打ち砕かれる希望
結局先週末はばかみたいに2時間かけて女のところへといそいそと出かけて行ったウィルを見送った。
離婚届云々よりも、一番芽依が傷ついたのは今まで妻として支えて来た夫から言われたあの言葉。
『なあ、本当に俺の子?』
女として、妻としての最大限の屈辱を味わった。
携帯電話を持って外やトイレへと行く夫の背中を見て、哀しいやら情けないやら。
「どうして…こんなことになっちゃったんだろう…」
芽依の頬を伝わる涙に気づきもしない夫は、楽しそうに女との会話に勤しんでる。
何度、この人に泣かされた?もう何度…この人に私との約束を反故された?何度、この人から傷つけられた?答えが出る前に夫は虫を見るような眼差しで私を見る。
『ちょっと出かけて来る』
え?今日は昼から約束してたじゃない。今日こそはストローラーを買いに行くんだって!何で?どうして、ちょっと出かけて来るなの?どうして…私よりも、お腹の子よりも、そんなにあの女が大事?
『待ちなさいよウィル!ちょっと? 何がちょっとなのよ!またあの女と泊まるんでしょ…。大体男と女が1晩も2晩も泊まって、何もないなんてあるわけないじゃない、厭らしい』
『芽依?俺はただ仕事の…』
まさか私が言い返すなんて思っても見なかったって顔をしてる。
『もう嫌なの! そんな虫も殺さないような顔で優しい声でウソつかないで! あの女に会いに行くんでしょ!わかってるんだから!!』
すがる様にウィルの洋服を掴んで。
『もう、あの女と寝たんでしょ!』
『寝てない!キスしかしてない。彼女は友達だ!』
『ねえ、本当に寝てないんだったら、どうしてそんなにムキになるのよ。友達?いい加減に目を覚ましなさいよ! 友達に会うために週末ごと片道2時間かけて会いにいくんだ? それが友達って言うなら、じゃあどうして他の友達にはそんなことをしないの?』
『……』
『自分に分が悪くなると黙りしちゃうのはズルイよ。リズだって言ってるわあの女の目的はね、あんたじゃないの。ただ誰でも良かったのよ。グリーンカードをくれる相手ならね。だから誰にでも股を開く。あんたは騙されてるのよ、あの女の相手はあんただけじゃない。どうしてそれが分からないの?』
何が起こったかわからなかった。ただ気づいたら芽依の体は壁に叩き付けられていた。自分の手を見てただ呆然と立ち尽くす夫を見上げれば、夫は荷物を奪う様に持つと家を出て行った。
結局その日もウィルは家にも実家にも帰って来なかった。
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水曜日だ。週末まで後2日そう思うだけで胃が痛い。キリキリと痛む胃を押さえながら、カレンダーを見てため息をつく芽依に義母のリズは『私達はあなたの味方よ』と元気づけてくれる。ああ…いっそのこと、週末なんて永遠に来なきゃ良いのに。
『芽依。また痩せたでしょ!これ以上体重を落としちゃダメだって言ったでしょ!』
主治医の言葉に苦笑した。あんなに努力して痩せようとしても、痩せれなかったのに。今では食べろ、太れって何だか、皮肉だ。今は、何もしなくても痩せて行く。何を食べても砂を噛んでるよう。そんなんで食欲なんて湧くわけない。もう気が狂いそうだ。芽依が正気を保っていられるのは、狂ったら負け。夫も子供も家も全てあの女に取られてしまう。それだけは絶対に嫌!その不屈の精神だけで生きてる。
たまに起こる立っていられないような腹痛も、痛いって言う段階どころか、あの女の呪いなのかと思ってしまうほどの異常な鈍痛から逃れる様に、胎児の様に体を丸くしていつ引くかわからない痛みが治まるのをただ待ってる。
毎朝当たり前の様に食事を食べて、当たり前のように仕事に行くウィルに腹は立つけど、全ては家族のためにと妻として心を殺して妻として家を護ることにした芽依。そんな芽依を追いつめる様に、ウィルは毎晩夜中過ぎまで階下で携帯やパソコンいじりにせいを出している。妊娠後期に出る腓返りで悶絶をうってる芽依がウィルに助けを求めていても、彼のスタンスは変わらない。
「…痛い…痛いよ…。ウィル…助けて…」
芽依の掠れた声は、部屋の天井へと消えて行った。痛みをこらえながらも、いつか夫が自分のところに帰って来てくれる。その時は彼のことを許して私達はもっと幸せな夫婦になれる。
ー子供さえ無事に産まれれば、あの人の心も自分に返って来る。
「子供さえ無事に産まれれば…」
結局この週末もウィルはいつものように女のところに出かけて行った。
週明けの月曜の朝になって帰って来た夫は、何事もなかったかの様に終始ご機嫌。余程女の手技が良かったらしい。彼が家に帰って来るのは何も私を愛しているわけじゃなかった。ただ着替えと朝食を食べに帰って来る。それだけだ。夕飯を用意してても、彼は仕事だから要らないとか言って食べない。
その度に思わされる。私って一体なんなんだろう?って。体のいい家政婦?
