1.本の世界に憧れて
◇
適度に明るい日差しは読書家のマリアにとって素晴らしい照明であった。象牙色の紙に印刷された文字の一つ一つが浮かび上がるように見えて読みやすいためだ。書かれている文字を目で追いながら、頭の中で光景を浮かべるという幸福を支えてくれるのが太陽であった。
マリアは昼が好きだ。外で楽しそうに遊ぶ子どもたちの声や、街路樹の枝で翼を休める小鳥たちのお喋り声を聴きながら、空想の世界にのめり込むことが出来るからだ。そんな明るい昼の空気に包まれながら、毎日、毎日、マリアは屋根裏で本を読み続けた。それでも、まだ読んでいない本は山ほどある。マリアの知らない世界はまだまだたくさん存在するのだ。
時折、マリアは本を閉じて窓から外を眺めた。家の近くには公園がある。そこで、同じ年頃の子どもたちがよく楽しそうに遊んでいるのだ。今までに読んだ本の中にも、子どもが主人公で自分の足で冒険することがあるが、彼らもまた外で遊びながら冒険をしているのだろうか。そう考えると、マリアもあの笑いの輪に加わりたくなることが何度もあった。それでも、マリアは十分休むと再び本の世界に入り込んでいくのだ。
読書は楽しい。寝転がりながら知らない世界に浸ることが出来る。難しい思想の本や、知識の本、伝記なども本棚にはあったけれども、マリアは空想の物語が大好きだった。とくに現実ではあり得ない現象や展開が、主人公たちを待っているとドキドキする。そんな世界に浸り続けていると、マリアは寂しさを忘れることが出来た。外で遊んでいる楽しそうな子どもたちの歓声と、それに対する興味を忘れられるからだ。
その日も、マリアはいつものように読書をしていた。
季節は春。柔らかな日差しがマリアの読書を手伝ってくれていたが、急に暗くなり始めた。ふと外を見れば、季節外れの雪のようなものが降っていた。塵である。マリアの世界ではよくあることだ。灰のように降るその塵は、多くの人に嫌われている。理由は悪臭がするかららしい。
しかし、外に出ないマリアにはその臭いがよく分からなかった。見た目はとても美しく、幻想的で、輝いている。太陽の光よりは控えめだけれど、蛍の光を見ているような気持ちになれるのだ。だから、マリアは塵のことも嫌いではなかった。
――でも、本が読めないなあ。
灯りをつけるのは簡単だが、そうすると今度は塵の美しさが半減してしまう。一度降り始めた塵はいつ止むか分からないものだが、マリアはじっと待つことにした。美しさの種類は雪に似ているが、体が冷えない分、塵の方が好みかもしれない。そんなことを考えながら外を眺めていると、公園の向こうに人影が見えた。マリアはなんとなくその人影に視点を合わせた。
とても珍しい事だ。大抵の人は塵を嫌って何処かに隠れてしまうものだ。雨宿りよりも塵宿りの方が多い。むしろ、そうしない人は変人だと思われる。かつて読んだ本によれば、昔は塵の臭いが平気な人は悪魔憑きだと思われて、ひどい目に合わされたらしい。さすがに今はそんな時代ではないが、やはり塵の中を平然と立っている人影というものは、幽霊のように不気味がられてしまう。
だが、マリアがその人影を見つめてしまったのは、不気味だったからではない。なんとなく親近感を抱いてしまったのだ。その人影は、背格好からするに、同じ年頃の子どもだった。塵の中を平然と立っているだけではなく、空を見上げているようだった。まるで塵の美しさに目を奪われているかのようだ。マリアはそこが気になったのだ。
――あの子も塵が好きなのかな。
男の子なのか、女の子なのか、マリアはうんと目を凝らして人影をよく見ようとした。しかし、そこで日差しは戻ってきた。塵の時間が終わってしまったのだ。無意識に青空へと目を奪われ、もう一度、人影のあった場所を見直したが、そこには誰もいない。きょろきょろと視線を動かして探したけれど、それらしき人物は何処にもいなかった。
