序幕「邂逅と焦燥」
私がまだ三歳くらいの頃の記憶。簡素な砂場と石造りの亀が二匹だけしかない近所の公園で遊んでた。
プラスチックの赤いスコップ、同じく黄色いプラスチックのバケツを手にして砂場で佇んでた。足下には小ぶりな砂山が一つ、二つ。間に掘られた溝は川をイメージしてあるのかな。
笑った。無邪気に笑い始めた。
ふと、急に視界が高くなったと思ったら私は足で砂山を踏み潰し始め、狂ったような甲高い笑い声を上げ始めていた。
「はい、こっちの人たちは負けです」
右側の山を潰した私が言った。すごく楽し気な声で言った。
純粋な悪意が込められた言いっぷりには、我ながら背筋が凍るような思いを今でも覚える。
子供はどこまでも残酷だ。自分の無知さを掲げてどんな悪行にも無垢な瞳を以って挑んだから。
「でもね、こっちの人たちも負けでーす」
ほら、ね。結局はどっち側の山に属そうとも、私という無慈悲な神様によって押し潰されてしまう。
これは単に砂場だから起こった悲劇、という訳でもない。
仮に、この頃の私が神様にも等しい力を持っていてとしたら、この惨劇が現実の世界でも起こっていたかもしれない。だってこの頃の私は、善悪の区別も概念も持ち合わせてないんだもん。
自分が楽しければそれでいい。自分が一番ならそれでいい。
幼さっていうのは、そういうものだと思う。
* * *
あんな小さな頃の思い出を掘り出してしまったのは、目の前の現実に対して戸惑っているから、かな。
「ガラスの靴、とまではいかないけどさ。君は御伽噺でいうところのシンデレラに近しい状況にあるんだよね」
開いた口が塞がらない、と他人は言うけれど。私の場合、口は固く閉ざされたまま微動だにしていない。
「良い例えだと思ったのだけれど、未だピンとこない?」
ピンとこない、なんて問題じゃない。
「あの、さ……大丈夫?」
思考はこの通り正常に活動を続けている。けど、カラダが言うことを聞かなくなっている。
目の前の小さな――それも低身長とか発達障害とかの次元じゃなくて、人間のカラダの構造を根底から翻した小ささの――女の子を認識してから、ずっと忘れていた瞬きを辛うじて再開させる。
瞬間的な視界の暗転にすべての希望を託してみたけど、それは無駄だった。
「や、やっぱりいるぅ」
「信じられない、ていう気持ちは分かるよ、うん。けどね、私は今ここに確かに存在してる。それでアナタの意識もしっかりと覚醒してる。つまり、そういうことよ」
そういうこと――じゃないよ。
私は麻耶さんを見掛けたからその後を追ってきて、そしたら見知らぬ路地に入って、急に麻耶さんが足を止めたと思ったら振り返って、それで私は……。
「ようやく自分が置かれてる立場を理解し始めたようね。そうよ、アナタは今まさにこの女に殺されそうになってるのよ」
小さな女の子がアゴで指した方に居るのは、無表情のまま、まるで時間が止まっているかのように動きを止めている麻耶さん――ていうか、ホントに時間が止まってる?
「え、なに……なんで?」
「私が時間を止めてるの。アナタに選択肢を選んで欲しくてね」
ニッコリと笑ってるけどなんでだろう、その笑顔がすごく怖い。
「選ぶって、なにを?」
「一つ目はこのままこの女に殺される。二つ目は私と契りを交わして魔法少女になる。三つ目は世界に溶け込んでこの世界の一部となる。さ、どれを選びたい?」
三つ目の意味がよく分からないけど、要するに私が生き延びるには“魔法少女”になる以外に選択肢は用意されていないことになる。
なら、私の選択肢は実質的には一つしかない。
「魔法少女になるって……どういうこと?」
「どうもこうも――言葉の通りよ?」
魔法少女――昔よくテレビで見た感じのままなら、私って相当痛ましくない?
「あのね、私は今年で十九になるんだよ? そんな私が魔法少女って無理があるんじゃない?」
「うーん……魔法少女っていうのはね、所謂、呼び方の一つにしか過ぎないの。人にとって一番イメージし易い呼び方を考えた際にこの言葉に行き着いただけだから、そんなに深く考えなくて良いよ」
ますます私の中での困惑は強まった。でも、なるしかない。
ただ単に生き延びたいから、じゃない。どうして麻耶さんが襲って来たのか、少なくともその理由を知りたい。その為にはやっぱり、選り好みしてる場合じゃない。
「なる……なるよ、魔法少女。だから、もう少しだけ生き延びさせて」
「はぁ良かった……これでノルマ達成――」
「ノルマ?」
「あっいや、こっちの話ね。はいはい、それじゃこっちの契約書にサインちょうだいね」
女の子が指を鳴らすと、どこからともなく端の方が所々破けてる茶色い紙が女の子の手の中に出てきた。
「はい」
突き出された紙には英語の筆記体のような文字がずらっと記されてる。当然、読めたものじゃない。
「これ、なんて書いてあるの?」
「まあ、お決まり的な注意書きだし、そんなに気にしなくて良いよ。ちゃっちゃとサインしちゃって」
「注意書きなら、いちおう読んどきたいんだけど……」
「ああっ、時間停止の限界が迫ってるわよ。早くしないと間に合わなくなるー!」
嘘だ、絶対に嘘だ――と気付いたのは、書面にサインをしてしまった後に女の子が見せてきた笑顔を見てからだった。