空白の幽霊体離脱
岳本柳凪、女、12歳、趣味は読書、ミステリーと漫画ですって、自己紹介してから、サッサと座った。
中学生になった途端、見知らぬクラスメイトの中で、早々に自己紹介させられるなんて、小学生の時と同じで、何だか腑に落ちなかった。
中にはチャンと、予習して来たのもいて、ここぞとばかりに、流暢に特技なんかを長々と話す者もいた。
中学生になったてから、又1年生なんて、やり直し感が凄い。
学校も遠くなった。
入学式の次の日から2日間休みのは、嬉しかった。
たまたま父が休みで、弟も学校が明日からなので、室内温水プールの無料招待券で、波の出るプールに行く事になった。
4つ下の弟、和希は、泳ぎが得意だったし、一家で遊ぶのが好きなので、殊の外テンションが高い。
なんとなく、父と和希、母と柳凪に分かれて、それぞれ室内温水プールを楽しんだ。
母は早々に疲れて、場所取りしたパラソルの下のテーブルセットに、避難していた。
時々、ムワッとした室内プール特有の暖まった空気の塊が顔を直撃したが、それ以外は楽しかった。
3人で流れるプールを楽しみ、バケツから水が落ちる場所で、散々ふざけあった。
波の出るプールからの《今から波が出ます》コールが流れると、あちこちから人が集まって来る。
人工的に砕けた波に、呑まれ揉まれ、身を任せる。
終わる頃には、疲れ果てるのだった。
いつの間にか、父と和希から離れてしまい、柳凪ひとりになっていた。
波の出るプールの淵に掴まった。
足がつかないからだ。
真ん中へんから先は、結構深いので、浮き袋に掴まってる子供がプカプカと浮いて、波の余韻に揺れている。
静かになったプールから徐々に、人混みが崩れ出し外に流れだしていた。
柳凪が、泳いで足の立つところまで行こうとした時だった。
「あっ、、。」
見覚えがあった。
同じクラスの湯山隆だ。
相手も気づいたらしいが、間に沢山の人が居る。
スケルトンの明るい天井からの陽光と隅々まで照らし出された明るく南国風の室内プールが、一瞬、霧に包まれた様に、灰色に変わった。
思わず、頭を水の中に入れて隠れてしまった。
浮かび上がってきた時には、隆の姿は無かったので、何故かホッとした。
話しかけられても、なんとも応えようがない。
しばらく、泳いで行く人の群れ見ていたが、やがて柳凪もプールから上がった。
水から出ると、身体が重い。
和希の様に、水の外でまで、ギャアギャアと騒ぐ気分には、もうなれそうもない。
肩までの髪が額に貼り付いているのを、手でよけてから、母が陣取ってるパラソルに向かった。
タオルをもらい、雑に髪を拭いてから、肩にかけると、近くの椅子に腰を下ろした。
ここは持ち込みも出来るので、お昼のお弁当の残りやポットに詰めた麦茶がテーブルに並んでいる。
お茶をもらって飲んでると、波の出るプールの方から、父親と和希がやって来て、隣に座った。
残り少ないお弁当の中身は、アッと言う間に、父と和希に平らげられてしまった。
皆でアレヤコレヤ話していたら、お腹の空いた和希の希望で出店の焼きそばを買ってくる事になった。
こういった時、男達の団結は強く、行動も素早い。
2人は、軍資金をもらうと、サッサとソースや揚げ物の匂いの方に行ってしまった。
笑いながら、2人の後ろ姿を追ってると、湯山隆が側のテーブルにヤッパリ家族と座っていた。
思わず引きつったが、斜め後ろ姿なので、あっちからはこちらは見えずらそうだったので、なんとなくホッとした。
大判のバスタオルを着ていて良かったと、前を掻き合わせたその時、ガチャンと音がしたのだった。
母が急に立って、椅子が後ろに倒れたのだ。
慌てて、椅子を起こす母の向こうに、隆の顔があった。
思わず首をすくめ、バスタオルの中に、潜り込む様な格好になった。
そんな柳凪に気付かず、母は和希の危なっかしいトレーをもらいに行ってしまった。
本当に気不味い。
そこに焼きそばやタコ焼きやジュースを乗せたトレーと家族が帰って来た。
ワイワイと楽しげに父や和希が戦利品をテーブル並べだした。
目を上げると、いつの間にか、隆の家族は消えている。
帰って行ったのだろうか。