――何処に行っちゃったんだろう。
少し残念な気持ちになりながら、マリアはもう一度本を開いた。
◆
マリアが祖母の家で暮らし始めたのは五歳の頃からである。
祖母のもとには伯父と伯母、従兄弟たちもいて、一人っ子であったマリアはその賑やかさに圧倒されてしまった。けれど、母から聞いていた祖母は想像通り優しいお婆さんで、伯父も優しくて頼りになる紳士だった。伯母は本当の母親のようにマリアに接してくれたし、従兄弟たちも兄弟のように接してくれた。
この家はとても温かい。母と暮らしていた頃と変わらず、マリアは笑うことが出来た。
それでも、時々、どうしようもなく寂しい気持ちがマリアを襲ってくる。五歳の頃から何年経っても孤独という悪魔は傍に居た。どんなに家族が優しくても、マリアをこの家に置いて立ち去ったまま帰ってこない母親の事を思い出すと悲しくて仕方がなかった。
それに友達もいない。
従兄弟たちは学校に通って、とても広い外の世界を知って帰って来るのに、マリアの知る世界は祖母の家の中だけだった。
――マリアは〈赤い花〉だから。立派な魔女になるまで、外に出てはいけないよ。
五歳の頃から、毎日、マリアは祖母にそう言い聞かされて育った。
マリアの祖母は人間である。伯父も伯母も従兄弟たちも人間だ。けれど、祖父は〈赤い花〉という不思議な心臓を持つ魔法使いの血を引いており、マリアの母はその血を受け継ぐ〈赤い花〉の魔女だった。〈赤い花〉の心臓は秘薬になると噂され、その血を継ぐ子どもにとって世界は危険で溢れている。だから、マリアの母もまた子どもの頃は家にこもって勉強していたらしい。
――立派な魔女になるまで、外に出てはいけないよ。
そんなある日、立派な魔法使いであったはずのマリアの祖父は、〈赤い花〉目当ての悪い大人と戦って、殺されてしまったらしい。悲しみに暮れる間もなく、祖母と伯父は働いてマリアの母が立派な魔女になるまで必死に支えてくれたそうだ。そうして、マリアの母は一人前の魔女として巣立っていった。外の世界で出会ったマリアの父と結ばれ、マリアを産み落とし、育児をしながら、立派な魔女として今度は外から家族を支えていたらしい。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。
「わたしも、立派な魔女にならないと」
読み終わった本を閉じて、マリアは窓の外を眺めた。もう少ししたら、伯母か従兄弟が呼びに来る頃だ。その前に、出来ることをしようとマリアは思い立った。
読んだ本は幻想小説だった。なんでもできる魔法使いが架空の国の危機を救う。おとぎ話の中において、他者と違うということは悪い事ではないのだ。特別な力がある人は、それを正義のために使うことで英雄にだってなれる。
悪い人がどうして〈赤い花〉の人間を殺すのか、まだ幼いマリアには分からない。けれど、その理由が誤解からくるものだとしたら、世のため人のため、立派な魔女になることで、誤解をとくことも出来るのではないか。マリアはそんな希望を持っていた。
だが、マリアは魔女として未熟だった。母が幼い頃に読んだという教本を眺めても、分かったようで何も分からない。具体的なイメージがわかず、どうしても実現出来ない時が多い。
物語を読んだ直後なら、成功することもあった。光を生み出す魔法、音を生み出す魔法、そういった不思議な魔法を調子のいい時には成功させられた。雨の日に水滴を集めて妖精のように躍らせたこともあった。
しかし、いつも出来るわけではない。出来るときと出来ない時の違いがよく分からない。それがマリアの悩みだった。
魔法の練習について、家族は何も知らない。皆、人間だから、助言できる人がいないのだ。父母はどちらも魔法使いだったはずだけれど、五歳の頃の記憶は遠く、彼らがどうやって魔法を使っていたのかも思い出せない。祖父がどうしていたかも、伯父や祖母には具体的に説明できないようだった。
