ててしまった。
「男爵!? 〈命と嘘の舞踏会〉……!?」
先生が話していたことが現実になった。一番来て欲しくない連中が一番初めにやって来た。それも男爵級だ。爵位級の吸血鬼なんて、人間世界に災害級の悪影響を及ぼす存在だ。
俺には、この小柄な吸血鬼が地獄の道先案内人に見える。
「……何が目的だ?」
闘うという選択肢は潰えた。絶対に勝てないからだ。万に一つ勝てたとしても、俺たちの存在を知られている。第二第三の爵位級がやって来るなら意味がない。
それなら、ここで一つでも多く情報を引き出す。攻撃するつもりがないというのは今のところ本当らしいから、とりあえずは話ができる。
「その判断は正解だ。〈命と嘘の舞踏会〉は〈殲血の女王〉が完全に覚醒するのを待つつもりなんだ。だから君たちを保護して観察する」
あれでまだ本調子じゃないのかよ、という驚愕が振りかけられた恐怖は横に置く。
「覚醒を、待ってどうするんだ?」
「ナイショ」
俺には見向きもせずに箸一本でそうめんを食べようとしていた。命懸けで話している俺だったけれど、テン・シナリスにとっては食事より優先順位が低いらしい。おちょくるためにあえてそうしているというのもあるだろう。出会い頭に散々狼狽えてしまったから、何とか冷静であろうと努める。
「ちょっかいかけようとしてくる奴らは実力行使で黙らせておくよ。心強いでしょ?」
ここで言う黙らせるは、皆殺しにするという意味だ。こいつらは他者の生命など歯牙にも掛けない。人は蟻を生き物だとは記憶しているけれど、こいつらは人間を遊び道具の一つくらいにしか思っていない。
「もうヨーロッパで何度か闘りあってるしね。あ、〈命と嘘の舞踏会〉の全戦全勝だから安心してくれていいよ」
吸血鬼たちがすでに世界各地で動き始めているということを教えられた。昨日今日でどうやって探り当てられたのか。
片方だけの箸でそうめんを食べることは難しいらしく、キッチンに箸を取りに来た。何故か長い菜箸を選ぶ。行儀悪くそれを指で何度か回転させると、ぴたりと止めた。箸先は俺の顎の下に触れていた。俺を見上げ、舐めるように笑う。
「鬼狩りはまだ気づいてないけど、そっちも僕らが抑えてあげる。〈片眼の指輪部隊〉が出て来たって守ってみせるよ。魅力的じゃない?」
確かにそれは美味い話だと言って良い。 〈命と嘘の舞踏会〉の目的がわからないから危険は変わりないけれど、延命策はこれしかない。
こいつの言を信用できるのなら。
「んー? あんまり嬉しそうにしてくれないね?」
「当然だ」
快楽で人を殺す集団を、どうやって信用しろと言うのか。けれど、俺が信用しようがしまいが、〈命と嘘の舞踏会〉にはどうでも良いだろう。
不可思議なことがある。さっさと妹を攫ってしまえば良いはずなのに、それをしないことだ。〈命と嘘の舞踏会〉の本拠地はロンドンにあると言う。地球を半周する場所にある〈銀華〉に人員を派遣するなんて非効率にも程がある。
「じゃあ〈命と嘘の舞踏会〉がどれだけ君たちにとって利益的な存在か言っておこっか」
ワガママを言う子供を見るような目で笑われた。こいつはよく笑うが、一切好感が持てない笑い方をする。
「今朝警察が来たよ。当然だよね。そいつらに君たちが不利にならないように説明しておいたよ。あと、君が殺した鬼狩りの男。あれが最後に調べていた端末データも消しておいた。これで君たちが辿られる可能性はほぼ消えたよ」
「そ、そこまで?」
昨晩起こったこと全てがお見通しだった。そして、俺が気づきもしなかった火種すら吹き消している。こいつがいなかったら、今頃俺と妹は第十一研究所にでも送られていただろう。
下弦の月の形に、テン・シナリスの口が歪む。
「僕は素晴らしい提案をしているよ。それなのに、信用なんて言う目に見えないものを優先して、このチャンスを棒に振るの? せっかく会えたんだから、僕は仲良くしたいな」
ここでテン・シナリスの圧力が跳ね上がった。見えない重力がのしかかってきて心臓が縮む。菜箸が肌に食い込み、皮膚を捻るようにくるくると回る。
「それとも、ここで死んじゃう? 結局のところは〈命と嘘の舞踏会〉の優しい気遣いだからね。そこを勘違いされちゃ困る」
別世界の出来事だと思っていたものたちが、俺たちの足首を掴んで引きずり込もうとしていた。もうどうにでもなれ、と泣きたくなる。けれど、
「観察ってことは、妹に酷いことしたりするのか?」
震える指を叱咤して、菜箸を掴んだ。力を込めてへし折る。動悸が爆発しそうだったけれど、精一杯の虚勢を張ってテン・シナリスを睨みつける。額と額がぶつかった。
ここは絶対に譲れない。例え飼い殺しにされたとしても、妹はこれ以上傷つけさせはしない。
「ふ、ふふ」
「お、おい!」
「ふふ、ははは! はははは!!」
「何がおかしい!」
すると何故か、テン・シナリスが腹を抱えて大笑いし始めた。俺に手のひらを向けてこっちにくるなとジェスチャーする。
「いやぁ! ごめんね、度し難いシスコンだとは聞いてたけど、まさかここまでとはっ!」
「はぁ!?」
「あーおかしい! 妹のためなら世界丸ごと敵にしてやるって顔してたよ。古いよ。それじゃ二十年前のコミックだ」
壁をどんどん叩きまくっている。そっちは浅田さんが暮らしてるからやめてほしい、という呑気な感想が浮かんでくるほど呆気にとられてしまった。
「え、おい! 答えを聞いてないぞ! その辺どうなんだ!」
「オッケわかった。拷問にかけようってメンバーも結構いたんだけど、安心して。僕が全力で阻止するから」
「い、いたのか……」
ゾッとした。吸血鬼に対する拷問は想像を絶する。むかし書籍で調べたことがあったのだけれど、数日食事ができなかった。妹に心配されたけれど、そんな理由は妹に話せないから、気を使って恋煩いだと嘘をついた。そしたら何故か不機嫌になられたこともついでに思い出す。
「ま、これで話はまとまったかな。晴れて僕らは友達だ」
「……」
「そんなに嬉しそうな顔しなくても良いのに」
俺は喜んでなどおらず、不安と不快感で満ちた表情をしていたはずだ。俺と〈命と嘘の舞踏会〉の力関係を考えると、嘘でも笑ってみせるべきだったけれど、どうしてもできなかった。
テン・シナリスは折れた菜箸をゴミ箱に放り投げると、残った方でそうめんを食べに戻る。他人の食事風景を見て、昨日の昼から何も食べていないことを思い出した。
「そうそう。あと、そうめん食べ終わったら、君の【血】を測るから」
「は?」
「僕はより良い観察のために君の【血】を知っておきたい。君だって妹ちゃんを守るなら自分の戦闘力くらい知っておいた方が良いでしょ?」
「それは、俺とあなたが闘うということか?」
そんな小学生の体力測定みたいに言われても訳がわからない。
そうめんが麺つゆにつけられる。たっぷりと麺つゆに絡めたそうめんはテン・シナリスにすすられていく。そうめんが美味いのか、俺の質問がおかしいのか、ニヤリと笑われた。
「そんな面倒なことしないよ。僕の【血】を使うのさ」
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