熱々のタコ焼きを食べながら、空いた席に、別の家族が座ったので、ホッとした柳凪だった。
お腹のいっぱいになった和希と父親は、腹ごなしに流れるプールへ行ってしまった。
母と2人で、テーブルの上を片付け、持ってきた物をしまって、女2人ノンビリした。
汗をかいてる透明なカップの中の大きな氷が、溶けて消えそうな頃、2人が帰って来た。
水っぽくなったてしまって、炭酸も消えたジュースを、和希が飲み干すと、やっと帰る事になったのだった。
楽しいプールだった。
翌日、眠そうな父と和希を送り出した後、母とお昼を食べに出かけた。
母が気分転換が必要なのよ、と、笑ってる。
柳凪の学校が給食がある事が、嬉しいと言っていた。
「夏休みまでは、コレでお昼作りに追われないわね。」
「お昼作るの大変だった。」
「うーん、お昼ご飯って、こう、力が入らないのよね、何故か。
ほら、朝って、起こして会社や学校に出せるでしょう。
夜は、今夜はガッツリとカツカレーとか、グラタン作っちゃおうとか、メニューに困らないし。」
母が目の前のアイスコーヒーをカランと混ぜて、氷をコップの下から上にまわした。
さっき食べた、パスタやサラダの皿は、飲み物を持ってきてくれたお店の人が片付けてしまったから、テーブルが広い。
「力が入らないのよね〜お昼ご飯って。
焼きそばかラーメンか、チャーハン。
ここで、頭を使って作っちゃうと、夜ご飯の分がなくなるみたいな。」
母がケロケロと笑う。
「で、ランチ、今日は。」
「そう、昨日、お弁当も作ったし、今日のお昼はお休み。
リュ−とカズが小さい頃、コーンフレークブームがあったの覚えてる。」
柳凪は、コクンと頷いた。
「ひと夏お昼は色んなコーンフレークだったから、メニューは楽だったけど、毎日毎日、牛乳買わなくちゃならなくて、お父さんに会社帰りに買って来てって、頼んだことがあったのよね。」
「えー、あの何にもしなさそうなお父さんが、お使いしてくれてたの。」
コレには、柳凪も吃驚だ。
父親は子供と遊ぶのは好きだったが、ゴミ1つ、捨てに行かない人だったからだ。
好きな事しかしないイメージが強かったのだ。
「お母さんが、切れちゃったのよ。
カズったら、オヤツまでコーンフレークで。
ホラ、牛乳ってリサイクル用に、パックを切って洗って乾かしてるでしょう。
あれを夜中に帰って来たお父さんに、何十枚も投げてね。
『もう、牛乳買いに行きたくない。
明日から、お父さんが買って来て。
買ってこれないないなら、あの子達のお昼ごはんは、お父さんが作ってやって。』って、泣き崩れちゃったのよ〜。」
しっかり脅してる。
そんなに負担になってたなんて。
「で、お父さん、買って来てくれたの。」
母がニッコリと笑った。
「一日置きにね。
近くにコンビニも出来てたし、ちゃっかり自分のビールなんかも買って来てたわ。」
「ふーん、家庭の平和は守られたんだ。」
思い出すと、笑える。
柳凪はコーンフレーク自体、毎日食べたかった訳ではないが、和希がブームだったのを思い出した。
あの子は、同じ物をとことん食う癖があった。
夏は暑さで食欲が落ちるから、ソーメンが1週間でも、ナスの炒め物や胡瓜の浅漬けが毎日でも、構わなかった。
それぐらい、気を抜いて食べていた、夏休みのお昼ご飯に、母が悩んでいたなんて。
柳凪は、運ばれて来たランチセットの小さなアイスと綺麗に飾られた果物をつつきながら、あれこれと思案の谷間に落ちて行っていた。
「これ、美味しいわね。」
先に食べ終わった母の言葉で、ふと我に返った。
「和希には、物足りない量だわね〜。」
そうだった。
和希の食欲は凄まじい物がある。
もうすぐ、柳凪や母より、食べそうな勢いがあった。
「今って、新学期から直ぐに給食があるでしょう。
助かってるわ。」
アイスコーヒーが、残り少ない。
「お母さんの時代って、新学期早々、給食が始まったりしなかったし、時間割もこんな風じゃなかったから、お婆ちゃんに『又、帰って来た。』って、言われた事があったわ。
中学からお弁当だったしね。」
「お母さんは、お弁当、どうしてたの。
自分で作るとか。」