――それでも、どうにか立派な魔女にならないと。
世界はとても綺麗に見えるけれど、影の中に恐ろしい存在はいつも息を潜めているらしい。そしてそれは、祖母や伯父、伯母、従兄弟たちに守ってもらえるようなものではないそうだ。父母がいつまで経っても迎えに来ない以上、マリアに出来ることは努力することだけだった。それだけだからこそ、歯痒い思いでいっぱいだった。
――今日は調子が悪いみたい。
何事も起こらない指先を見つめながら、マリアはがっかりした。イメージでは光虫のような光が灯る予定だった。暗くなってきた部屋の中で、ランプに頼らずに本を読めないかと思っての事だった。しかし、なにかが足りないらしい。あと少しという兆しもなかった。
「マリア、そろそろ夕飯の支度だよ」
従兄に声をかけられて、マリアは椅子から立ち上がった。外はもう暗くなってきている。今日も一日が過ぎてしまった。昨日よりも立派な魔女に近づけただろうか。実感はわかず、ただ焦りばかりが強まっていく。
そんなマリアの悩みは、家族には伝わらない。従兄は夕飯が楽しみな様子で口笛を吹きながら歩いている。ワクワクした様子でマリアに話しかけた。
「今日はシチューなんだって」
「へえ」
「とっておきのチキンとバターを使うんだって。おいしそうだよね。マリアも朝からずっとお勉強して疲れたでしょう? ご飯食べて休んだ方がいいよ」
「そうだね、ありがとう」
いつも明るくて元気なのが従兄の取り柄だ。弟の方は控えめで疑い深い性格をしているが、どちらもマリアにとって貴重な同年代の話し相手であり、外の世界をよく知る博士たちでもあった。
外への憧れは、マリアの原動力にもなる。いつか外に出て、父母の足取りを追う事もまた、マリアの将来の目標であった。
◇
夕食後、マリアは屋根裏へと戻る。
ふかふかのベッドに横になると、眠気よりも本を読みたいという気持ちが強まった。けれど、ランプの力を借りてあまり夜遅くまで読書をするのもよくないことらしい。
伯父はよく言っていた。夜は魔物の時間である。科学が進歩して世間が魔物を忘れかけていても、魔物たちは消え去ったりしない。あまりにも夜更かししていれば、彼らに興味を持たれてしまう。ただの人間だったら揶揄われるだけだろう。けれど、マリアが〈赤い花〉であることがわかったら、何をされるか分からない。
伯父の忠告を思い出し、マリアは毛布にくるまろうとした。それでも、本を読みたいという欲求はなかなか治まらなかった。文字が綴る物語や記録といったものに触れたい。一度、自覚したその思いを抑えることが出来ず、マリアはついにベッドから起き上がってランプに灯りをともしたのだった。
本棚から引っ張り出した本は少女が主人公の恋愛小説だった。かなり古い本で、マリアの母がここに居た時からあったものと思われる。開いてみると、古い本特有の香りが広がり、マリアの読書欲を掻き立てた。
舞台は架空の国だった。秘密を抱えてひっそりと生きる少女が、同じく秘密を抱えてひっそりと暮らす少年と出会う物語。甘酸っぱい少女のときめきと、愛らしい少年の描写に惹かれながら、マリアは物語に引き込まれていった。
主人公の少女のようにときめきを感じ、指先を眺める。
――今なら、出来るかな。
ふと思いついて、マリアは指先に集中した。光がぼんやりと集まっていき、そして浮かび上がる。光虫のように自由に部屋を飛び回り、やがて消えていった。呼び出せたのは一匹だけ。けれど、立派な魔女は百匹ほどを呼び出せるらしい。そんなことを想いながらも、マリアは少し満足した。前にも成功させたことがある魔術だけれど、達成感はほぼ同じ。小さな一歩が嬉しかった。
しかし、そんなマリアの満足感を一瞬にして吹き消してしまう事が起きた。誰もいないはずの屋根裏の隅から、突如、子どものような笑い声が聞こえてきたのだ。飛びあがりそうなほど驚いて、マリアはその場を離れた。そして声の聞こえた場所を振り返り、そのまま固まってしまった。