珍しく夕方になって仕事から帰って来た夫は、私に明日は開けておけと言うとさっさと自分の部屋に篭る。
『え?なんで?』
バイブルスタディー?でも夫が女と会う様になってから、教会には一度も行ってない。今、教会に行っているのは、教会員でもクリスチャンでもない芽依だけ。
『なんでって芽依言ってただろ? ベービー用品を買いに行くってさ。行きたくないのかよ』
『行きたい!行く!』
思わず芽依の顔に笑みがこぼれた。覚えててくれたんだって、だがその笑みもすぐに強張った。
RRRR……
彼はいつものように外に出ると女と話し始めた。時折嬉しそうな声が聞こえて来る。多分、明日後から連休だから会いたいとか言って来てるんじゃないのかしら。それか早く離婚して私と結婚してとか言われているんだろう。あの女もウィルも一体何を考えてるのか…。
この月は、メモリアルデーがある月で明日からは4連休。ちらりとカレンダーに目をやっては、これ見よがしに肩を落とす芽依は一生分のため息をついた。
ー絶対に、明日後から、女のところに行くつもりなんだ。
ー何で…。
ーいつもだったらメモリアルデーは、必ず義父母たちとって決めてたのに。そんなにあの女が良いの?
次の日、心では泣いているがなんとか顔にはスマイルを張り付かせ、芽依とウィルは某大型ベービーショップへと向かった。妊娠する前は、友達夫婦のベービーシャワーの買い物くらいでしか来る事がなかったけど、ベービーグッズって色々あるのね。品揃えの多さと可愛さに芽依は我も忘れて目を奪われていく。
芽依の横にいた夫は、最初は笑顔を浮かべていたが途中から何度も携帯電話を見てはため息を吐いてる。誰が見ても、夫婦でベービーグッズを買いに来ている姿には見えない。
初めの1時間くらいはもった。仲が良かった頃を彷彿とさせる様にウィルが芽依に対して優しく車のドアを開けてくれたり、手を添えてくれたりと魔法のような時間はたった1時間で消えた。
私達の赤ちゃんのための物なのに、ウィルはさっきから携帯電話で誰かとチャットをしている。芽依は妻として築いて来た夫との蜘蛛の糸の様に細くなった信頼関係がぷつりと音を立てて切れてくのを感じた。
ストローラーの種類の多さに戸惑いながらも、芽依は頭の中で出産前までに揃えておきたいものを、算出してく。はぁ〜こりゃあ、お金が飛んで行くわ。大きな買い物で絶対必要な物は、カーシートにベービーベッドにベービーバス…それにすとローラーでしょ。本当に色もカラフルだけど、値段もピンからキリまで。その中からどれにしようかとウィルに相談しようと彼を探すが、今まで自分の後ろにいたはずのウィルは出口付近で電話をしている。
『ウィル。ウィル』
大声でウィルを呼んだのがまずかったのか、彼は煩い面倒だと言わんばかりに顔をしかめた。それは明らかに子供の誕生を愉しみにしている父親には見えない。
『なんだよ』
『ストローラーを選びたいの。あなただって、赤ちゃんのお世話とかしたいでしょ? 自分が押しても良いなって思うストローラーはどれ?』
『そんなの、適当に選べば良いだろ』
『適当って、何? その言い方…』
友達の旦那さんは、産まれる前から献身的に奥さんの世話をしてくれたって聞いたのに。ウィルと来たら献身的に女につくしてどうするのよ。青筋をこめかみに引くつかせると、芽依はストローラーを棚から下ろして試しにコロコロと押していく。
(何か、これも思ったよりも、押しにくいな…見栄えはいいんだけどね〜)
すでに試し押しも3個目。それぞれのストローラーを棚に戻そうと背伸びをするも、150しかない彼女には高い棚にストローラーを戻すのも一苦労。ようやくよろけながらも1つ戻した。無理な体勢で背伸びをしたせいか、やけにお腹が張ってる気がする。じわりじわりと襲って来る痛みにも脂汗をにじませながらも、折角夫が自分と過ごす時間を作ってくれたんだから楽しく過ごしたい。だが痛みは容赦なく芽依にのしかかって来る。もう我慢出来ないと彼女が、夫に残りのストローラーを棚に戻してくれる様に頼むと彼は、彼女を汚い物でも見るように睨みつけた。
ここで店員でも呼んで残りのストローラーを戻してもらえればよかったのかもしれない。
ただ、芽依は夫にまだ少しは愛してもらえてるんじゃないかと希望を持っていた。それさえも打ち砕かれ、震える手でストローラーの握り手部分に手を置いた麻衣子は、『本当に優しくないね〜』ソフトな口調でぽろっと口にした。それだけなのに、ウィルはこの事に対して猛然と怒りを露にして来た。
『意地悪なのはお前だ。俺はお前が嫌いだから優しくなんてしないんだよ!こっちは早く離婚したいんだよ。フンそれに俺は一言もお前に子供を産んでくれなんて言った覚えはない。お前が勝手にしてるんだろうが。大体その腹の子、本当に俺の子か?』
店内に響く彼の怒号にそれまで少し賑やかだった店内は、水を打った様に静まり返った。誰もが2人の事を見ている。誰もが哀れみの目で芽依を見ていた。
結局何一つ買わずに店を出た。ううん買わなかったんじゃない。公共の場で夫に心ないことを言われたことが悔しくて哀しくて買う気さえも起こらなかった。
家までの道のりの間、車内はお通夜の様に終始無言。家に着くなり夫は真っ先に戸棚にあるファイルを持つと車に飛び乗り何処かへ行ってしまった。
一体、自分のどの言動が夫の逆鱗に触れたのかわからず立ち尽くす芽依は、彼の車が曲がり角を曲がって消えて行くのを涙目で見つめていた。
後日、ウィルが持ち出したファイルが離婚届だったのだと。
誤字を訂正しました。