母親が自分の眼の前で手を大きく振って否定した。
「まさか。
朝の台所で、ウロチョロしたら、怒鳴られるだけよ。
お爺ちゃんもお兄ちゃん2人もお弁当だったから、ついでに作ってもらえたし。
今見たく、食べる場所もコンビニも無かったから、お弁当持っていくのが普通だったわね。」
それはそれで、楽しそうだ。
「真っ茶色。」
母がまた、ケロケロと笑う。
「その頃って、プチトマトやブロッコリーなんて、知らなかったし、八百屋に売ってなかったから。
なんでも醤油色で、うちは卵焼きにも醤油とネギだったから、ご飯の上の梅干し以外は、本当に真っ茶色だったのよ〜。」
凄い。
「わー、見てみたかった。」
「ふふ、夏休みに作ってみようか。」
「カズ、泣くかもしれないよ。
あれ、でも、うちって、甘いフワフワの黄色い卵焼きだよね。」
「そうなのよ。
お父さんが、甘いのが好きで。
コレでも頑張って作ってるんだから。」
「ふーん。
でも、ネギ入り醤油色卵焼きも食べてみたいな。」
それから、竹輪の醤油煮やコンニャクの味噌炒めや佃煮の話で盛り上がってしまった。
「ホラ、なんていうのあれ。
冷凍のコーンや人参やグリーンピースのあの、カラフルなの。
あれは、衝撃的な色合いだったわね。
今でも売ってるけど。
お友達のお弁当にも引きつめられてたけど、食べ辛そうだったわ、お箸だと。
うちだと、食べたいって頼んだら、卵焼きに混ざってて、見事な醤油色だったわよ。」
それはそれで、なんだか美味しそうだった。
2人はノンビリ家に帰ると、昨日の疲れで、それぞれ寝てしまったのだった。
柳凪が起きると、林檎ソースをかけたホットケーキをぱくついている、和希がいた。
「姉ちゃんも、食う。」
柳凪はいらないと、手を振って、テレビの前のソファーに腰を下ろした。
「お母さんは。」
「ぅむ、か、い、も、ん。」
口中、食べ物だらけでは、上々の返答だろう。
「そう、忙しよね、お母さん。」
「ブン。」
鼻を鳴らしたような返事が返ってくる。
「ミルク、ないって、さ。」
あー、そうなんだ。
ホットケーキもグラスの中身も、和希の側にあるのは、牛乳ばかりだ。
この子、こんなに牛乳が好きだったっけ。
コーンフレークも牛乳飲みたさ、だったのかもしれない。
夕方のアニメが始まった。
それがニュースに変わる頃、母親が帰って来た。
さっさと夕餉の支度をし始めている。
「あらあら、まあ。」
母の笑い声に振り向くと、和希が食卓テーブルの下で寝ている。
それをそっと抱えると、和希のベットに運んで行った。
柳凪は、食べ荒らした和希の、おやつの跡をかたし、ベトついたテーブルをサッと拭いた。
「あら、ありがとう。
重いわ〜、カズ。
もう1人で運べなくなりそうよ。」
「食べるもんね。」
和希は夕飯にも起きて来なかった。
母と2人で食べる食卓。
父親は今夜も遅い。
母親をのこして、柳凪も自分のベットに入ったが、眠られない。
サッと曇った様な、あのプールの一コマが、思い出される。
明日から、クラスメートなのだ、あの隆も。
やがて、眠りの中に落ちて行ったのだった。
学校が始まったが、特段、隆と話す事は無かった。
同じ小学校からの友達とつるんでいたし、クラスはなんとなく、そんな風だった。
小学校と違うのは、教科もだが、箸が出ない事だ。
柳凪の小学校は正しい箸の持ち方を、推奨していて、主に箸を使わされていた。
この中学では、ナイフとフォークとスプーンが、出てくる。
その上、マナー研修とかで、マナーの時間が、回ってくるのだ。
その時は、ふた部屋ぶち抜いた広い場所に移動だ。
1組だったので、2組と合同で、講座を受ける。
私語は禁止。
質問も禁止。
配られた何枚かの皿を前に、講師がとうとうとレクチャーするのだ。
不満そうな男子が鳴らした椅子の音も注意された。
コンソメスープを飲んだけど、特に美味しいとは思えなかった。
目の前の皿の上には、鶏肉のピカタとクリームパスタ。
彩りにグリーンピースが乗ってる。
牛乳は無くて、水の入ったグラス。
小さめの小鉢にレタスと胡瓜とトマトとヤングコーンのサラダ。
色合いは綺麗だった。