誰もいないけれど、誰かがいる。
「すごい……初めて魔女の力を見たよ」
壁の中に小さな子どもの影がある。影だけがあって、笑っているのだ。声からするに男の子だろうか。マリアと同じ年頃の子どもらしき何かがそこにいた。
「ねえ、他には何か出来ないの? もっと見たいなあ」
嬉々として語り掛けてくるその少年の存在に、マリアは困惑してしまった。
夜は魔物の時間だ。伯父が散々言っていた忠告を思い出し、マリアは目眩を感じはじめた。忠告を破ったばっかりに、本物の魔物が来てしまったとしたら。そう思うと恐ろしく、悲鳴すらあげられない。マリアは座り込んでしまった。ぶるぶる震えているマリアを前に、影の少年は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? もしかして、ボクが怖い?」
頷くことも首を振ることも出来ないマリアに、少年はさらに言った。
「変なの。君も塵が平気なんでしょう? お昼にこの部屋からボクの事、見ていたいじゃない。てっきり、ボクみたいなのが平気なんだと思っていたよ」
見ていた。それを聞いて、マリアは思い出した。塵が降った時間、公園で塵の美しさに浸っていた子どものことを。あの子どもこそ、目の前にいる彼なのだとしたら。
「あなたは……誰?」
やっとマリアが訊ねると、少年は笑いながら答えた。
「それは秘密!」
「え、秘密なの?」
「ばっちゃんに言われているの。同じ種族の人以外に名乗ってはいけませんって」
「……そうなんだ」
仲間外れにされたような気分になって、マリアは少し落ち込んだ。そんなマリアの様子を見て、少年は首を傾げた。そして、
「自己紹介は出来ないけど」
と断ってからマリアの視線を惹きつけた。そして、くるりと宙返りをする。軽業師のような見事な芸当にマリアは圧倒された。しかし、驚くべきところはそこだけではなかった。壁の中にある影の大きさが一瞬にして変わったのだ。
「ねこ?」
マリアはぽつりと呟いた。少年の影の背丈が半分ほど縮んだかと思えば、そこに立っていたのは二足歩行の猫のような影だったのだ。本の挿絵でしか見たことのない、その妖精のような姿にマリアは驚いた。
猫になった少年は照れ臭そうに頭を掻いてから言った。
「ボクの特技なの。えへへ、びっくりしたでしょう?」
無邪気なその問いに、マリアの警戒心が少しずつ薄れていった。どうやら悪い魔物ではないらしい。
「すごい。他にも何かになれる?」
「うーん……ボクに出来るのはこのくらいかなあ」
今度はしゅんとした様子で猫の少年は耳を伏せた。影のみが見えていても、その表情までもが見えてきそうな気がして、マリアは慌てて首を振った。
「それだけでもスゴイよ!」
そして、訊ねた。
「ねえ、そこから出てくることって――」
と、その時、外で鐘の音が鳴りだした。深夜、眠りの時刻を告げる鐘の音だ。マリアが祖母の家に引き取られた時から変わらず、同じ時刻を告げている。子どもにとっては夜更かしの象徴であり、マリアにとってもまた同じだった。
「もうこんな時間……」
「いけない。ボク、そろそろ帰らなきゃ!」
鐘の鳴った方角を見つめ、少年は慌てた様子で言った。
「また来るね。ばいばい」
そう言って猫の姿で手を振って、彼の影は隅へと吸い込まれていった。沈黙が生まれ、人の気配が消えていく。鐘の音の余韻が残る中、マリアは我に返った。今、見たものは夢だったのだろうか。そう思うくらい、少年のいた痕跡は跡形もなく消え去った。
マリアは本を閉じ、そしてランプを消してベッドに潜りなおした。明日、また、魔法の練習をしよう。淡い期待と共に、マリアは思った。深夜の鐘の鳴る前に、魔法の練習をしていれば、もしかしたらあの少年がまた来てくれるかもしれない。
影しか見えなかった彼の姿を思い出しながら、マリアはふと自分が笑っていることに気づいたのだった。