そして、音を立てないで食べるパスタに、悪戦苦闘。
バターロールはまあまあ食べやすかったけど、フランスパン風のは、パン屑がバラバラと落ちてきて、これには、誰ひとり、静かに食べる事は出来なかった。
まるで、罠みたいなパンだった。
食べ終わると、果物が配られる。
3切れのバナナと2切れの林檎。
小さなゼリーが添えられていて、白いクリームが、かかっている。
小さなカチャカチャというフォークの、音がしばらく続いた。
これを給食風に配りながら食べるのだから、時間がかかる。
配って食べ終わった頃、昼休みの時間さえ、終わっていた。
一旦、片付けとトイレ休憩を挟んでから、テーブルマナーの講義が始まる。
これも私語禁止。
やっと終わると思った時だった。
「では、このマナー講座での経験を身につけ頂く為に、来月から、私達でクラスを回ります。
こちらを良く読んで、身につけていって下さいね。」
と、にっこり笑ったのだ。
騒ついたのは、仕方のないことだろう。
休み時間と5時間目を潰したマナー講座。
終わって、クラスに帰ると、みんなの不満が溢れたのは、必然。
帰りの時間までのわずかな時間でさえ、このマナー講座で持ちきりだ。
お姉さんが学校でマナー講座を受けた事のある子が真ん中。
「で、知らなかったのよ。
その学校が、昔花嫁学校だった事なんて。
食事のマナーから、歩き方、挨拶の頭を下げる角度、なんてあって、うちのお姉ちゃん、お琴の愛好会に入っちゃって、訳がわからない高校生活だったんだから。」
皆で、おーっと、感心した。
「そんでね、私もテーブルマナー、仕込まれてさ。
ナイフとフォークで、さ。」
その子が、笑う。
「ホットケーキ食べながら、怒られてたんだよ。」
これには、ドッと笑いが巻き起こった。
「、、、、、。」
聴こえない。
そこには、柳凪が居た。
目の下に、クラスメートと笑う自分。
あれは誰。
動いて笑っている。
何をしてるの。
私は、こっちなのに。
恐怖が襲って来た。
私は私が居なくても、平気なんだ。
私の身体は、私がいらないんだ。
帰らないと。
そうだ。
帰らないと、帰れなくなるかも知れない。
私は今、幽霊。
突然、音が帰って来た。
何事もなく、そこに居た。
視線を感じて、振り向くと、隆がこちらを見ていた。
途端に、光がまるで絞られたかのように、辺りが暗くなった。
ほんの一瞬。
瞬きをすると、光が戻ったのだった。
帰宅してから、調べた。
幽体離脱の話を。
違う。
寝てる時ばかりが、出て来る。
これじゃぁ夢見てるだけだ、と、探すが、寝ている自分を見た話ばかり。
勝手に動いて、勝手に話す、自分自身を眼にするっなんて、話は何処にも出てこない。
せいぜい、ドッペルゲンガーだ。
何かに肉体を、自分自身を乗っ取られて、空中にフワフワ浮くなんて話は、とうとう見つけられなかった。
諦めてふて寝し、アレは勘違いかも、と、記憶に蓋をしたのだった。
美術の時間、課題の9枚綴りの銅板レリーフが、他の班とピッタリ合うのだ。
美術の先生は、面白がって、その18枚のレリーフを、市のコンテストに出品した。
それは、帆船を海賊船が狙って今にも襲って来そうな絵柄だった。
柳凪が打ち損ねた半端な穴が、隣のレリーフに重なり、ひとつの模様の中に埋もれていた。
これには、柳凪の顔が曇ったが、同じ班の人達は気付いていない様だった。
そしてその、そのふた班の銅板レリーフは、波の形状や水平線がピッタリと揃っていて、佳作どころか、金賞を取ってしまった
柳凪達の帆船を打った班と対に作られたかのような海賊船のレリーフを打ち出したのは、湯山隆の班だった。
偶然。
そう思いたかった。
1学期の締め括りは、競技大会だった。
柳凪は百mと砲丸投げに出た。
砲丸投げは、やる女子がいなかったので、くじ引きで当たってしまったのだった。
競技には、点数が付く。
1位が3点、2位が2点、3位から6位までが1点だ。
何から何まで、点数だ。
それも、赤とか白とかでは無く、各クラス、各学年単位なのだ。
慣れない砲丸投げで、3位だった柳凪だが、2位の子が、ラインを踏んで失格したので、1点貰えた。
チョッと嬉しかった。
棒高跳びや幅跳び、女子の大縄跳び、男子の組体操。
給食を挟んで、花形なのはやっぱり、リレー。
次々と点数が重なって行く。
締め括りは、点数の発表だ。
1年1組は、なんと2点差で、6組を抑えて1位。
2年も1組、3年も1組が、1位で、総合も、1組が、取ったのだ。
クラス中が、湧いた。
3名の1組代表が、賞状を受け取る。
黒板の上に、あのレリーフでの金賞と共に、飾られたのだった。
今年は1組が凄いぞと、他の組からも言われ出した。
確かに。
学年トップも、何故か1組にいた。
夏休みが直ぐに始まり、そんな浮かれた気分も忘れた頃、2学期の最初のイベントが、やって来た。
合唱コンクールだ。
これも優勝したクラスは、市の音楽堂での発表会があった。
柳凪のクラスは第九の歓喜の歌を選んだ。
歌の上手い子達が、選んだのだ。
柳凪はまあ、その他大勢。
アルトのパートを歌う。
このクラスは男子の方が、歌が上手い子が多い。
特にテノールは、飛び抜けていた。
が、ズバ抜けて凄い子がいても、合唱はやはり、チーム力。
コンクールでは、3位だった。
優勝した8組は、凄い騒ぎだった。
それが、音楽の先生の一言で、ひっくり返ったのだ。
本当にひっくり返されたのだった。
校長や8組の担任、2位の5組の担任、そして我が担任を向こうに回しての大立ち回り。
ひと月後の音楽堂での発表クラスは、1組の歓喜の歌に、決まったのだった。
校長より強い音楽の先生って、何。
そして、柳凪のクラスは放課後、歌のレッスンが始まった。
最初こそ、8組の子達が廊下に鈴なりになり、ザワザワとしていたが、3日も立つと、それも収まった。
クラスの歌唱力が、まとまり出したのだ。
音楽の先生が睨んだとおりだった。
音楽堂への当日、3年、2年、1年と、代表のクラスが、バスに乗って行った。
公共ギャンブルで潤っているこの市の音楽堂は、豪華だ。
柳凪達の歓喜の歌が始まる。
柳凪はそれを聴くことはなかった。
歌っている自分がいた。
音楽堂の天井は高い。
そこに張り付いてるのが判る。
建物が無かったらと思い、ゾッとした。
音は聴こえない。
皆が、口を大きく開けているから、歌っているはず。
2度目は、辺りを見回す余裕があった。
反対の天井の角に、隆だ。
コッチを見て、笑っている。
隆が指差した方に、音楽の先生と担任がいた。
それからも、特に湯山隆と話す事は無かった。
1組は、球技大会でも、男女共に優勝し、学園祭での若き日のリンカーンを題材にした劇で、先生方や保護者からの絶賛を浴び、2学期の締め括りの校内マラソン大会では、1位2位3位を独占した。
小さな中学校での話だ。
そんな年も、そんなクラスも過去にいくつもあっただろう。
2人の幽霊体離脱者が、いる以外。
柳凪は知った。
空中に浮いている時、時を逸脱し、別の次元にいる事を。
音がついてこられない事も。
そしてその、その背後に、先人の知恵の詰まった社がある事も。
図書館と言っても良いが、光の洪水で、何も眼にする事は出来なかった。
そう思うのが、1番妥当だと感じただけだ。
あの、音楽堂の浮遊時、柳凪は隆と共に、そこに足を踏み入れていたらしい。
全ての世の理が、整然と並んでいた。
なんでも、望みが叶うだろう。
答えがそこにあるのだから。
幽霊体で読み解ける記録書の中を浮遊する。
遥か時の彼方から行われて来た、神託の秘密が見えた。
柳凪はそこに、1秒いたのだろうか。
それとも、千年。
身体を取り返すと、クラクラとし、辺りは暗くなってから、明かりを取り戻した。
柳凪は誓った。
2度と、幽霊体にはならないと。
勝手に歌っていた身体を取り戻したが、その間の空白は、埋まらないのだ。
理解できない知識の洪水に巻き込まれたくは無かった。
貪欲、と言う言葉も知った。
次の月、お正月を待たずに、柳凪は転校して行った。
知識の風に炙られた柳凪は、それっきり勉強という物をしなくなった。
教えてもらう事に興味が無くなったのだ。
それに親が気付くのは、2年後。
柳凪は、自分の道を歩く。
あの、幽霊体の時に覗き見た知識の海に、呑まれないように。
今は、ここまで。